気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標(26)こころ静めて越える、胸突き八丁

2016-09-26 06:30:40 | 人間とは何か
1.尋牛、牛とはなにか尋ねる・・ 、
2.見跡、牛を自分で探してみる ・・
3.見牛、やっと牛の姿を見つける・・
4・得牛、ようやく牛を得ること、・・
5.牧牛、その牛を飼いならすこと・・

1.尋牛
ここでの牛とは、こころ、思考や感情、マインドである。
自分の思考、マインドに全く無頓着な意識レベルから始まり、

2.見跡
何か大切なものへの気づきが立ち起こり、自己探求が始まる。

3.見牛
自己探求においては、まず自分のこころ・マインドを発見することになる。
唯心諸元、
自己を自己として認識するのは、マインドの働きであることに気付くのだ。
私は誰それだ、個人だ、男だ、女だ・・
私は悲しい、うれしい、あれはダメだ、これは良いぞ・・、
すべてマインドの働きである。
スピリチュアルな知識への接触も、このマインドの多次元面の情報への接触である。

4.得牛
幸も不幸も自らのマインド内で創り出し、
感情でそれを実感しているということが分かってくる・・。
つまり創造とは何かに気づき始めるのだ。


5.牧牛
解ればものすごく単純な方程式だが、
しかしながら、頭で非常によく理解できる段階になっても、
こころの中の様々な轍(わだち)習慣になったパターンが残っているため、
その内面のパターンをさら地に戻す意識的作業が必要になる。
つまり浄化して、新たに組みなおす作業だ。

マインドがすべての原因だという明晰性を得られたものの、
こころの反応に癖が残っているため、
「そうは思うんだが、・・分かってはいるのだが・・」

いまだ他人の言動に影響され、物的条件で喜怒哀楽で踊りだす、
そういう心の癖が残っているため、
この浄化作業が、最も困難な意識的作業と言えよう。

このため、日常の生活が大車輪に使われている、
どうでもよさそうな日常の出来事、人間関係が、
どうでも良くない、貴重な修験道場ということだ。

ある意味で静かな修羅場を通過しているのである。

ここでは、常に自己との向き合い、マインドの観察と調律が求められる。

意識進化の大きな正念場。
これが「峠」越え。

大きくは、地球も、そしてそこに在る人々も、
今この峠越えに来ている。

問題は外の世界の混乱や出来事ではなく、
それぞれのわたしの意識内面のことなのだ。

マインドを鎮め、浄化ししてゆく行程、
4.得牛から、5.牧牛は、悟りの道を歩く人々にとって、
多かれ少なかれ、正念場、「胸突き八丁」である。