気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

読者応答編: 案ずるより、生むが易し

2016-07-15 05:28:12 | スピリチュアル雑感

そもそも「期待」というものが何かと言えば、<期を待つ>ということで、

「行動」とは、行い、行為、身体を含む自己表現とも言えるだろう。


例えば、今は<A>だが、<B>がよさそうなので、Bへの変化を「期待する」わけだが、

「期待」には、期を待つ・・時期を待っている、つまり動かないという要素がある。

・・・

つまり「期待」とは憧れや希望が起きているが、今は何もせずに待っている・・その時のことだ。

そして、それではダメだと気付いたら、何とかしようとして「行動」を始めるようになる。

そうではないか?

思考、思い、イメージがやってきて、感情として色付き、内面に湧き上がり、

それがいわゆるわくわくするような、夢と希望があるような想念となれば、

それを実現しよう、・・実際の身体経験として体験しようと、

様々に思考や身体を使って、「行動」するというプロセスだ。

これは日常生活でも、実に前向きでいわゆるポジティブな生き方だといえる。

また「思考」が「行為」に自然にシフトするわけで、

宇宙から来るエネルギーブロックや歪が少ない生き方となる。


まさに、案ずるより・・生むがやすし・・・ということだ。


「期待」と「行動」は、1セットになることを、・・期待・・されている。(笑)

期待だけでは、悶々とした歪が溜まりやすく、

その歪みを開放すべく行動に移すともいえようか。


「思考」は実際は、情報を伴なった高い次元のエネルギーであり、

その人の周囲、環境世界に示現、顕現、表現するのが、人の創造行為と言えよう。

人生とは多かれ少なかれ、それだ。

期待と行為、それは1セットになってこそ、人間の進化が起きるものだ。

・・

但し、「期待」の内容・・が、エゴ的なものか、利他的なものかによって、

地獄と天国の様相を呈することになる。


期待は期待でも、ワクワクするとしても、

例えばお金の蓄積だけや、他者の支配や権力奪取、富の独占だとしたら、

極めて個人的、利己的なものとなって、多くの他者を痛めることになり、


逆に例えば、より良き生活を真剣に実現しようということならば、

多くの他者に福利をもたらすことになるだろう。


今までは、残念ながら前者の利己主義的な期待と行為が主流のようで、

またそれが、にこやかで利他的な衣を着て、誤魔化されているために、

なんだか・・おかしい?世界から、とうとう嘘で固めたような世界となった。

今はもう、政治や国際関係、経済社会のひずみが、モクモクと噴出してきている。

今はもう、政治、経済、国際社会、すべてがガタガタになって崩壊中であることに気付いているだろう。


今までの様々な歪、カルマとも言えるものが、世界で噴き出してきているわけだが、


しかしながら、地球や人類の意在意識は、

地球環境の汚染や人的世界の精神的退廃をもたらした、

自我追及主義、競争至上主義という、

過ぎた利己主義という「思考」に飽き飽きしてしまった。


つまり「飽和」してしまったが故に、

この次元世界に新たな「転換」が起きているということである。



利己主義が超利己主義になって、それぞれがバラバラとなって、

システムの破滅が明確になったとしたら、どうするだろうか?

どうする必要もなく、破滅・・

しかしながら、それを転換と捉えることであろう。



期待と行動、そのネガティブ方向が・・破滅であり、

期待と行動、そのポジティブな方向が・・転換・進化である。


アセンションと言うのは、こういう稀有な時にあって、

あなたはどうするのか?と問われているのである。


バシャールさんたちが言う、第3密度からの次元上昇とは、

期待と行為、行動で表現すべきものは、自我エゴの肥大の為でなく、

大勢の仲間との協調、共生の為という、利他的なものが、

嬉しく楽しい世界に移行するということだ。


ある種の情報で、アセンションというもの、日本人が主導する等と言われるのは、

「えー、マジか?」と思うものだが、それは、

この「協調と共生の感覚」を色濃く持っているそのDNA(記憶)によっている。



どこにでもいる、目だたない、人の好い、素直で、正直な人たち・・、

第3密度ではそういう人達が、被支配者とされて、こき?使われてきたわけだし、

おバカよ、お人よしよ、子供よ・・平和ボケよと、冷笑されてきたかもしれないが、

それは逆に、そういう人達こそ、魂レベルでは、

歪や鬱積の少ない、軽やかな波動を持った存在なのである。

和気藹藹な軽やかさな、穏やかさ、静けさ、謙虚さにつながるだろうし、

そういう人達が多くいる世界は、感動多く、軽やかで楽しいものである。

すべてとは言わず、明治以前の日本の田舎には、そういう風景が点在していたのである。

明晰な観察者はそれを知っていることだろう。


例え知力、知識を蓄積しても、物質的富の蓄積には寄与するが、

魂の波動レベルには大きく寄与しない。

そうではなく、感情や、感慨、感動と言う「実感」こそが、

魂の成長の為の・・糧なのである。


感動しない映画は誰も見たくないはずだ。

また感動のない人生は、砂漠のようなものではないか。

そして感動とは、

あなたやわたし達にも経験が有るように、

どこか健気な、利他的行為を目撃したり、

嘘のない、純粋な、どこか無条件の思いやりを感じたとき、

決まって、

ハートから発して、喉を込み上げ、眼がしらを通じ、

頭部から上に噴き上げる、愛とも言われるエネルギーなのだ。

頭(知る)の時代から、ハート(感じ採る)の時代への転換、

そこには大きな次元ギャップがあるかもしれない。


・・・




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました

miffyさん、
すいません、こんな感じでまとめちゃいました。
これに懲りず、この際ですので、何でもどうぞ。

その他の方も、良かったらどうぞ。