そもそも「期待」というものが何かと言えば、<期を待つ>ということで、
「行動」とは、行い、行為、身体を含む自己表現とも言えるだろう。
例えば、今は<A>だが、<B>がよさそうなので、Bへの変化を「期待する」わけだが、
「期待」には、期を待つ・・時期を待っている、つまり動かないという要素がある。
・・・
つまり「期待」とは憧れや希望が起きているが、今は何もせずに待っている・・その時のことだ。
そして、それではダメだと気付いたら、何とかしようとして「行動」を始めるようになる。
そうではないか?
思考、思い、イメージがやってきて、感情として色付き、内面に湧き上がり、
それがいわゆるわくわくするような、夢と希望があるような想念となれば、
それを実現しよう、・・実際の身体経験として体験しようと、
様々に思考や身体を使って、「行動」するというプロセスだ。
これは日常生活でも、実に前向きでいわゆるポジティブな生き方だといえる。
また「思考」が「行為」に自然にシフトするわけで、
宇宙から来るエネルギーブロックや歪が少ない生き方となる。
まさに、案ずるより・・生むがやすし・・・ということだ。
「期待」と「行動」は、1セットになることを、・・期待・・されている。(笑)
期待だけでは、悶々とした歪が溜まりやすく、
その歪みを開放すべく行動に移すともいえようか。
「思考」は実際は、情報を伴なった高い次元のエネルギーであり、
その人の周囲、環境世界に示現、顕現、表現するのが、人の創造行為と言えよう。
人生とは多かれ少なかれ、それだ。
期待と行為、それは1セットになってこそ、人間の進化が起きるものだ。
・・
但し、「期待」の内容・・が、エゴ的なものか、利他的なものかによって、
地獄と天国の様相を呈することになる。
期待は期待でも、ワクワクするとしても、
例えばお金の蓄積だけや、他者の支配や権力奪取、富の独占だとしたら、
極めて個人的、利己的なものとなって、多くの他者を痛めることになり、
逆に例えば、より良き生活を真剣に実現しようということならば、
多くの他者に福利をもたらすことになるだろう。
今までは、残念ながら前者の利己主義的な期待と行為が主流のようで、
またそれが、にこやかで利他的な衣を着て、誤魔化されているために、
なんだか・・おかしい?世界から、とうとう嘘で固めたような世界となった。
今はもう、政治や国際関係、経済社会のひずみが、モクモクと噴出してきている。
今はもう、政治、経済、国際社会、すべてがガタガタになって崩壊中であることに気付いているだろう。
今までの様々な歪、カルマとも言えるものが、世界で噴き出してきているわけだが、
しかしながら、地球や人類の意在意識は、
地球環境の汚染や人的世界の精神的退廃をもたらした、
自我追及主義、競争至上主義という、
過ぎた利己主義という「思考」に飽き飽きしてしまった。
つまり「飽和」してしまったが故に、
この次元世界に新たな「転換」が起きているということである。
利己主義が超利己主義になって、それぞれがバラバラとなって、
システムの破滅が明確になったとしたら、どうするだろうか?
どうする必要もなく、破滅・・
しかしながら、それを転換と捉えることであろう。
期待と行動、そのネガティブ方向が・・破滅であり、
期待と行動、そのポジティブな方向が・・転換・進化である。
アセンションと言うのは、こういう稀有な時にあって、
あなたはどうするのか?と問われているのである。
バシャールさんたちが言う、第3密度からの次元上昇とは、
期待と行為、行動で表現すべきものは、自我エゴの肥大の為でなく、
大勢の仲間との協調、共生の為という、利他的なものが、
嬉しく楽しい世界に移行するということだ。
ある種の情報で、アセンションというもの、日本人が主導する等と言われるのは、
「えー、マジか?」と思うものだが、それは、
この「協調と共生の感覚」を色濃く持っているそのDNA(記憶)によっている。
どこにでもいる、目だたない、人の好い、素直で、正直な人たち・・、
第3密度ではそういう人達が、被支配者とされて、こき?使われてきたわけだし、
おバカよ、お人よしよ、子供よ・・平和ボケよと、冷笑されてきたかもしれないが、
それは逆に、そういう人達こそ、魂レベルでは、
歪や鬱積の少ない、軽やかな波動を持った存在なのである。
和気藹藹な軽やかさな、穏やかさ、静けさ、謙虚さにつながるだろうし、
そういう人達が多くいる世界は、感動多く、軽やかで楽しいものである。
すべてとは言わず、明治以前の日本の田舎には、そういう風景が点在していたのである。
明晰な観察者はそれを知っていることだろう。
例え知力、知識を蓄積しても、物質的富の蓄積には寄与するが、
魂の波動レベルには大きく寄与しない。
そうではなく、感情や、感慨、感動と言う「実感」こそが、
魂の成長の為の・・糧なのである。
感動しない映画は誰も見たくないはずだ。
また感動のない人生は、砂漠のようなものではないか。
そして感動とは、
あなたやわたし達にも経験が有るように、
どこか健気な、利他的行為を目撃したり、
嘘のない、純粋な、どこか無条件の思いやりを感じたとき、
決まって、
ハートから発して、喉を込み上げ、眼がしらを通じ、
頭部から上に噴き上げる、愛とも言われるエネルギーなのだ。
頭(知る)の時代から、ハート(感じ採る)の時代への転換、
そこには大きな次元ギャップがあるかもしれない。
・・・
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
miffyさん、
すいません、こんな感じでまとめちゃいました。
これに懲りず、この際ですので、何でもどうぞ。
その他の方も、良かったらどうぞ。
マッチョマンさん、こんばんわ!
返信記事どうもありがとうございます!
やっぱり両方必要なんですね! φ(・ω・ )かきかき
>これに懲りず、この際ですので、何でもどうぞ。
ありがとうございます!
ではちょっとさらに具体的な質問をさせて頂くと・・
マッチョマンさんの記事にも出てきた、政治に絡む話なのですが、
丁度先週の選挙で、面識はないものの個人的に応援したくなる人がいたのですが、結果は残念ながら、、
だったのですが、こういう時の効果的な応援はどういうのなんだろうか、、と思ってしまいました。
もちろんその方の今後の発展を想念で陰ながらに応援するのはもちろんなのですが、
行動としては自分の票を入れる(&知り合いにアピールしてみる)くらいしか思いつかず。。
かつ、ネットを検索してると、表に出ない情報にも色々遭遇するので、
「票をあつめたところでシステムが正常に機能してなかったら同じだなぁ、でもそこの部分の改善ってどうやって?」
と思い出すと、行動の一貫としてビラ配りを手伝うとかっていうのは何か違う気がしてしまい。。(^^;
色々考えていると政治の問題点などに焦点をあてるよりも、何も考えないある意味「お花畑」の方が
いい影響を与えるような気もしてしまい。。(少し前までどちらかと言えば意識的にそうしていたのですが、
最近改憲の話題がちょっと気になったりしていて。。)
さしあたり、自分の周りの世界は大変穏やかでありがたいので、政治のような大きな話は
全部お任せしちゃった方がいいような気もしてたりするんですよね。。(^^;)
期待と行動の話ですが、要るか要らないかはその時のその人の意識レベルによると思います。
その動機が期待であり、現実を期待に近づけるため、実現するための行為です。
まず平均的な人類意識は、今、ネガティブからポジティブへとシフトすべきだということです。
・・・
しかしながら、さらに、
ネガティブとポジティブを超えて、善悪、正負、どちらでもない、またそういうものはあって良し、無くてもよし、
事の本質に影響しないもの、
それらは単に陰影、現象、現れ、表現だと悟るならば、
特別な・・期待も行為も要らないという事になります。
それは言わば、在るがまま・・に近づくことです。
「在るがまま」・・とは、何もせず、ぼんやりしていることではなく、
下手な思考や、不安、計算、損得を超えた・・直感で行動するということです。
直感は・・思考が鎮まった時に、天から差し込む神の「思考」とも言えます。
「なんとなくだが、どうもこれ以外にない・・感じ」がそれです。
・・・
政治の話ですが、今は戦後の見えない支配が、悪あがき的に強くなって、選挙などもどこかでコントロールされていますかね。
それでも、律儀に足を運んで、神社参りの趣で、政治が良くなるように投票する人々が多いです。(私も・・笑)
・・・
確かに「期待と行動」ですね。
・・・
でもそれが、何処か見えないところで「反故に」されている・・わけです。(苦笑)
これは、もう外の世界、他の人も含め、何かしてくれるように期待して行為する・・例えば応援ですか、
そういう段階では無くなっていることを示しています。
大切なのは、「外ではなく、内だよ」・・でしょう。
大切なのは、「外の物質的なものでなく、意識の方だよ」でしょう。
ただ、真剣に政治を考えている人への共感と応援は、
出来る範囲で行ってあげればいいでしょうね。
不正をただす行為もそうです。
「見返りを求めない無償の行為」であれば。
・・・
外の世界は、いまとことん、いわゆる善悪と言うのか、分離と統合への方向というのか、2極化しています。
それも、どうもすでに、袂を分けた感じです。
・・・
なので、意識を鎮めて、ゆったりして日々を送ることが、
まず第一でしょう。
・・・
Miffyさんのコメントの中に、すでに上記のことが読み取れると思います。
現実化のための行為がいわゆる行動、ということですね(^^)
>「思考」が「行為」に自然にシフトするわけで、宇宙から来るエネルギーブロックや歪が少ない生き方となる。
この自然に、、というのがベストな気がしますね。まさに直感に従う、ということですね。
>意識を鎮めて、ゆったりして日々を送ることが、まず第一でしょう。
ですね(^^)ある意味毎日夏休みの子供のような気もします(笑)
選挙の件は、良き想念を送る&無理しない範囲で応援、、という事にしようと思います。
質問ついでにもう1つお聞きしてみたいのですが(笑)、
多くの人が望んでいるようなものに対して、実現できる人とそうでない人の差って何だと思われますか?
例えば去年の福山さんの結婚報道を見ていて、あれだけ人気があった人だったので、ファンの数も相当いたと思うので、
思いの強さでいうともっと熱心に望んでいた人はいたんじゃ・・と思ってしまいました。
ここでの質問と言うか、話題は首尾一貫しています。
期待、思い、行動、実現というフレーズで。
・・・
<多くの人が望んでいるようなものに対して、実現できる人とそうでない人の差って何だと思われますか?>
・・・
実現するということは、新しいフェーズに入ってそこから体験するということです。
例えば芸能人が誰か1人と結ばれるとしても、そこから生活や人間関係が新たに生じ、
それはまた結構大変な経験モードに入ってゆきます。
御目出度い・・のは初期のイメージだけで、後はそれなりの道を歩くことになります。
・・・
”魂レベルでそれが大きな経験や英知になるとならば、それが実現する”場合が多いと思います。
ああ「実現」した・・と言っても、それで終わりではなく、要は次なるステップへの移行を意味するわけです。それからがまた結構大変です。(笑)
・・・
単なる希望や、欲求、憧れ等は、それは単なる「期待」ですね。普通はそこで終わっていますね。つまり思考だけです。
・・・
そこから具体的に「動く」、意識的・物質的に行為する人だけが、期待を実現する方向に「動く」わけです。
魂レベルからの動機、チャンス、めぐりあわせが降りてきているのですが、それに「無意識的に・・気づける」ほど、期待と行為に「熱心」ならば、
・・あーら不思議なご縁・・いやー奇跡的だ・・という形で現れてきます。
そこに「差」があるわけです。
「多く」の人は思考で止まっている場合が「多い」です。
本来、人(魂)それぞれなのに、世間は同じ規格化が蔓延していますので、自分本来の必要性に気付けないという事もあります。
期待・・・行為・・・熱心さ(思考・・・実践・・・実感)
それまで行けば、天意・神・上位の魂の働きが確実に発動します。
人間は・・肉体・思考・感情で構成されており、
魂はそれで修行して進化・深化・拡大していますからね。
会話になっていますか?
後、この際気にせずなんでも、どうぞ。
>期待と行為に「熱心」ならば、
ふむふむφ(・ω・ )
自分の中の本気度、意図の純粋さをMAXにする必要がありそうですね。
>世間は同じ規格化が蔓延していますので、自分本来の必要性に気付けないという事もあります。
これは確かにありそうですね、、
芸能人だけでなく企業や政治などもイメージコントロールがされてますからね。。(^^;)
私があの報道を見たときに思ったのは、私の世界ではそういう現実を見たけれども、
すごく望んでいた人にとっては、その人の世界で実現化してる事もあるんじゃ・・という事でした。
他人のパラレルワールドには入れないので確認のしようはないのですが・・(笑)
>この際気にせずなんでも、どうぞ。
ではせっかくなので・・(笑)
マッチョマンさんってこれまでにこういう精神世界に関するセミナーなどに結構参加されたりしてきたのでしょうか・・?
ちょっと前から日本にいらっしゃるヒマラヤ聖者が気になっていて、
本は何冊も読んでるのですが、それ以上(本格的に学ぶ)となると合宿というものに参加になるようで、、
そういうのってどうなんだろうか、、と(笑)
参加された人の感想を読んでると素晴らしかったらしいので気になってる感じなのですが。。
とはいえ、さしあたり困ってる事もないので特に参加しないといけない強い動機もなく・・(笑)
実際にそういった人を間近にすると全然違うよ!といったようなご意見があればぜひ聞いてみたいです(^^)
ヒマラヤ聖者が日本に居られるのですか。
・・・
それに関わる書物は読んでいます。
「ヒマラヤ聖者の生活探究1~5」もそうです。
あと、「あるヨギの自叙伝」もそうです。
素晴らしいの一語です。
・・・
セミナーやらはそんなに参加していません。
特に高額な参加料が必要なものは避けています。(笑)
ただ若いころは、何か使命感みたいな感覚があり、あれこれと物色した経験もありますが、どれも今一でしたね。
・・どうも何か精神的な安住の地を求めていただけ・・ですか。やはり外側を探しているわけです。でもそれもその時は必要な事だった。
高校時代から、「山本佳人」さんという人とのやり取り、面識がありまして、そういう集まりに何度か出たことがあります。
既に昨年でしたか、他界されましたが、この方はいわゆる覚者・超能力者の部類の人でした。
でもまったく普通の人と変わりがありません。
違うのは外面ではなく、内面の開拓度です。
・・・
気付けば、自分は、この方の影響を大きくいただいています。有り難い事です。
・・・
こういう人方の特徴は、
『物静かで活動的』、
「内面を常に観ている」感じがあります。
内面を観ると言うのは、そこに在る外側の情報も観ているということですので、色々良く察知出来るものですし、
内面のノイズ思考がないので、現象化がスムーズで、
ちょっとした奇跡というか、シンクロと言うか、そういうものも多いです。
顔かたちや、衣服の奇抜さ、言動のパフォーマンスは、あるいは超常的な能力等は、あまり意味がありません。
こういう途上の人も同じ方向で、セミナー活動等されていますね。やはりそれも霊性の時代先駆者です。
また昨今は霊性に関するビジネスも盛んです。
余裕があれば、お店に行く感覚で参加も良いでしょう。
・・・
でも、それらは、
どのように自己内面が気付いてゆくかのためのもので、
そこに安住すべき何かがあるわけではないということですね。
こんな感じですけど。
そういうかたがいらしたのですね。(^^)
心の師と思える方がいるというのは大変ありがたいですよね。。
「あるヨギの自叙伝」、私も今読んでいますが、面白い本ですね。
昔はこういった方が沢山いたのかしら、、と思ってしまいました。
>あれこれと物色した経験もありますが、どれも今一でしたね。
>どのように自己内面が気付いてゆくかのためのもので、
>そこに安住すべき何かがあるわけではないということですね。
やはりそうなんですね。
しばらくは気が向いた時の自習を続けようと思います(笑)
マッチョマンさんは、色々と気づきがあった後、ブログに書かれてる内容を本として出版されなかったのは何か理由があるのでしょうか?
こちらのサイトを見つけた時、内容の明晰さに大変驚いたのを今でも覚えていますが、
本に出したら売れそうなのに・・(笑)と不思議に思いました。
単にその必要性がなかったからなんですかね(^_^)
自分で言うのも変ですが、やはりここは魂・意識の波動の高い方が観ておられるようです。(笑)
ここの内容は、いわゆる「探究者」の琴線に触れる内容ですが、
それが「非常に明確だ」と何度か言われたことに、嬉しさと驚きがあります。
「あるヨギの自叙伝」をご存知ですか・・・あれは虚飾のない、当人の経験を記した自叙伝ですので、あーいうものを「体験事実の記録」といっていいでしょう。
意識次元が違うと、嘘のように聞こえる内容ですが、常に、高次のことはそのように感じるものです。
・・・
自習ですか、懐かしい言葉ですね。
”それは在る”という本が最近出ています。ご存知ですか?
ヘルメス・J・シャンプという著者で、ナチュラルスピリットから出ています。所感では、とうとうここまで出てきたかかという感じの本です。
これはぜひ・・お薦めです。
あと、
普段の生活にありながら、その中に「瞑想」を入れるとよいです。瞑想を実習するだけで、気づけば確実に内面意識が変わることに気付きます。
ゆったりした(腹式)呼吸+静座、想念観察・・。
これはすぐにできますが、結構難しいですよ。
マインド、思考、こころの観察が出来れば、何事かわかってきます。
・・
確かに、本を出すのは常に考えていましたが、今まで技術の仕事で飯を喰ってきて、当然ながら、普通の生活でこれまた結構なことや気づきが多々あり、余裕がそうあったわけでもない・・と・・理由をつけていますが・・(笑)。
・・
簡単に発信できて、誰でも読めるブログが良いと思いました。
出版は、仕事柄・・「費用対効果」なんて考えてしまいます。(苦笑)
今、毎日100以上の個別アクセスですので、一元さん、常連さん入れて、日本で多分数百人以上の方が知っていると感じます。
内容からして、常識観念からは何が何だかなのに、
良くここまで観ている方がいることに、感慨深いものが有ります。
例えば誰かが昔のように辻説法しても、人は聞く耳持っていない時代ですから、規模は小さいながら、わたしにとっては、実に有り難く、嬉しいことです。
>”それは在る”という本が最近出ています。ご存知ですか?
そんな本もあるのですね!(^^)
ちょっと今度ぜひ手にとってみますね!
最近、この前のベインさんの本や「あるヨギの自叙伝」などスバラシイ書に巡りあう事が多くとても嬉しいです(^^)
>普段の生活にありながら、その中に「瞑想」を入れるとよいです。
「瞑想」、本格的にどこかで学んだ事はないのですが、
自分なりの自習・学びを続けているうちに、すっかり心は静まりかえってしまったんですよね。。
常に「シー・・ン・・・」という感じで、時々目をつむってみたりしますが(笑)、開けてる時と特に違いがなく。。
心の穏やかさはこうなる前後で別格なので、ありがたいかぎりですが、
昔あった内側から駆り立てるような感じがなくなってしまったのはちょっと寂しいような気も(笑)
ただこの状態が「瞑想」の達人から見た場合にこれであってるのかどうか(所謂「理想」の状態なのかどうか)自分ではよくわかりませんが・・。
>確かに、本を出すのは常に考えていましたが、
やはりそうだったんですね!(^^)
確かにヒットさせるには内容が素晴らしいだけでなくマーケティング戦略とかも必要になりそうですもんね。。
マッチョマンさんの過去記事に「かごめ」の歌に関するものがありますが、
「かごめ」や「君が代」などの歌は元はヘブライ語だったとする説をご存知ですか?
真偽のほどはわかりませんが、「君が代」のヘブライ語訳がなかなかの内容で個人的には結構驚きました^^;
「君が代」の音が古代ヘブライ語で意味が通じるという話は知っています。こじつけではないものが有りますね。
古代日本と古代ユダヤ地方に何か共通の文化があったということでしょう。
古代イスラエルの12氏族の1つが日本に渡ってきた等・・とされていますが、これは比較的新しい時代の、里がえりのようなものでしょう。異端とされている竹内文書などには、逆に日本の地が世界の中心だったと書かれています。
今の世界の常識こそは、その多くが、繰り返されて定着してしまった「非常識」・・嘘が多いものです。
・・・
なるほど、瞑想はされていたんですね。
静けさは、何も無いのではなく、実在に近いという事、
これは頭ではわからず、体験・経験・それに在ること・・でしかわかりません。
実・際・に・在る・・こと・・・・それは思考や知識とは次元が違いますね。。
副次的に、こころが穏やかになり、マインドの擾乱も少なくなります。まず、内なる王国が平安ということでしょうか。
・・・
「駆り立てるような何か」・・に意味があるとすれば、
そのマインドの大波の見えない原因に気付くためだったのかもしれません。
・・・何かをしなければ・・という衝動は、何か意味ありげですが、単に何かをしてもおさまらない・・ということです。
だから、瞑想した・・しているその行為はまさに正解の方向だった・・とも言えますかね。