魂という「わたし」の本質は、時間空間に制約をされていない。
今この地球次元で生活している人々の多くは、その意識の集中する先が、
「波動の粗い」といわれる、いわゆる物質環境レベルに特化していると言うだけの話である。
つまりここは物質次元だけを観ている、あるいは観るような仕掛けの世界であると言えよう。
魂は、簡単に言えば極めて高いところから低いところまでを領域とする、
意識・意図を有する無限層にわたるエネルギー波動であると言って良く、
その低いところの波動は肉体・物質レベルであり、
生体エネルギー、思考や感情などより波動の高いところの層が、いわば高次元の波動帯と言って良いだろう。
いわゆる、こころが美しい人は、波動が低いわけがない・・。
そして通常今までは、3次元などと言われる世界では、低い波動レベルの、範囲の狭い世界だけを観察しているということだ。
これは世間一般が、常識全般と言う、見えるだけのごく小さな波動領域に、その意識を特化していることを示している。
良いとか悪いとか言うべきものではないが、それは極めて狭い範囲のものでしかない。
魂という「わたし」の本質は、時間空間、つまり我々の日常生活環境、地球環境だけにとどまらず、より広範囲の次元で「活きて」いるのである。
多くの人達の意識が狭い世界に固定されていた・・気付きの意識が広がっていなかったともいえようか。
簡単に言えば、何を信じ込んでいるのか、と、そういう話でもある。
・・・
したがって、例えば人が死んでしまう・・という現象は、
その低次元レベル、物質波動レベルの自己層の一部がこの世界との同調を外れ、
最外層の波動帯はその役目を終えて解脱することを意味しており、
本質たる「わたし」が失われることでは決してないのだ。
たとえ青空が曇っても、夜になって何も見えなくなっても、太陽がなくなるわけもない。
だから人間が死んだということは、その魂:本質の、外側の衣服を、単に脱いだだけのことなのである。
生命は多次元層、また多層のエネルギーで構成されているわけで、
昔の十二単(ひとえ)衣装のように、あるいは洋服にしても、季節・環境に応じて頻繁に取り替えるようなものだ。
こういう多次元的な生命としての魂、あるいは「生命の本質」に関して、その側面をよりよく理解できるのはいわゆる「臨死体験者」の経験報告である。
・・・・
下記は、「アニタの臨死体験」というあるサイトの抜粋であり、ここに表現されていることは、多次元的な「わたし」の本質が、生と死の狭間の体験として非常に参考になるものである。
わたし・・という意識主体が、時間空間を超えており、肉体・物質レベルのさらに上位の本質は、エネルギーの多次元層を含み、
その本質は、言わば愛で充満せる空(くう)、あらゆる全ての母体である空(くう)、
そしてそこに生じている無限の可能性を持った意識と意図であるという表現が妥当であることがわかるだろう。
人は進化のプロセスを楽しむ神自身であり、神の子であるというのも、
そう言った事実を示す別の表現なのである。・・・
アニタの臨死体験
今は、こういう事実報告が多くなされるような稀有な時期でありながら、
常識ではすぐには信じられないのは、常識という「固定」観念からして当たり前であって、
しかしながら、全くそれに気づかず、知らず、あなた任せ、世間任せの意識レベル、
見えない揺りかご的支配に諾々としている状態は、もう既に卒業すべき時にある・・という、
慈愛のこもった宇宙レベルのメッセージとも言えよう。
政治や経済がどうなるこうなる、世界情勢がどうのこうのと言う情報も、
第三次世界大戦がありそうだとか、そういう外の世界の急変事象も、
それ自体大切な観察行為であるものの、
今まで馴染んだ地球という「時間と空間の急変」を察知し、眠っている時間の短くなった今の時点で、
それを観察している・・わたし・・とは、
あなたとは何者なのか、わたしとは何者なのか?
そういう問いかけとその探究、求道こそが、今喫緊のテーマなのである。、
人として、生れていることはどういうことなのか?
人として死ぬということは、どういうことなのか?
「今までも」そうであり、また「今ここ」でもそうであるように、
その問いかけと自己探求の先に、
その魂:本質にとっての体験の場、
新たな次元が展開して来るのだ。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
次回は勝手ながら「アニタの臨死体験」の補足説明の予定です。
今この地球次元で生活している人々の多くは、その意識の集中する先が、
「波動の粗い」といわれる、いわゆる物質環境レベルに特化していると言うだけの話である。
つまりここは物質次元だけを観ている、あるいは観るような仕掛けの世界であると言えよう。
魂は、簡単に言えば極めて高いところから低いところまでを領域とする、
意識・意図を有する無限層にわたるエネルギー波動であると言って良く、
その低いところの波動は肉体・物質レベルであり、
生体エネルギー、思考や感情などより波動の高いところの層が、いわば高次元の波動帯と言って良いだろう。
いわゆる、こころが美しい人は、波動が低いわけがない・・。
そして通常今までは、3次元などと言われる世界では、低い波動レベルの、範囲の狭い世界だけを観察しているということだ。
これは世間一般が、常識全般と言う、見えるだけのごく小さな波動領域に、その意識を特化していることを示している。
良いとか悪いとか言うべきものではないが、それは極めて狭い範囲のものでしかない。
魂という「わたし」の本質は、時間空間、つまり我々の日常生活環境、地球環境だけにとどまらず、より広範囲の次元で「活きて」いるのである。
多くの人達の意識が狭い世界に固定されていた・・気付きの意識が広がっていなかったともいえようか。
簡単に言えば、何を信じ込んでいるのか、と、そういう話でもある。
・・・
したがって、例えば人が死んでしまう・・という現象は、
その低次元レベル、物質波動レベルの自己層の一部がこの世界との同調を外れ、
最外層の波動帯はその役目を終えて解脱することを意味しており、
本質たる「わたし」が失われることでは決してないのだ。
たとえ青空が曇っても、夜になって何も見えなくなっても、太陽がなくなるわけもない。
だから人間が死んだということは、その魂:本質の、外側の衣服を、単に脱いだだけのことなのである。
生命は多次元層、また多層のエネルギーで構成されているわけで、
昔の十二単(ひとえ)衣装のように、あるいは洋服にしても、季節・環境に応じて頻繁に取り替えるようなものだ。
こういう多次元的な生命としての魂、あるいは「生命の本質」に関して、その側面をよりよく理解できるのはいわゆる「臨死体験者」の経験報告である。
・・・・
下記は、「アニタの臨死体験」というあるサイトの抜粋であり、ここに表現されていることは、多次元的な「わたし」の本質が、生と死の狭間の体験として非常に参考になるものである。
わたし・・という意識主体が、時間空間を超えており、肉体・物質レベルのさらに上位の本質は、エネルギーの多次元層を含み、
その本質は、言わば愛で充満せる空(くう)、あらゆる全ての母体である空(くう)、
そしてそこに生じている無限の可能性を持った意識と意図であるという表現が妥当であることがわかるだろう。
人は進化のプロセスを楽しむ神自身であり、神の子であるというのも、
そう言った事実を示す別の表現なのである。・・・
アニタの臨死体験
今は、こういう事実報告が多くなされるような稀有な時期でありながら、
常識ではすぐには信じられないのは、常識という「固定」観念からして当たり前であって、
しかしながら、全くそれに気づかず、知らず、あなた任せ、世間任せの意識レベル、
見えない揺りかご的支配に諾々としている状態は、もう既に卒業すべき時にある・・という、
慈愛のこもった宇宙レベルのメッセージとも言えよう。
政治や経済がどうなるこうなる、世界情勢がどうのこうのと言う情報も、
第三次世界大戦がありそうだとか、そういう外の世界の急変事象も、
それ自体大切な観察行為であるものの、
今まで馴染んだ地球という「時間と空間の急変」を察知し、眠っている時間の短くなった今の時点で、
それを観察している・・わたし・・とは、
あなたとは何者なのか、わたしとは何者なのか?
そういう問いかけとその探究、求道こそが、今喫緊のテーマなのである。、
人として、生れていることはどういうことなのか?
人として死ぬということは、どういうことなのか?
「今までも」そうであり、また「今ここ」でもそうであるように、
その問いかけと自己探求の先に、
その魂:本質にとっての体験の場、
新たな次元が展開して来るのだ。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
次回は勝手ながら「アニタの臨死体験」の補足説明の予定です。