気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今起きていること(16)魂の宿題は、それ、今直視すべし

2015-08-19 07:04:02 | 地球の一大変容
●生と死は単に「生命」のサイクルのこと
人の寿命を仮に70歳とするならば、その人生は、70×365日ということになる。
365日が70回、なんと短いものだと感じないだろうか。

人は毎日起きて、生活し、夜寝ることを繰り返しているが、それは毎日死んで再び生まれ変わっているとも言えるのだが、
「記憶」が昨日、今日、明日で続いているためにそんな風には考えもしないものである。

「わたし」は・・・続いていると知っているだろう?

表面・顕在意識が消えて「潜在側」に移行することが睡眠であり、

表面意識が再び「顕在側」に移行するのが目覚めている状態であり、

その繰り返しが人生の毎日ということである。


睡眠恐怖症でないかぎり、自分の「顕在意識」が寝ることは怖がる人はいない。

「わたし」は消えたのではなく一時的に無くなったように見えるものの、再び朝目覚めること、つまり「わたし」が再生することを知っている為に、別に何の恐れもないはずである。

そうではないか。

●前世の記憶とは魂の記憶のダウンロードのこと
まさに人の生と死、死と生は、これと同じようなものなのだが、

それに気付くかどうかは、いわゆる前世の記憶というものが有るのかないのかという事にもよるわけである。

人は多くの場合この世界で「オギャー」と目覚めても、つまり生まれ変わっても、全く前世の記憶のないサラの状態のまま生れ、成長することになる。




持続する魂の記憶のこと等まったく知らない、価値を認めないタイプの文化・文明、現実対応だけに慌ただしい、大きな機械のような文明の中で生れて成長せざるを得ないためである。

目に見える物的形態のみが、その存在する全てだとする刹那的文化、「物質偏重文明」では、継続する生命の記憶要素などという概念すら眼中にないわけで、

眼中にないからには「認識」も生まれず、認識されないものは「事実」として現象化しないということになる。

つまり、魂の記憶は顕在化することなく、また活用されることも稀で、常に一から出直しのような文明と言えるだろう。

だから、進化したように見えるのは物質加工に関する科学技術だけなのである。

精神の深化とのその相対的なアンバランスが、現代文明の行きづまり、飽和と、必然たる崩壊とリセットにつながるのである。

シーソーは片側だけでは動かない。

双発ジェット機は片肺飛行では続けることが出来ない。

●天才とは魂の情報の活用者
稀に天賦と言われる才能を幼児期から発揮する天才は、魂の記憶の一部が無意識ながらも漏洩した存在のことである。

漏洩と言ったのは、自分の魂的な情報を知らない間に、ある分野だけに特別な才能が出ている天才という意味だ。大した訓練もなく、いきなり作曲を始めたような、かのモーツアルトなどは天才の典型とも言われている。

しかしながら、天才も何も特別な存在ではなく、修練すれば誰でも可能なことを、特別な修練なく行えると言うだけの話であり、崇め奉るようなことでもない。

肝心なのは、断片的、スポット的で、「ドカン」と一発だけの線香花火ではなく、持続する意識生命体であるさらに<壮大な規模の「自己」への自覚>があるか・・ないか・・ということである。




●今まで覚者は極少数派
もちろん、人類の一部にはそういう、覚者や聖者と言われるところの、魂レベルの自分、本質的な自己の霊的事実を知る、ごく少数派といえる人々も常に存在しているのだが、

そういう魂の開花レベル、意識レベルの格段に高い人々は、決して「口角泡を飛ばす」ような自己宣伝などするはずもなく、

行うとするならば、なんという事もない静かな説得、それに気づける人びとだけが霊的進化を助けられ、この混濁世界で魂自らを浄化・昇華せしめ、卒業してきたのである。



肉体、物質環境だけでない、それを知覚し制御するところの知的・精神的レベル、そして幾多の人生をも統合した「わたし」意識・・すなわち魂。意識を有する、より壮大な霊的・魂レベルの自己の気付きにある者は極少数派であったということだ。

3次元世界等とも言われる世界、今までのこの世界はそういう世界だったのだ。


確かに、人類が物質環境ばかりに目が奪われてアクセクしている様は、確かに普通の動物に高度に知的な能力をつけて、ちょっと複雑な形で動いているだけのようなものであり、

逆に動物達の様な自然とのつながりと「直覚」がない分、思考の渦巻くだけの「無明」の世界の中で繰り返し生きてきたようなものであるし、またその自覚すらもないという有様である。

そういう悲喜劇の充満する存在世界は、確かに魂の目覚めにとっては極めて厳しく、また逆に極めて得難いプロセスを経験できる世界でもあったというわけだ。

ご理解可能であろうか。

●カルマは歪エネルギーの活用手段
こういう分けがわかった様で、実は全く分かっていない世界では、

様々な歴史の流れ、人々の思惑や思考、観念が常に混乱を伴って流れている為に、その様々な流れあるいは時代の潮流に巻き込まれては、当然それぞれはその「結果」「果実」を刈り取ることになり、

その人々の自らの「思考と行為」による「収穫」が、我が身を蝕む様な「毒果実」であった場合には、いきおい「恐怖」や「怒り」等が生じることにもなるわけで、繰り返されるそういう類の「こころの歪」のことを「カルマ」と言って良い。

何回も生まれ変わるたびに、そういうカルマを蓄えては⇒解消・昇華するというプロセスが、いわゆるこの世での「輪廻転生」というものだ。




確かに、勉強でも何でもそうだが、改善しようという意思が背後にあれば、1回では良くわからないことは、解るまで何度でも繰り返すことは誰でも経験している事であって、

またそれは苦しいと言うよりは・・やりがいを感じていることなのだ。

そうだろう?

●カルマは矯正すべきこころの癖
カルマとは何かというと、それは「こころの癖」「こころの歪み」という事が出来る。

何度もこの世界に生まれるのは、どこか相当に無知なる人間社会での、こころの歪の蓄積⇒解消の繰り返しによって、次第に「魂」が成長・開花することを望んだためなのである。

この地球の人間世界は、それぞれの自分自身が魂的存在、肉体を超えた多次元、高次元的存在である・・・ことをほとんど知らない者たちの集まるフィールド・表現場であったために、

人々は往々にして、生れてからも、何が何だかわからない状態の人間関係の「狭間」で、何とかかんとか、目先の生存、生活を目的として人生を送ることになり、

何が何だかわからない状態で、また死んでゆくことで魂の学習が中断することになり、

それを補うために、何度でも転生をする仕組みなのである。

●知らないと言うよりも、知ろうとする意識行為が重要
そのような恩寵としか言いようのない輪廻の仕組みによって、こころの歪みを最も効果的に「解消・昇華」出来る環境、時代、地域、人間関係のなかに生まれ変わるわけである。

なぜかと言えば、それが魂の成長、骨太戦略のようなものだからである。

あなたやわたしが、今ここに、そこにいる分けはまさにそれだ。

「おれは知らない!・・えー?聞いてないよ」というかも知れないが、

それはその存在の「意識」が、肉体レベルの極せまい「私」意識に固定されているからであり、さらに大いなる「魂・意識」から勝手に離反しているだけなのだ。

「えー?俺は聞いてないよ~」と・・・、自分には何も関係しないような意識自体が、

無知でありながら、尊大で自己中心であることを示すはずである。

・・・

外側の物理的経験と、複雑だがその鏡像関係にある内面との「整合性」が取れるまでは、そういうサイクル、つまり生まれ変わりという繰り返しも必要だという事だ。

そして、魂の記憶とはは、カルマの記録帳、宿題帳のようなものとも言えるだろが、

それに描かれている内容は、即ち、今のあなたの「こころ模様」から読み解いていかざるを得ない。

そしてあなた自身が、いったい何であるかという問題意識、探究すべきテーマとしてそこに出てきていることに・・・気付かなければならないはずである。

●こころを観ることが出来れば良い
またカルマとは、宿題帳に書き込まれた様々な、こころのパターン、図柄、ノウハウ、情報は即ち魂の成長の記録と言えるものであれば、

何をおいても、自分のこころを・・自分で観るようになる必要があるということだ。

これは自明の理ではないか。

そして、様々な人格を演じた人生の記録、その孤軍奮闘、苦心惨憺で描き込まれた宿題帳、すなわち「今のこころ」を・・・心静かに眺め、どこか愛おしく懐かしむことが出来るまでになれば、その魂は「幼年時代」を卒業したという事である。

自らで・・・生き様での「歪」も「輝き」も生み出すところの、

自らの・・・意識の働きである「こころ」を静かに眺めることが出来るならば、

なるほど結果として、既に魂の幼年期を懐かしむまでに成長したということなのだ。


観自在、自らが在る事を自らで観る・・体だけでなくこころを含めた自己観照が出来る段階まで至れば良い。

こころを観ることが出来るならば、身体及びそれを認識するところの、こころ・マインドまでが・・・あなたの「観察対象」ということになるわけで、

あなたは、体でも、こころでもない意識の座に昇ることにる。

つまりそれらを含みつつ、またそれを超えたということである。

シンプルであるが、実にそういうことなのだ。




本日も拙い記事をご覧いただき、誠に有難うございました。