「過去」とは<今>という瞬間の変化の「記憶」でしかない。
それ以外の何物でもない。
誰にも、皆、常に<今>が実在するのみである。
過去は「記憶」であり、未来は「記憶となり得る・・無限の可能性」なのだ。
これは誰も皆、十分実感すべき、当たり前の事実である。
数分前のことも、数日前のことも、数十年前のことも、
そして生まれる前のことも、また他の時代、他の世界、あるいは他の次元宇宙世界のことも、
今、ここ・・この今・・・記憶にあるとも言えるだろう。
例え狭い表面意識が、常に何かにカカズラワって注意を外されていたとしても、
それはそれ、いわゆる潜在意識が記憶しているのだ。
あなたやわたし達の意識は、無限に拡大しつつあるということ。
それを池に落ちる水しぶきで判然と悟る者もいるだろう。
過去も、現在もそして未来も・・・、
それらは全て・・・今在る・・・ものである。
これは誰も皆、十分実感すべき、当たり前の事実である。
これに気付くと、当然ながらそういう過去:記憶も、<現在>に少しづつ蘇ってくるようになる。
あの時代に<われ在り>、あの世界に<われ在り>、あの宇宙に<われ在り>は、
変な話、当たり前の記憶として少しづつ浮上してくるのである。
ただその可能性の追求、魂・意識の自然な方向、ベクトルを感知しなければならず、
すなわち、小さく局限された観念を打ち破り、無限の景色を見上げる意図が必要なのである。
自らの意識に起動を駆ける、すなわち自らで目覚める必要があり、そうでなければ、
この今は・・・あなたという自由な鳥を幽閉するカゴメの籠に終始するかも知れない。
これは良し悪し、結果オーライや失敗、喜びや嘆きなどという範疇のものでもない。
なぜなら、
そしてそれに・・・籠の中の鳥は、自らの幽閉、それ自体にすら、気付かないからなのである。
・・・
ちょっと思考実験をやってみよう。
頭が痛くなるかもしれないが、
何か直観が生じればしめたものである。
・・・
今 生きてあるこの瞬間
ふと気付けばだれでも分るように、それを敢えて言葉で言えば、
今の「瞬間」とは、無限に続く瞬間・・・零(ぜろ)点の連続のことであると言えようか。
この ”無限の零点” 、瞬間・・という意味が、現象世界に浸っている、騒がしく忙しいだけの「意識」には理解が出来ない。
その、有るようで無いような・・・瞬間の時「点」とはなにか?
頭では、わかった様でわからないもので、要は最期までビジュアル化できないわけだ。
ちがうだろうか。
例えば、有るようで無いような・・瞬間の「点」を簡単な数式で表わせば、
零(0) ≒ 1/∞(無限大)
ということにでもなるだろうか。 ∞は誰でも級数で習ったことがあるだろう。
これを変化させれば 零(0) × ∞(無限) ≒ 1 ということになる。
無 × 無限 ≒ 1 ということ? ・・・なんだこれ、といっても実際の数学である。
限りなく 1 とは、 零(0)の無限数で出来ている、という意味になる。
一体全体どういうことかわからなくなるかもしれない。
0が無限にあったら1になる? 一体なに? どうして? であるが、
また、 ∞(無限)・・・って言うけど無限といえば、
「どこまで行ったら果てがあるの?」 みたいな感覚もあるはずである。
ゼロも無限も・・・扱ってはいるが、正直、「よくわかんね~~!」 という事なのだ。
「ゼロ」は、箱の中に1個もない空っぽ状態等というイメージで、なんとなくわかる気がするが・・・・
「無限」って・・・どこまで無限なのか、・・・?また、そういう問い自体も変である。
マジ、意味不明・・・・でしかない。
要は、人はそれをビジュアル化できないのだ。
また、最終イメージに到達できないともいえるだろう。
これは宇宙の向こうに、何処まで行ったら果てがあるのか?という、孫悟空や天文学者の問いと同義である。
しかしながら、
だから、「無限」なのである。 お分かりだろうか?
つまり・・・・わからないのである!(大笑)
またこれは、
我々のありきたりの、現在・・・今は、 普通にこまごまとしている生活、泣いたり笑ったり、怒ったり、批判したりしているこの今の時点は、
極みない・・・・局限されない、無限が・・・ベースにあるということである。
そして、その無限は最終的にビジュアル化、イメージ化が出来ないということだ。
だから無限(かぎりなし)なのだ・・・。
要は、頭では、論理では、思考ではいつも常に「限度」があるということである。
無 × 無限 ≒ 1
これを直観的に解釈すれば、「色即是空、空即是色」を意味しているだろう。
色(しき)とは、現れ出たもの、事象現象を意味し、
空(くう)とはなんでも生まれる無限の意識という母体である。
無×無限 ≒ 1
空即是色、色即是空、
空(くう)は すなわち 色(いろ)なり、色(いろ)は すなわち 空(くう)なり
一即多、多即一
ひとつはすなわち無量なり、無量はすなわちひとつなり
このわかった様でわからない言葉にはまた、
< 何も無いところに次々と光を持ち来たらせよ! >
< 自らを無限に生み出し、極み無き創造に参加せよ! >
そういう原初の意図が・・・聞こえないだろうか。
今のこの瞬間、今のあなたやわたし、全てのものは、常に、
今、この・・・瞬間・・・に創造されているということだ。
今までも、これからも、そうである。
そう、生と死も単なる変化でしかない。
140億年前の過去、宇宙が創造された・・・わけではなく、
また50億年前に地球が創造された・・・わけではなく、
進化、変化を生み出しつつ、今、この瞬間に創造され・・・ているのである。
得難い数々の記憶は、体験、経験の学びの成果であり、決して不変の過去の時間のことではない。
そう・・・、宇宙創造は過去でなく、いま、常にこの瞬間に・・・行われているのである。
人間のイメージする過去とは、気付く、気づかないにかかわらず、ぞの創造の実りたわわな、毎瞬毎瞬の魂・意識の収穫のことなのだ。
言わば、過去時間など、何処にも存在しない、影法師なのである。
過去にこだわる者は、苦悩や誤解を懐かしみ、
未来にこだわる者は、今を嫌っているのかもしれない。
未来も、過去も、今この瞬間に在る!
従って多くの人々が、今この瞬間というリアリティーに気付ける意識レベルに到達するならば、
過去も、未来も・・・今現在・・・観ることが出来るようにもなるのだ。
これは抽象的でわかったような観念論ではなく、より広い意味での科学的な体系なのである。
自らを解き放つ・・鍵は・・・今・・この時、この瞬間にある。
嗚呼、朋よ・・・そうではないか?
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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