誰も皆、次から次へと流れてくる時間の中で、とりあえず昨日、今日、明日を生きていることだろう。
誰も皆、今日も有った、明日もあるだろうという慣性の中で、考え、発言し、行動しているはずである。
それを繰り返すうちに色々な出来事を観て、こなして行くうちに人生観、あるいはその人なりの人生の全体像が醸し出されてくるのである。
だから人生を生きている間に、人とはこういうものであるとか、社会はこういう仕組みであるとか、企業はこうだとか、世界は今こういう仕組みで動いているとか、そういうものも見えてくるようなる。
また次第にその中で、良いもの悪いもの、正当なもの不当なもの、表立ったもの、陰に隠れたものも観えてくるようになるわけだ。
そういう人々が、社会の知恵者、知識人等とも呼ばれるようになり、またそれを職業にした者は評論家と呼ばれるようであるが、それは多分出来事の集大成と分析がうまくなった人たちとも言えるだろう。
膨大な事象の分類と整理、その背後にある原因を追究する思考が際立っているということだ。
しかしながら、事の本質のもっと深部にあるものを避けて通っている場合もあるようでもある。
そういう意味での賢さは、やはり旧態依然とした常識の中での上澄みに過ぎないといことであろうか。
あるいはまた、ぎりぎりの限度内での人々の気付きを促すためでもあるだろうか。
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ある段階で、人間の動き、社会の動き、世界のうごめきの、その背後にあるものは全て、人間の想いや思考、意図によって生じていることが分ってくる。
要するに人間社会のあらゆる物事は・・・「主観」で出来ているということが分ってくるのだ。
なんともはや、相対的極まりないもので社会は構築されているとも言えるのだが、これを前面に掲げると、あらゆる物事がすべて主観となってしまい、めいめい勝手な想念で終止が出来なくなるために、
その中に合意や共通点を探し出して、それを共通現実として社会、世界の仮のフレームを決めているというわけである。
それが社会や国家や世界の現実的なルールとされているのである。
しかしながらそれらは全て「想念形」であることに変わりはないのである。
例えば、人間の超常といわれる能力、テレパシーや、スプーン曲げ、臨死体験など、ある人には理解出来たり実施したりできるが、ある人には全然理解ができず、経験すること等は全く論外となるのも同じ理屈なのである。
それらが理解が出来ないからトンデモという範疇のものであるわけではなく、
それを認識できるかできないかの違い、
想念形の違いである。
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今の物質文明では、物や金の動きばかりを取り上げている風潮になっているが、
実のところは、集団という不特定他者の総合された想念や、あるいは、ある方面で意思決定をできる者達がその想いを、組織だって、物や金の量に換算して・・・・形に顕しているにすぎないのである。
結局は、全ては「想念形」なのである。それを誘導するのが催眠ならぬマインド制御なのだ。
どんな評論分析であっても、背後にある様々な事象を証拠に上げて論ずる文章であっても、陰謀を暴く秀逸な解説であっても、
すべては人の「想い」とその「表現」・「行動」を・・・説明、解説する・・・ところの「想念形」に他ならない。
また問題なのは、それらにそれさえも全く気付かない人々なのであろう。
例えば、
政治家は親のように自分たちの為の政治をしているはずだ・・・などという想念形に固まった無責任な人々でもあろうか。
偉い彼らが言えば、放射能もないものとして信じてしまうようである。
出てきた事象は、その出所の想念形を変えなければ決して変わるものではない。
単に、忘れれば・・・・それが消えるようなものではないのだ。
原因となる「想い」を変えて、さらにその方向に必要な、その想いが確実であることの証であるところの「行為」をしなければならない。
なぜなら、放射能も大気汚染も、まことしやかな争いも全て人為的なものであるからだ。
これも、人の想念とその結果なのである。
無責任に、都合よく大自然が清浄化するということにはならない意味合いの事象である。
・・・・もし大自然が対処するならば、その元にある人間の想念こそを浄化するであろう。
ある意味でそういう瀬戸際にあることに気付けるだろうか。
嗚呼・・・・、今のままでは、大いなる苦痛を伴った大自然主体の浄化が行われるだろうからだ。
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文明も文化も、形に現れた人間達の「想い」とその表現型、生成物に他ならない。
つまり・・・人間社会のカテゴリー内では、ニュースとか事実とか出来事とか言っても、その100%は人間の想いの現象化、表現型とその解説、報告、観想、意見、評論に過ぎないということだ。
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従って、尤もらしく社会の「現実」だとか「事実」だとか「出来事」だとか、さも客観的な事象とされていることもそのあらゆる物事が・・・「想念」によって出てきている・・・いわば「主観的」なことなのである。
それをあたかも世界の現実だとか、また変えようもない事実だとか、そういう漠然とした「想念」で終始している人が多いという事でもある。
要は、社会は・・・全て・・・想念形なのだが、当たり前のようにそれに気づいていないとうことだ。
色々な建物、道路、航空機、機械類、法律、条令、コンピュータ、乗り物、ロケットや人工衛星でさえも、それは人間の思考の物質的形態を伴った「想念形」、想念の産物なのである。
現れた大きな機械、固い構造物等をみて、それが客観的に存在する物であるとしているわけだが、
それは想念の表現形態に他ならないこと・・・・それこそが「客観的事実」なのである。
また、
科学的なことの1つの証拠としての「再現性」が言われることがある。
再現できることには科学的根拠があるというのがそれである。
再現できる道筋を説明したものが科学的「法則」とも言われている。
そして、それこそは主観的でなない・・・「客観的」な事だともされているだろう。
だから、目に見える物質形態、出来事、大勢の人が認識できるもの以外は真実ではない・・・という観念となるのである。
大勢の人にとって再現性のあるものこそが、客観的、科学的なものである、ということだ。
しかし法則さえも、宇宙の諸物、諸現象の1部を説明しているところの、「主観的認識」なのである。
また特異とされている人間の様相、前世記憶や、幽体離脱やESP現象などは、すでに科学的な再現性を認められている時代になっているのだが、公知の事実に意図的にされていないだけである。 これもマインド制御の1つである。
また科学的法則さえも、
宇宙、自然の一部は、こうなっている・・という「事実認識」に他ならず、
それさえも、時代が変われば大きく変化するものなのである。
そうではないだろうか。
要は、相対論が出現してきた時のような、宇宙には絶対静止系などどこにも存在しないというテーゼと同じく、
人間の認識するあらゆる事象には、完全絶対、あるいは完全に客観的なものなどあるわけもなく、
ただただ、その時々の「想い」や「認識」が形を顕したものに過ぎないのだということだ。
簡単にそれを言えば、人間社会のあらゆる物事は「想念の形が現れたもの」・・・想念形であるということである。
例えばスプーン曲げやら物品引き寄せやら、以心伝心なども「想念形」の顕現の証左である。
それらは、斬新な手品やアクロバットの為ではなく、人間に潜在する当たり前の拡大能力を世に示すために現れてきた事象なのである。
・・・・
人の意識の拡大においては、この「全ては想念形」であるという事実認識が極めて重要であろう。
その時々の常識やら流行やら、政治とか社会とか、あらゆるものがそうして誘導され、創造されているのだ。
大勢の人が何かをそう思い込んでいれば、外側はそういう社会や世界であるように見えるというわけである。
例えば個々人の人生は全て自分の想念形ではあるが、良し悪しを含め、その外側の常識に従うことで、
つまり嫌々ながらも、他者の「物差し」を後生大事に採用することによって、
人間関係という悪循環に陥ることもあり、
またそうしなければ集団で生きてはいけないという強迫観念で固まってしまうことにもなる。
それが人類全般にわたる、今までのどこか相当に苦しい時代であったのだ。
国家間や地域間の争いや確執も、そういう集団的に歪んだ想念によって、あるいはそれを触媒、先導する者によって起こされてきたのである。
そうやって、本来の自己の魂の学びや、人生の輝きが、いつの間にか悲しみゃ後悔というものに変換され、それが重い記憶となって、繰り返しの歴史として方向づけられてきた。
それこそが、言わば人類のカルマとなって、今の今までも、あちらこちらで繰り返されてきたのだ。
あなたもわたし達も、大なり小なりそういう人間カルマの、まっただ中に生まれてきているはずである。
やられる前にやるのだと脅されて闘いに行き、生死を経験し、他人を止むかたなく騙し、騙され、もてあそび、翻弄され、右に行き左に走り、そういう幾多の人生を経てきたのではなかったか。
今何事も無いような顔をしている御仁も、この世界にいるかぎり、同様の輪廻転生を送ってきたのではないのだろうか。
・・・
歪んだ想念の繰り返しとその結実、・・・それをカルマというならば、
それが今、終わろうとしていることなのである。
・・・・
自他に不都合な想い、他者から嫌々押し付けれるような感じのある想い、従わなければ生きてゆけないなどという「想い」、それが常識として、当たり前の事実であると信じ込み、
自己から見える独自である世界さえも、敢えてそういう言わば歪んだ景色にしてきたのだ。
1人1人から見える世界は、その人、その人の意識が根源であり、本当は他者が入り込む余地もない完全なる独自の世界であるのが事実である。
人の世界に他者が大勢いるように見えても、それをどう見るか、どう感じるか、どういう風に認識するかは、
その世界の唯一の根源である・・・その人の意識が決めているのだ。
そう思い込むか、どう信じ込むか・・・そう、想念形を生み出すのは、1人1人の創造者なのである。
これこそが誰にも適応している、誰でも再現しているところの、客観的な真実である。
だから問題なのは、世界のそれぞれの原点である、あなたやわたし達の・・・・こころの中にある、
様々な想い、様々な信念形態を・・・・今一度、また何度でも洗い流す必要があるということ。
その為には、自分の中の想い、いつでもどこでも、何度でもあなたの意識に浮上し続けている想いを
自らで観る必要があるのだ。
その為には、黙想、観想、瞑想、夢の内面分析等という自己観察や、
人生での出来事の客観化や分析、反省などのような、
内面の意識の働きが重要であると言われてきた。
外の世界という、込み入った複雑な他者の想念形の出来事の中で、只ただ忙しくしている間は、その世界マトリクスがなんであるのか本質は、すぐに見抜けることはかなわないだろう。
なぜならば、良かれとして行動し、何とかしようとして想いを発している場合でも、それは自分を差し置いたまま、強制で変えることの出来ない、変えるべきものでない、他者の想念を変えようとしているからである。
自らの絶対的な王国を度外視して、外の世界に何かあるものとして探し続ける「放蕩息子」を演じているからである。
それぞれが自らの王国に戻り、その自分の意識の届く範囲の膨大な国境内を豊かにすべきなのだ。
この意味は、自らで見える、観察できる、意識の届く、気づくことの出来る範囲をこそ、
すなわち<自己自身>の意識をこそ、
清浄で安心できる、
王道楽土にすることなのである。
その王道楽土は、想念によって創られるのであるからには、
他者がどうであろうが、自らを、自分自身をして、
出来うる限り、そう・・・可能な範囲で、
愛深く・・・・・
慈悲深く・・・・
勇気雀躍で・・・
面白く・・・・
楽しく・・・・
在らしめなければならないはずである。
繰り返しになるが、今はもうその時なのだ。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。