現象を観察するという意識的行為があれば、人には「時間」という感覚が生ずる。
また、その時間とは、実際は物事、事象、運動の「変化」、テンポの違いなのである。
時間とは、色々な物事の変化の相対的な違いのことなのだ。
だからどうした、ややこしいな・・と感じるけれども、
どういうことかと言えば、時間とは、現象の変化の早い・遅いの相対的な違いだという事である。
外の世界を観るときの事象の変化の相対的な違いから、そこに「時間間隔」と「時間感覚」が生まれるということだ。
あの人は足が速い、この子は足が遅い、あの彗星は動きが速い、地球の回転速度は1日1回だ・・等ということで、
このように、時間とは、観察される現象の、相対的な変化の違いを云っているのである。
事象、現象は様々な変化で成り立っているし、また変化がなければその事象、現象そのものが観察されないという事だ。
また、全てが変化そのもの
諸行無常、
常なるものはどこにも無いということである。
これは1つの悟りである。
・・・
ところで、
あなたである「観察者」は・・現象の変化・・・それを観て、時間の感覚が生じるのだが、
ところが、<あなた>という観察者自体には・・・時間が存在しない!
要するに、時間は観察「対象」であって、観察「主体」ではないということである。
観察されるものには、相対的に・・・時間があるように見えるが、
観察者・・・には・・時間そのものが無い・・・・、 お分かりだろうか。
意識を有する者、観察者である「意識」主体・・・には時間というものは当てはまらないのである。
聖者、覚者が言うように、
あなたという存在には、<今>という、瞬間というか・・それしかないということなのである。
<今>だけが・・・・全ての存在ステージなのである。
それぞれの・・わたし・・・には・・・いつも今しかない。
・・・・
しかしながら、多くの人々は、人にも、人類にも、国にも歴史があると思っている。
過去があり、そして未来があると思っているだろう。
いつの間にか、不変の「過去」があり、そしてやがて来る「未来」がある・・・そういう風に信じているかもしれない。
例えば、あなたは子供の頃があって、学生になり、場合によって受験競争を経て、
社会に出て、結婚し、家族を持ち、苦楽の人生を歩んできた人もいて、
あるいはそれぞれ色々と、そうではない人もいる。
いずれにしても、
そういう「過去」が確実にあるではないか、そういう風に思っているはずである。
多分、そうだろう。
それでも、尚、<過去>そのものは「無い」のだ。
まさかね。・・・ しかし・・・、
確かに、今あるのは、あの時はこうだった、この時は楽しかった、何年前は大変だった、
・・・という「記憶」である。
過去は思い出に満ちていることは理解されるところであろう。・・・それに違わない。
しかしながら、その「記憶」自体も、ほんのその時の断片的な視覚イメージや、それに伴う喜怒哀楽の感情の再生なのである。
例えば、あなたの小学校時代を今思い出してみようか。
お友達、行事、運動会、遠足、嫌な奴、好きな子・・・様々なものが頭に浮かぶはずである。
なるほどそう、「記憶」があるからこそ、人生の履歴が <今>思い出せる のである。
だが記憶そのものは・・<過去>ではない!
それは言わば主観的な、・・今・・再生する・・情報でしかないのだ。
そう、過去の記憶を思い出すのは・・・常に<今>であり、
記憶となる人生の諸経験や感情、思考の働きも、常に<今>この・・瞬・・間・・・なのである。
人生のその時その時、幼児の時、青年のとき、大人になって次第に年取って来たその時々も、
常にあったのは・・・<今>・・この・・瞬・・間・・・であったのだ。
そして今もそうである。
それを知っているのはあなたの常在の「意識」である。
だが顕在意識、表面意識は気付いていなかった。
事実そこに在るのは・・常に・・永遠の今の瞬間・・・なのである。
そしてまた、今の瞬間には「全て」があるとも言えるのである。
普遍的意識の個別化された魂は、時々「忘れたり、思い出したり」 しているのだ。
つまり、それぞれが、死んだり生まれたり しているということでもある。
・・・・
今までの3次元世界と言われるフィールドでは、
この惑星次元世界独特の、様々な低レベルの常識観念に染まってしまい、
自分のそれ、永遠の今ある無限の記憶を、全く全て忘れっぱなしで人生を終える場合が多いということだ。
無意識のうちに、人生すなわち・・生と死を通過するわけである。
生と死という主要テーマから目をそらし、
人々がそれを・・忌避し、無視してやり過ごそうと、現実世界の中で、
どうでも良さそうな観念を次から次に作り上げては、
怖れに怖れ、・・・群れに群れ、・・・騒ぎに騒いでいるのは、
その事実を知ろうとしていない、勇気と探究心の欠如なのである。
この人生で気付くべきは、それではなかったろうか。
本質のあなたとは何か?
他人様のことが、どうしたこうしたではないのではなかったか。
一体全体、何を思いわずらい、何を怖れ、何を守り、何を得ようとしているのか?
永遠の今の瞬間・・・それを意識しているもの・・<わたし>は、
現象である・・時間というものを超越していることが分るならば、
実際、変化はあれども、途切れる意識生命などなく、
あると観えるのは、その投影物、対象物、現象、あるいは肉体、精神の変化である。
そしてそれを観ているところの、永遠不滅の意識である、それぞれの<わたし>に気付けるだろう。
普段のありきたりの生活は、それを思い出すための繰り返しステージのようなものである。
永遠の今、それを観ているところの、魂・意識には過去や未来という時間はないのである。
そう・・・、本質の意識・・魂は・・・普遍であり永遠である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
先日は、ありがとうございました。
「時間」についてのお話、とても興味深く拝読させて頂きました。
未だに感覚としては、それこそ時間に振り回されっぱなしですが(汗)
高校1年生の頃、3年生の先輩がとても頼もしく、大人に見えました。
自分も3年生になったら、あんな風に大人になれるだろうか・・・
そう思っていたのですが、結局3年になっても「何も変らない自分」がそこにいました。
子供の頃から、ずっと変らない「自分」がいるのです。
何だか、時間のキーワードでそんな記憶が蘇ってきたので
ただの思い出話をコメントさせて頂きました。失礼致しました(汗)
また、こっそりお邪魔させて頂きます(笑)
ありがとうございました。
そうですね、
<わたし>という・・意識は変わらないです。
でも、<わたし>の、身体、こころ、周囲、環境、世界はどんどん変わります。
変わらないものは、時間の外、それは永遠、普遍的なものです。
これはどういう事なのか、感じることが大切ですね。
一番近い、誰でもある真実ですが、
本当に「近すぎて」気づかない場合が、人が多かった。
簡単すぎて、難しかった、
そういうことでしょうね。
有難うございます。