気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

夢の話(2) 転機

2013-06-20 09:27:55 | 見えないものから見えるものへ

肉体は休止していても、「意識」は働いているのであるが、それに気づいている時に見るのが「夢」といういうわけだが、それは単純に言えば、自己の膨大な潜在意識へのアクセスによって取得するところの情報とも言えるのである。

 

その潜在意識にある記憶なのだが、単に自分が生まれてからの様々な思考や感情、経験の経験の集合ということに終わらず、言わばそういう今生の記憶をその一部に含む、さらに膨大な他生に渡る記憶をも含んだものであるということが分るのだ。

 

 

今生の私を含む、さらに幾多の転生をも含んだ、より大きな<わたし>へのアクセス・・といっても良いかもしれない。

 

したがって夢の中には、いわゆる過去生の記憶へのアクセスも含まれているし、ちょっと飛んだ話になるが、その過去生もこの地球惑星生命圏での「人生」以外のものも含まれることになるのである。

 

魂の履歴を読み取るようなリーディングや、過去生を思い出すようなセラピー等は、他者誘導または自己誘導の違いにかかわらず、このような今生以外の他生の記憶やビジョン、つまり情報を顕在意識に上げる方法と言って良いだろう。

 

ただしこれらの意識下部の情報を、表層・顕在意識に汲み上げるような作業は、意識の働きに基づくものであるために、常にその当事者たちの「想念」が介在することにもなるため、その想念のフィルター、あるいは固定観念による歪曲をいかに少なくするかが重要な要素となるのである。

 

アクセス⇒同調⇒フィルタリング⇒情報の検出・・・は情報通信の基本だが、意識的な情報授受も似たようなプロセスを経るわけである。

 

多くの場合はこの夢による情報取得も、「無意識的」に行われる場合が多いため、最終的な情報検出データには色々な変調がかかっていることになり、どこか意味不明でとりとめもない、あるいは誤解しやすいようなビジョンとして見られることもあるわけなのだ。

 

こういう分野でもどこか意識工学的な技術があるわけで、それなりの鍛錬というか馴れというか、修練のようなものが必要とも言えるだろう。

 

・・・・

 

ここでは夢という表現をしているが、それは一般に解りやすくするためであり、実のところはある種の変性意識状態での情報アクセスとも言えるのだ。

 

それは左右の耳への少し異なった周波数の音によって、左右脳の同調を促すヘミシンクなどで生じる変性意識状態とも同様であり、要は表層意識から潜在意識への移行に伴う意識経験とその知覚情報とも言えるものである。

 

 

あなたやわたしの潜在意識とはそういう宇宙に遍満する普遍的意識につながっているということだ。

 

・・・

 

あなたの今の表層意識は、膨大な普遍意識に含まれているところの、1つの自発的意識であるとも言えるだろう。

 

その膨大な普遍意識とは、ただ単に膨大で広大無辺な、だだーん・・としたものでなく、様々な階層というか周波数帯というか、そういう秩序によって構成されている。

 

それはまた存在諸世界を構成するいわゆる次元階層ともオーバーラップしており、自発意識の拡大に伴ってその主体である魂意識もそういう次元階層に同調するようになるということだ。

 

 

人の個別意識がそのすそ野を広げ、狭い固定観念から、それ自らを拡大してゆくことは、すなわち意識の進化とも言えるだろうし、その拡大自体・・・が進化・進展・成長の「道」と言って良いだろう。

 

 

これを簡単に言うならば、

 

狭い自己観念を脱し、より広い見識を持ち、さらに心の許容度を増加させ、様々な物事に理解の視線を注げるようになるということだ。

 

もちろんそれは魂レベル、精神レベル、そして身体表現レベルでの自由度を増すということでもある。

 

 

 

 

 

・・・

 

これからしばらくの間、恥ずかしながら自分の例を挙げてみよう。

 

・・・

 

数年前から夢を憶えておこうとした時から、その夢の内容を断片的に拾い集めることになり、それらを記録、記憶してゆく過程でわかったことがある。

 

その1つには、夢を通じて何か自分以外のわたし・・というのか、親密で謙虚な指導を受けるというか、よく言う霊的サポートというのか、魂レベルからの進化への促しというか、そういうものがあることに明確に気付いたことである。

 

そういうものは、よくスピ系で指導霊、守護霊、あるいはスピリチュアルガイド等と云われるものだろうが、

 

それは単なるスピ系の主張、あるかもしれない可能性ではなく・・実際にあるのがわかるのである。

 

別に期待して自分で創り上げた自己都合なビジョンではないことだけは明白であった。

 

 

なぜなら、自分の場合、実は夢を記憶しそれを利用しようとしたのは、ある意味で不純な動機から?であり(笑)、エンジニアという仕事柄、夢から何か技術的なアイデア、インスピレーションを得ようとしていたのだった。

 

昔から科学者や技術者、芸術家などの画期的な発見や、偉大な創作のその原動力が、実は夢の中のビジョンやインスピレーションであったという事を以前から知っていたのだった。

 

 

十数年前の当時、バブルの破裂の後遺症によって、それまで慣れ親しんだ会社の倒産に遭遇し、その前後の大きな精神的ストレスを受けつつ、どうにか転職を果たした経過を通じた危機感から、なんとか家族の生活を維持すべく必死になっていた背景があった。

 

自分にとって、それまで慣れ親しんだ仕事や生活環境が驚天動地の一大転換に遭遇したおかげで、わらをもすがる思いであったのも事実である。

 

タイタニック号の遭難の映画があるが、まるでそのようなものであり、このままでは破裂して終わることがわかりつつ、その窮地からいかに脱すべきかに悩みに悩んだような2年であった。

 

世間常識ではお金の最もかかる年代である中高年等は、おいそれと同じ条件での転職もままならないという、世間的な常識観念によって、自然に焦りと危機感が生じるのも無理はないことだったと思う。

 

それでも何とか当初は苦しいながらも不思議にもすぐに転職の機会が訪れ、生活は確保が出来たわけなのだが、新た職場と住居環境になることで、それまでの慣れ切ったこころの状態が終焉し、持続する緊張感というのか気が引き締まったというのか、何とかしなければという精神状態の中で、そういう夢によるインスピレーションを求めたというわけである。

 

あわよくば、画期的な技術的アイデアが特許にでもなれば、何か安泰ではなかろうかという・・・そういう不純な動機が元であったのだ。(笑)

 

・・・

 

そういう功利的な目的、生存のための手段を得ることが動機であったのだが、真面目にそのような夢の記憶や記録をするようになったおかげで、実に不思議なビジョンを観るようになったのだ。

 

 

 

(つづく)

 

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夢の話 (1)小さな顕在と膨大な潜在

2013-06-17 09:21:25 | 見えないものから見えるものへ

人間が就寝している間に誰でも「夢」を見ることがあるだろう。

 

例えば昨今わたし等は、夢を毎日のように見て、そして起床した時にも大体覚えていることが多い。

 

数年前はしっかりとノートに記憶していたものだが、最近は無精になって記録をしなくなったわけだが(笑)、夢の記録の経験努力のおかげで?メモなしでも、自己にとってこれといった重要なビジョンは忘れないようになった。

 

実に不思議で、かつどこか後日は阿吽で理解が出来るのだが、私も気付けば相当数の膨大とも言える「夢」または「ビジョン」を覚えていることで、いつの間にか内面の意識が変容してきたとも言えるのである。

 

1つ重要な事柄は、

 

夢を逐一すぐに勝手に解釈、解消せずに、

 

意味不明であっても、それを出来るだけ覚えておくこと、あるいは記録しておくことで、

 

様々な夢の内容が壮大な事実を描き出すようになる場合があるということだ。

 

つまり1つの夢が別の夢とどこか繋がっており、まるではめ絵パズルのように大きなものを描き出す場合があるということ。

 

1つの夢がどこかあやふやで、今一意味不明な感じがするのは、このはめ絵パズルの1ピースだからなのだ。

 

はめ絵の1片を手に持っていても、その時点では確かに何が何だかよく分らないだろう。

   

しかしながら、その夢の断片情報から、あなたの転生の記憶や、あるいは今重要なメッセージ等もそれらを表面意識化あるいは顕在化させることが出来るのである。

  

現在は実に喜ばしいことに、信頼のおける前世療法や転生の記憶の一部をよみがえらせる施術者やセラピストも増えているのだが、

  

その経験をきっかけとして、それぞれが自己内面の情報にアクセスできることを悟れば、

  

面倒ながらも、「観自」という自前の手法によって、例えば前世なるものも思い出すことが可能となる。

  

変性意識での内観、または夢の記憶と分析はその1つといえようか。

 

・・・

  

例えば、人間の観るこの・・・夢とは何か・・・と言えば、

 

それは肉体の休止している間の「無意識の働き」というのが1つ妥当な説明であるが、

 

それはまた表面意識が眠っている間の・・・”無意識的・意識経験”ということも可能である。

 

肉体の五感が働いている間の様々な知覚経験は、いわゆる日常生活、現実経験とされているわけだが、実はこれも「五感」という3次元的な窓口を通じた”意識的経験”に他ならない。

   

我々の現実生活とは五感を経由した、結局は同じく意識的経験であり、逆に、夢は五感を経由しない意識的経験であると言えるだろう。

  

言わば、現実とは・・・表面(顕在)意識の経験領域であり、

  

夢は潜在意識での経験領域であるわけだ。

   

夢の状態を詳しく言えば、顕在意識と潜在意識の橋渡し的なフェーズ、あるいは変性意識ともいえるものであり、瞑想による意識状態、あるいは幽体離脱の状態とも・・・それぞれ近接した・・・意識状態であるとも言えるだろう。 

   

あるいはそれらの間には意識レベルの「周波数的な」違いだけがあるとも言える。

  

瞑想とは意図的な変性意識への導入であり、また夢はどこか意図的でない変性意識によって得られるビジョンといえるかもしれない。

  

どこか意図的でない部分だけ、表面意識に浮かび上がるビジョンにはとりとめのない要素や、適当な現実概念への意味の変換が挟まる傾向がある。

  

・・・

  

表面意識は、この世界に生まれてから良くも悪くも培った、様々な信念や常識観念で働いているのだが、逆に夢のような潜在意識での経験は、そういう観念や信念に影響されない意識レベルの結果なのである。

  

肉体が休止しているということは、見る・聞く・嗅ぐなどの五感も休止しているわけで、そういう五感と不可分に存在しているところの表面意識も休止することになる。

   

ただそれは表面意識の休止であり、

  

人の意識全体が休止しているわけではないことに気づかねばならない。

   

ごく一般的な見解では、表面意識だけが自己の意識であると勝手に思いこんでいる場合が多いはずである。

  

表面があるということは高次元的本体があるということをまさに意味しているのだが、それに気づいていないというわけだ。

 

あなたはどうだろうか。

  

人間が眠っている間はすなわち肉体の休止であって、その間には何もあるわけもない・・・という、

  

肉体自我的観念で終始している場合には、当然ながら夢など意味をなさず、あるいは見たとしてもすぐに忘れてしまうがゆえに、結果ほとんど夢を見ないということになる。

  

実は若いころの自分であったりするのだが、(笑)

   

「えー、夢? ほとんど見ないね~、現実生活が忙しいからね・・・」

  

そういう人も多いかもしれない。

  

要は、日常意識、表面意識のみが自己の意識であるという漠然とした思い込みで生きているわけで、

  

結局は、実に狭い、実に目まぐるしく変化するところの表層意識領域のみに自己投入しているということだ。

 

・・・

 

意識というのは、

 

自己が自己であると認識している根本、

  

生きている主体としての、自己の存在認識の原点とも言えるのであるが、

 

あらゆる全ての知覚や情報は・・その「意識」の働きによって”顕在化する”という事実に気付くべきなのである。

 

・・・

 

多くの人は当たり前のようにお金を払って、スマホや携帯電話、携帯端末、パソコン等の機械を使って情報を授受しているだろうが、

 

ところが、自己に備わった膨大な情報窓口であるところの「意識」に気づいていないかもしれない。

 

世間で云われるESP、超感覚的知覚などの可能な自己の能力に気づかず、またこれを修練せず、

 

スマホや携帯端末の使い方を憶えるようには、自己の「意識」の使い方を憶えようとはしないのは、

 

それは、自己というものが単なる肉体存在でしかないという、漠然とした世間一般の常識的な観念をいつの間にか自分の信念にしていたからなのである。

 

自己が単なる肉体存在であると思っているのか、

 

あるはそれを含むところの、より大きな存在であると感じているのか、

  

本当に小さな観点の違いなのだが、

 

その小さな観点から意図のベクトル、

 

主たる自己の観念のベクトルが魂・意識の進む方向を決めているのである。

 

・・・

 

大切なのは要は、自己の内面を注視するということが重要な方向づけなのだが、

 

肉体が起きていても寝ていても、「意識」は働いているということを知る1つの簡単な手法として、

 

瞑想のほかに、夢を憶えているという・・・やり方があり、

 

これは日常で無理なく、毎日のように、そして新たな時間を投入することなく可能なのである。

  

お金も時間もかからない。ローンも月賦も不要な実践方法である。(笑)

  

夢の記憶、記録は無精な者にもできるところの、1つの意識拡大手法であり、

 

それは自己自身の意識の働きに新たに注目し、そこからまたアイデアや、有用、重要な情報を取得する手法であるし、

 

また更に、膨大な潜在意識、あるいは多次元層に渡る広大な魂・意識たる、それぞれの「わたし」に気付くための方向指示器ともなるのである。

 

・・・・

 

夢とは単なる夢ではなく、変性意識での経験ともいえるものであり、

 

また夢を表面意識まで浮かび上がらせる意識的努力は、

 

潜在意識に対する明確な開拓意図になっており、

 

膨大な潜在意識からの様々な意識の流れをキャッチする窓口にもなるのである。

 

また、そこから肉体レベルを超えた大いなる自己からの意識の流れをくみ取ることが出来ることになるし、

 

またESP的な直覚知や、あるいは魂の本来の目的である進化の道筋を照らすガイドの働きもするのだ。 

  

瞑目、瞑想のような行為によって表面次元から意識が離れている時、あるいは寝ている時間を有効活用することは、

 

今与えられている、日常という時間空間での魂・意識の拡大意図を示しつつ、

 

それが自己発見のための修練ともなるだろうし、

  

あなたの本来の広大な自己像を直接垣間見る機会を与えてくれるのである

  

今は、結果である外の世界に固執することなく、それを知覚上に生じせめている、魂の諸相を観ることの重要さに気づき、それを実践すべき時なのだ。

 

どんなものにも道があり、また修練がある。

  

意識の拡大は膨大な知識の蓄積のみならず、自己自身での意識的努力によって、それを生きた情報にすべきなのである。

 

 

知・情・意・行為・・・それらの複合によって、それが魂の記憶としての生きた情報となる。

 

 

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魂の諸相(9) 大いなる選択の時節あり

2013-06-13 09:14:26 | 宇宙時代の考え方

「我在り」という自意識は全ての人間が大なり小なり気づいているわけだが、それが狭いか広いかで霊的進化の度合いが示されるとも言える。

 

広いか狭いかという意味は、人それぞれの意識の範囲がどれだけ狭いか広いかということでもあるし、また無限にある潜在意識から、それをどれだけ顕在意識として開拓しているかということでもある。

 

よく人間はその能力を3%も使っていないとも言われるが、それは何も知能の潜在的能力だけのことではなく、それを含むところの、意識生命体としての自己の膨大な潜在意識とその表現形式にほとんど気づいていないということだ。

 

なぜ気づいていないかといえば、自己を単なる高度に組織化された肉体でしかない、という「観念」に染まっているからである。

 

このまとわりつくような一般常識的迷妄観念から脱し、

 

肉体自画像を超えるより大きな自己像を探究することで、自ずとそれに沿った理解が拡大するのだ。

 

理解が深まれば意識が自ずと拡大し、様々なことが阿吽のごとく、つまびらかになってゆく。

 

それが魂の進化、あるいは意識拡大の楽しさとも言えようか。

  

そう、それが楽しいからこその宇宙開闢ではなかったか。

 

・・・ 

本質としての自己が単なる肉体であると信じていれば、確かにそれを取りあえず死ぬまで維持することに奔走するだろうし、

 

自己が消滅する・死ぬことの恐怖に怯え、生きる為にはたとえ悪いことと知っていても仕方なく行ってしまうであろうし、

 

そういう肉体死や生存環境の棄損を連想するような環境の不備や不足を必死で補おうとするだろうし、

 

集団の中でより安全で安心な地位や権勢を得ようとするものである。

 

 

多分、大なり小なり誰も皆そういう経験や知見があることだろう。

 

・・・・ 

必死で頑張ること、

 

その意味するところは、肉体でしかない自己、刹那的な自己像で終始しているからこそのエゴ的「頑張り」といえるのだ。

 

 

生かされて在る宇宙において、どうして必死な我欲で頑張る必要があるのだ?

  

ふと気づけば、笑いがこみ上げないだろうか。

 

なるほどそういう御仁は、未だ世間に嫌というほどいるものだし、それをどこか賞賛の眼で見ている者たちも多いことは実に驚くべきことでもある。

 

特に昨今急増した宣伝や誘導を感じるところの、頻繁にメディアで盛んに宣伝しているような政治、経済のパフォーマー達はその典型であろう。

 

やれ経済を強くせねば、やれ武力を誇示せねば舐められる、やれ原子力は未来に必須なエネルギーだ・・・、いまだそんな旧態依然たる思考を掲げている者たちは、その典型であるし、漠然と期待をしている依存心厚き追従者たちもその典型であろう。

 

何かをしてくれそうな、ハーメルンの笛吹きに眼を奪われ、

 

いずれ荒波に巻き込まれることになることすら気付いていないようである。

 

経済一辺倒では地球が荒廃するし、武力で得られるのは大量の生命の死であるし、原子力は生物種の遺伝子を破壊する制御不可能な電磁エネルギの解放を意味し、株が上がれば必ず落ちることになるし、生まれればいつか必ず死ぬことになるのがこの世界の仕組みであるが、

 

そんなことは眼中になく、とりあえずの権勢と、とりあえずの目先の金銭利益と、とりあえずの恫喝力の獲得しか思考の中にないのである。

 

昨今の日本の現状も、高次の意識生命体としての人間として、その意識レベルを広げてゆくベクトルに乗るか、あるいは前記で表現したような、今までの3次元的肉体自己像で終始するかの選択の時が来ているわけである。

 

この意味は既にお分かりのことだろう。

 

・・・ 

 

破壊を選ぶか、自然を選ぶか、

 

収奪を選ぶか、調和を選ぶか、

 

物理的威力を選ぶか、精神のパワーを選ぶか、

 

目先の物質、金銭利益を選ぶか、精神の平和を選ぶか、

 

自我主張で終始するか、他者への思いやりを選ぶか、

 

死を恐れるか、常にいさぎよくあるか。

 

無意識での他者への依存を選ぶか、意識的自己を確立するか、

 

歪んだ感情で爆発するか、それを浄化・統御するか、

 

人皆同じ動物という集団無知に埋没するか、それから勇気をもって脱落するか、

 

常識観念での3次元的肉体自己像で終始するか、精神と魂を含む大いなる自己に気付くか、

 

・・・・・

 

この地球という魂の学び舎において、

 

今はもうそれぞれの魂の表現形を選択する時が来ているわけである。

 

わたしは何者であるのか・・という問いかけ、

 

そしてわたしは・・・わたしである・・・という・・自己創造を旨とする、

 

魂であるそれぞれのわたしの、進むべき方向を自らで決める時が来ているのだ。

 

古い輪廻の輪に捕らわれるか、旧態から解脱して新しきステージに移行するか、

 

潔く選択するための実に稀有なサイクルの、その終わりに来ているのだ。

 

外の世界の動きや変化は、それぞれのわたしの中にある動きでもある。

 

つまるところ外の世界はそれぞれの合意した形での、集合的な写し鏡なのである。

 

ここで、外が変わって内が変わるのではないことだけは、忘れないでおこう。

 

あなたやわたし達がどういう世界に住むかは、それぞれで選択するのだ。

 

今はもう、

 

人生も、その大枠の人生ともいえる転生も、

 

魂の意識レベルとその意図の内容によって、自ら決めていることに気付けるはずである。

 

自分のことは自分で決める・・それが天来の魂の自由意思なのである。

 

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魂の諸相 (8)魂の故郷(ふるさと)

2013-06-11 07:14:14 | 宇宙時代の考え方

魂は不滅だと言われるが、それは時間と空間を超えた存在として当然のことであるとも言えようか。

 

いわば宇宙意識、あるいは神意識、または多次元宇宙の根源である普遍意識とでもいうべき「それ」、

 

あるいは時空の生ずる前、・・・・原初の光または根源波動といわれるものが、

 

それこそ無数、多条に発せられたとき、魂が生まれたということが出来る。

 

魂は「時間」と「空間」をはるかに超えた次元体であるとも言われる所以である。

 

 

我々の見知っているところの、地球・3次元的時間と空間は、様々な時空存在形態の単なる1つであるわけで、

 

魂は時間・空間を超えて体験をする存在主体というべきものであり、

 

それ、魂にとっては、我々の認識している地球3次元的空間とその経過、歴史であるところの時間は有って無きが如くであるし、

 

だから魂が何時(いつ)生まれた・・・という論議は全く妥当でないことが理解できるだろう。

 

ただし、自己が自己であるという<魂としての気づき>を、いつかどこかで得たということは出来るかもしれない。

 

魂は永遠であるが、その旅路にはいろいろな道標があるというわけだ。

・・・

 

しかしながら、魂としての自己、その実在証明としては、常に・・・・・この瞬間のあなたの「意識」にある。

 

自己が自己である・・我在り・・という自己認識、自意識を有する存在としての人間は、

 

不滅の魂であるところの「自己に目覚めた」段階に在ると言えるだろう。

 

かつての デカルトの言葉・・「われ思う故に我在り」 は、

 

単に自由に思考ができる、自立した自己存在に・・気付いただけの意味ではなく、さらにより深くて大きい自己への気付きを示しているのである。

  

不滅の魂であるところの・・・自己自身に気付いた・・そのステージを意味しているとも言えようか。

 

魂は神から放たれた光というべきものであり、それはまた八紘一宇、それぞれの魂が、その光の届く先先を明るく照らしつつ、未知なるものを既知にしてゆくということだ。

 

従って、魂とは時間や空間を超えた成長途上の神意識ともいえるし、

 

鉱物、植物、動物、人間などのあらゆる自己発現形式、生命存在形式を体験通過しつつ、

  

神の子たちが、宇宙にある様々な事象を新たに知覚しながら、未知を既知に変換しつつ、本来の「根源」に帰還する旅をしているという表現も妥当なのである。

  

つまり無意識から意識へ、子供から大人へ、部分から全体へ、個別からあらゆる全てを含むところの「意識」の成長・拡大、

  

それを意識進化、魂の進化と呼んでいるわけである。

 

従って、あらゆる存在、事物、生命体は大いなる根源意識の一部であるわけで、

  

まさしく、

  

山川草木、国土悉皆 成仏・・・なのである。

 

 

  

釈迦やキリスト、その他の天から降りてきた、転生してきた魂の教師達は、そういう事実、真実を知っていたのである。

 

また教師たちはこの地球という学び舎でそれを教えるために時折下生するのだ。

  

・・・

 

我々が自己を単なる肉体であるとする狭い自己認識からその意識の拡大を促し、不滅の魂であるという自己認識に至ることが「悟り」であり、

 

また、そういう拡大された自己たちの住まう世界が、いわゆる次元上昇、アセンションした世界であると言えようか。

 

そして、今この地球という惑星生命圏の今までの低い自己認識レベルの表現次元、この3次元的世界が、次元上昇するステージにあるということである。

 

かつて地球上も、まるで波動の上下やうねりのように、次元上昇や次元降下があったと言われているが、その次元上昇や降下の中心になっているのは、その時空ステージに在る・・・意識的存在・・人間達・・である。

 

・・・・

 

地球という実は巨大な意識体、ガイアなどとも呼ばれる巨大な生命体も、人と同じく多次元的意識体であり、またその次元表現あるいは文明は、

 

複雑な想念を有する、人間という多次元ステージの中に住するところの、そこでの最高レベルの生命の発する意識の内容、想念の如何によって決まってくる。

 

それは建築デザイナーによって家が設計・構築されるようなものであるし、庭師によってガーデンの様相が決まってくるようなものである。

 

その家(地球)に住むデザイナー(人間)が、その家の外装、内装を設計・施工しているのと同じである。

 

人類とは惑星上においてそういう役目を負っているとも言えようか。

 

また人類の意識レベルによって、その惑星なら惑星の時空形態も意味づけられるのだ。

 

・・・

 

また気付いていようとそうでなかろうと、人類は全て単なる肉体存在ではなく、時空を超えたところの魂存在であるわけで、その魂の転生は地球の場所、時代だけにとどまらず、気づける範囲の宇宙大まで広がっていることは理解が可能だろう。

 

多分、あなたも気づける範囲が拡大すれば、例えば地球生命圏以外の世界での転生記憶があるはずである。

 

例えば、魂の故郷といわれることがあるわけだが、それは端的に言えばどこかの星、星系であったりしてもおかしくはない。

 

魂の故郷といえば、魂が生まれたところと解されるかもしれないが、それ、魂は不滅であればこそ、それが何時生まれたとはいうことがなかなか出来ないわけであり、魂の故郷とは地球という舞台に転生する前の舞台のことであると言って良いかもしれない。

  

この世界でのあなたの故郷は、あなたがオギャーと生まれて育ったところであり、例えばその後大きくなって生活のために都会に出れば、それは故郷を離れたということになるだろう。

  

生まれ育った地に死ぬまでいる人もいるのであるが、多くの人が生活とか何かの目的をもって、かつての生まれ故郷を離れて遠くへ行く場合もあるように、元々時間・空間を超えた存在である「魂」は、ここにある時空以外のエリアから転生してきたという事も理解できるだろう。

  

そう・・・、宇宙における地球以外の生命圏、時系列的に言って「ここ」に来ること、転生先を決める前の星・生命圏のことを「魂の故郷(ふるさと)」と言って良いだろう。

  

肉体自己を含む「魂である自己」への拡大した自己認識を有する存在にとっては、宇宙における転生もまた当たり前なことだと思うはずである。

  

わたしは何か?という自己への問いかけの先にあるところの、自己認識の拡大によって、その拡大された<わたし>の生き様、あるいは転生の変遷もまたその視野に浮かんでくるのである。

  

例えば、その土地に生まれ生涯その土地を離れない者もいるように、この地球で自己に目覚めた魂もいることだろうが、逆にかつての故郷を離れて別の土地で生活する者のように、この地球に存在する多くの者たちには、さらに様々な星での転生の記憶があるのである。

  

それらのどれもこれもが実際には魂の故郷であるとも言えるだろうが、ある意味において、この地球に転生する意識と意図を持ったところの、かつての生命圏、あるいは星、あるいは星系があるということだ。

 

天空に目視できる星の世界は、実はそういうものを象徴しているということに、あなたも今はもうきっと気付けることだろう。

 

魂意識であるところのあなたやわたし達は、実に広い、実に広大な領域をその内に含んでいるわけである。

 

 

 

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魂の諸相 (7)天上天下 唯我独存

2013-06-08 09:52:49 | 宇宙時代の考え方

「自己が自己であること」という気づき、あるいは「我あり」と感じている意識こそが、存在諸世界、あるいは見はるかす無限大の世界のなかで、自己が生きている世界の中で唯一無二のリアリティであるといえるだろう。

 

あなたの世界に、あなたは・・・・あなたしかいない・・という当たり前の、いつもあり、どこでもある真実に気づけるはずである。

 

あなたの知覚する世界には、それこそ大勢の人間、動物等がいるわけであるが、その各々がそれぞれのレベル、深みはあったとしても、それぞれが自己が自己であるという意識を有していること、その否定しようのない意識的現実があるということだ。

 

言葉を変えれば、あなたの世界を見て聴いて感じている主体はあなたであるし、世界のすべての「原点」は他でもない・・あなただという事だ。

 

うまく伝わるといいのだが、この深い現実に気づけるかもしれない。

 

あなたの世界に、自己が自己である・・・と認識してる存在は・・・「あなた」しかいない!

  

頭で考える必要も、思いめぐらす必要も、難題を解く必要もない・・・

 

誰でも、気付けばそこにある事実、真実、リアリティである。

 

あなたの世界には、あなたしかいないと言っているわけではなく、

 

あなたの世界で、あなたが・・あなたである・・と自覚している「原点意識」は

 

あなたしかいない・・といっているのである。

 

わたしの世界で、わたしわたしである・・と自覚している、

 

あるいは気づいている主体は、わたし・・しかいないということである。

 

今まで当たり前のように素通りしてきた事実。

 

それこそが、

 

考える必要もない、編み出す必要もない、想像する必要もない、証明など不要の・・・・

事実なのである。

 

意識してるからこそ全てが現れている・・・

 

あなたの世界のすべての元にある根源、あるいは因、あるいは原点は・・・・・あなたである。

 

ということだ。

 

かのニサルガダッタ・マハラジは、「I am THAT・・・」という書において、その「わたしは在る」という事実に深く気づくことを推奨している。

 

あなたの世界にはあなたという意識を有する存在は、当然あなたしかいないということは、意識的な範囲においてのマスター・主人は、あなた一人であるともいえるだろう。

 

この意味おいて、他人は全く関係がないのだ。 

 

ましてや銭金など全く関係がないし、人間関係の良し悪し、悩みや欲望など全く関係がない。

 

誰がどうしようが、何がどうあろうと関係がない。

 

好きや嫌いががどうだろうが、男や女がどうしたこうしたも関係がない。

 

誰が何を云おうが、何をしようが関係がない。

 

生きるとか死ぬとかも関係がない。

 

宇宙がどうしたこうしたも関係がない。

 

・・・

 

あらゆる次元、あらゆる物事を見て聴いて、感じている主体、本質、あるいは魂は・・・・

 

その原点は、常に「あなた」であり、根源は・・・諸世界のなかで唯ひとり、唯一無二・・・、「あなた」であるということ。

 

「えー?マジで・・」といってもしょうがない。

 

今までずっとそうであるし、今もそうであるが、今までこの自己の在り方、世界で最も重要な事実に、ことさら意識的に・・気づくことが無かったのかもしれないだけだ。

 

釈迦が言ったとされる言葉、

 

天上天下 唯我独尊」 または 「天上天下 唯我独存」 はそういう意味であることだろう。

  

今までは、それに気づかないような、

 

この世界の特徴としての荒い波動の中で、

 

何が何だか、あれが良いとか悪いとかの想念の渦のなかで、

 

あなた以外に原点があるかのような、

 

あなた以外に存在価値があるような、

 

あなた以外に支配権があるような、

 

あなた以外にパワーがあるような、

 

・・・そんな観念とその表現、その生き方に流されてきたのかも知れない。

 

気付けば、それもまた味わい深いものだろうが、何時かはその事実に気づかねばならない。 

 

あなたの・・世界での意識主体、あるいはマスター、あるいは原点は・・「あなた」しかいないのである。

 

そしてまた、全ての存在が、それぞれ・・・そう・・・なのである。

 

したがって全てが・・・・<わたし> われ・・・なのだ。

 

あなたの知覚する外の景色も、実はあなたの中にあるというのはそういうことなのだ。 

 

「なに?世界には俺しかいないのか、えーそれは寂しいじゃないか~」などと、

 

あるいはそれは窮極の孤独であるなどと勘違いしないことだ。

 

欧米流の当たり前のような個人主義観念に落入らないことだ。

 

全ては「わたし」という意識でつながり、言わば統合されているのであれば、個々がバラバラ別個等という観念は事実に反するし、

また、何もかもバラバラでの寄せ集めだという観念が、いわゆる3次元的な時間空間認識を生み出している。

 

その勘違いは、この次元世界認識に特有の歪んだ枝葉的な「思考」によって生ずる幻想である。

 

孤独どころか、あなたの周りにはそれこそ嫌というほどの「あなた」がいるということだ。

 

なんということだろうか・・・・、それに気付けばきっと笑えるはずである。

 

他人とは自己の鏡であるというけれど、まったくの真実である。

 

嫌というほどのあなたが、あなたの投影として周囲や世界にいるならば、

 

外の事象、外の人びとは、あなた自身の写し鏡に映る「あなた」なのである。

 

 

しかしそれは、あなたの表面意識が手作業で創造しているということではないが、 

 

変な話だが・・、他人というのも、違う顔の、違う思いをした、違う性格の、違う年齢の、違う性別の、違う背丈の・・・あなたである。  

・・・

わたしは在る・・・という根源的なリアリティーに、・・・

 

いつも当たり前であるところの、本質の自己の在りように今まで気付いていなかったのかもしれないということだ。

 

やれ勉強だ、善だ悪だ、生活だ、ローン返済だ、昇進だ、左遷だ、経済成長だ、飯食を食うためだ、負けないためだ、人より頑張るのだ、・・・等と、

 

実際はどうでも良さそうなことばかりを目の前に繰り出すような幼子の集まりのような世間の海を泳いでいたとしても、

 

それら世間の様々な物事が生じていることを、見る聞く、感じ、そう・・意識している・・原点である「あなた」は、

 

世界、大宇宙、存在諸世界において・・・・ただひとつであるということに気付けるだろう。

  

わたしは・・・わたしである・・・と自覚している「意識」・・は、今ここの<わたし>しかいない!

 

そして、わたしが知っているように、

 

あなたが・・・あなたであると・・・自覚している「意識」・・は、今そこの<あなた>しかいないだろう?

  

あなたの世界の原点、全てが顕れている根源、不動の座標軸の起点、はあなたしかいないということだ。

 

無茶苦茶簡単で、目茶目茶シンプルな事実を言っているのだが、意味不明かもしれない。 

 

しかしこれはある考えではなく、理論でもなく、何かを得るためのノウ・ハウでもなく、

 

本質の事実に気付くことを云っているのだ。

 

当たり前の奇跡的事実に気付くために、複雑な思考や世間的な知識は邪魔になる。

 

考える必要も見回す必要も、誰かの意見を参照する必要も、過去の歴史を紐解く必要もない。

 

事実はまさに事実である。 

 

今在ることの奇跡的真実・・かなり誤解されやすい言葉であるところの

 

・・「あるがまま」・・・なのである。

 

 

・・・・

 

現れた現象ではなく、・・・本質において、

 

あなたの世界には唯一「あなた」しかいない。

 

わたしの世界には唯一「わたし」しかいない。

 

様々に顕れている、様々な人、物、出来事の・・・・すべての原点は、

 

あなたである、わたしである・・・ということを気付けるならば、

 

あらゆる全ては、唯一無二であるところの、無限の<わたし>の集合であり、また全体というひとつなのだ。 

 

常に唯一無二でありながら、様々な、それこそ無数のわたしを・・・全てわたしとして見ているものが「神」であるならば、

 

あなたも神の一部であり、窮極には全部でもあるのだ。

  

あなた、わたし、あなたたち、わたしたち・・とは、 

 

全体の意識の一部であり、窮極はまた・・・全てであるということを識(し)るために、

 

様々な神の庭で喜びつつ遊び戯れながら、

 

それぞれのわたしが・・・様々な「わたし」であることを演技しながら、

 

進化といわれる、神聖なる道を歩いている<魂>といわれる無数の子供達である。 

 

言わば、神のひとり子は、実に無数に生み出されているのだ。

 

一は即ち多なり、多は即ち・・・ひとつなり。

 

愚かしい世界の波の狭間に在ろうとなかろうと、何がどうだろうと、何が起きようと、

 

全てのそれぞれが、全てにおいて、

 

常に、天上天下唯我独尊・・・・また天上天下唯我独存なのである。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。