気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

魂の諸相(9) 大いなる選択の時節あり

2013-06-13 09:14:26 | 宇宙時代の考え方

「我在り」という自意識は全ての人間が大なり小なり気づいているわけだが、それが狭いか広いかで霊的進化の度合いが示されるとも言える。

 

広いか狭いかという意味は、人それぞれの意識の範囲がどれだけ狭いか広いかということでもあるし、また無限にある潜在意識から、それをどれだけ顕在意識として開拓しているかということでもある。

 

よく人間はその能力を3%も使っていないとも言われるが、それは何も知能の潜在的能力だけのことではなく、それを含むところの、意識生命体としての自己の膨大な潜在意識とその表現形式にほとんど気づいていないということだ。

 

なぜ気づいていないかといえば、自己を単なる高度に組織化された肉体でしかない、という「観念」に染まっているからである。

 

このまとわりつくような一般常識的迷妄観念から脱し、

 

肉体自画像を超えるより大きな自己像を探究することで、自ずとそれに沿った理解が拡大するのだ。

 

理解が深まれば意識が自ずと拡大し、様々なことが阿吽のごとく、つまびらかになってゆく。

 

それが魂の進化、あるいは意識拡大の楽しさとも言えようか。

  

そう、それが楽しいからこその宇宙開闢ではなかったか。

 

・・・ 

本質としての自己が単なる肉体であると信じていれば、確かにそれを取りあえず死ぬまで維持することに奔走するだろうし、

 

自己が消滅する・死ぬことの恐怖に怯え、生きる為にはたとえ悪いことと知っていても仕方なく行ってしまうであろうし、

 

そういう肉体死や生存環境の棄損を連想するような環境の不備や不足を必死で補おうとするだろうし、

 

集団の中でより安全で安心な地位や権勢を得ようとするものである。

 

 

多分、大なり小なり誰も皆そういう経験や知見があることだろう。

 

・・・・ 

必死で頑張ること、

 

その意味するところは、肉体でしかない自己、刹那的な自己像で終始しているからこそのエゴ的「頑張り」といえるのだ。

 

 

生かされて在る宇宙において、どうして必死な我欲で頑張る必要があるのだ?

  

ふと気づけば、笑いがこみ上げないだろうか。

 

なるほどそういう御仁は、未だ世間に嫌というほどいるものだし、それをどこか賞賛の眼で見ている者たちも多いことは実に驚くべきことでもある。

 

特に昨今急増した宣伝や誘導を感じるところの、頻繁にメディアで盛んに宣伝しているような政治、経済のパフォーマー達はその典型であろう。

 

やれ経済を強くせねば、やれ武力を誇示せねば舐められる、やれ原子力は未来に必須なエネルギーだ・・・、いまだそんな旧態依然たる思考を掲げている者たちは、その典型であるし、漠然と期待をしている依存心厚き追従者たちもその典型であろう。

 

何かをしてくれそうな、ハーメルンの笛吹きに眼を奪われ、

 

いずれ荒波に巻き込まれることになることすら気付いていないようである。

 

経済一辺倒では地球が荒廃するし、武力で得られるのは大量の生命の死であるし、原子力は生物種の遺伝子を破壊する制御不可能な電磁エネルギの解放を意味し、株が上がれば必ず落ちることになるし、生まれればいつか必ず死ぬことになるのがこの世界の仕組みであるが、

 

そんなことは眼中になく、とりあえずの権勢と、とりあえずの目先の金銭利益と、とりあえずの恫喝力の獲得しか思考の中にないのである。

 

昨今の日本の現状も、高次の意識生命体としての人間として、その意識レベルを広げてゆくベクトルに乗るか、あるいは前記で表現したような、今までの3次元的肉体自己像で終始するかの選択の時が来ているわけである。

 

この意味は既にお分かりのことだろう。

 

・・・ 

 

破壊を選ぶか、自然を選ぶか、

 

収奪を選ぶか、調和を選ぶか、

 

物理的威力を選ぶか、精神のパワーを選ぶか、

 

目先の物質、金銭利益を選ぶか、精神の平和を選ぶか、

 

自我主張で終始するか、他者への思いやりを選ぶか、

 

死を恐れるか、常にいさぎよくあるか。

 

無意識での他者への依存を選ぶか、意識的自己を確立するか、

 

歪んだ感情で爆発するか、それを浄化・統御するか、

 

人皆同じ動物という集団無知に埋没するか、それから勇気をもって脱落するか、

 

常識観念での3次元的肉体自己像で終始するか、精神と魂を含む大いなる自己に気付くか、

 

・・・・・

 

この地球という魂の学び舎において、

 

今はもうそれぞれの魂の表現形を選択する時が来ているわけである。

 

わたしは何者であるのか・・という問いかけ、

 

そしてわたしは・・・わたしである・・・という・・自己創造を旨とする、

 

魂であるそれぞれのわたしの、進むべき方向を自らで決める時が来ているのだ。

 

古い輪廻の輪に捕らわれるか、旧態から解脱して新しきステージに移行するか、

 

潔く選択するための実に稀有なサイクルの、その終わりに来ているのだ。

 

外の世界の動きや変化は、それぞれのわたしの中にある動きでもある。

 

つまるところ外の世界はそれぞれの合意した形での、集合的な写し鏡なのである。

 

ここで、外が変わって内が変わるのではないことだけは、忘れないでおこう。

 

あなたやわたし達がどういう世界に住むかは、それぞれで選択するのだ。

 

今はもう、

 

人生も、その大枠の人生ともいえる転生も、

 

魂の意識レベルとその意図の内容によって、自ら決めていることに気付けるはずである。

 

自分のことは自分で決める・・それが天来の魂の自由意思なのである。

 

Thcazz2wk7


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。