気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

魂の諸相 (6)人間は多次元体

2013-06-02 08:55:38 | 宇宙時代の考え方

内面からのメッセージ等というと何か自分の頭の中や、こころの中からのものだと想いがちであるが、そういう何か肉体自我の内側と外側という観念自体に勘違いがあるかもしれない。 

 

例えば目に見える外界の物事・事象がそれ、自分の「外」のものであると思っているわけであるが、それも勘違いであり、要は自己とはこの肉体であるという漠然とした先入観に縛られているということだ。

 

それで、肉体の内部を「内側」、肉体の外部を「外側」と思っていたのだろう。

 

形の内側と外側という単純な物理的自己概念を自らに当てはめているというわけだ。

 

ところで、あなたの内側はどこで、あなたの外側はどこだろうか?

 

実に深い意味では、

 

あなたの見聞きする外側というのは、実は内側の投影であると知っているだろうか。

 

わたしの見聞き感じる風景、外の木立、街路樹、建物、空の雲、そして動き回る人々も、実はわたしの内側にあるものだという事に気付けるだろうか。

 

そんな馬鹿な!という感覚があるだろうが、どうもこれが真実である。(笑)

 

・・・

人間は外から見れば確かに所定の大きさの肉体をもっているわけだが、自己が自己であるという意識、あるいは「我あり」という自覚、または自己が自己として在る!という自意識は、一体全体その肉体のどこにあるのだろうか。

 

物質形態、形、面積、所在位置・・などという3次元的観念では、自己意識の存在場所が指定されてもよさそうなものだが、その「わたし意識」の所在場所といえば、せいぜい頭部、頭脳だというのかもしれない。

 

視覚、聴覚、味覚、臭覚の感覚機能は頭部に集中し、触覚は皮膚全体を網羅しているが、それら肉体表面の外から来る刺激情報が頭脳で処理されているならば、その自意識なるものが頭脳であると考えるのかもしれない。

 

人間が他の動物と違って、明確な自意識を持っているわけは、頭脳の高度な機能にあるとするわけである。

 

なんとなくそれが正解であると思っているわけであるが、

 

しかしそれは、人間の肉体を部分に分割し、それぞれの機能を分類しているに過ぎないのだ。

 

皆が自覚している・・・ 「わたし」・・という自意識が、肉体によって無から生じているという考え方、

 

これが肉体自我の観念である。だから、わたしは単に肉体である・・・と信じるわけなのだ。

 

これらの「考え方」が今までの「3次元的肉体自我」の観念を説明したものである。

 

わたし・・が、肉体表皮の内側にあるという感覚を生み出している、もとにある「観念」である。

 

これこそが、籠(肉体)の中の・・・鳥(わたし)・・である。

 

・・・

ところで、「我在り」 という意識は、肉体の外にも及ぶことが臨死体験やいわゆる幽体離脱等で理解されているのだが知っている人もいることだろう。

 

すなわち、「意識」が肉体の外にあっても、その自意識が存在するという明らかな現象があるわけで、これは肉体の中だけに?あるとされる古い自我意識の観念を壊してしまったのである。

 

集合的無意識の中の常識観念で生きている大勢の人々は、未だそれを知らないかもしれないが、しかしながらそれでも人類の中の比較的多数の人びとによって、意識が肉体に縛られない、時間空間を超えた在り方をしていることの実証がなされているということだ。

 

あなたはもう知っているだろうか。

 

既に、籠の中の鳥である古い自我意識から勇躍解き放たれた人々が増えているということである。解き放たれたといっても死んでどこかに飛んで行ってしまうわけでもなく、

 

今ここに在りながら、またどこにでも在ることが出来るという、拡大された「意識」の事実に気付いているということだ。

 

これは人間の肉体的側面のみならず、精神的、霊的側面への理解と知識を示しているのである。

 

キリストが言ったとされる 「わたしはこの世に在りながら、この世の者ではない」 という言葉の意味でもあることだろう。

 

・・・

 

未だ多くの人びとは、前記のような肉体自我の観念を漠然と信じ込んでいるのだろうが、多くの体脱経験者や臨死経験者は体験によって動かしようのない事実・真実を知るわけである。

 

確かに事実を知るのに経験以外に何があるというのだろうか。

 

経験・体験した者にしかそれがわからないというのも「真実」である。

 

自らの体験、経験で知ることと、信じる信じないで終始することのギャップ、驚天動地の意識格差が生まれるのだ。経済格差や偏差値などはまさにどうでもいことである。(笑)

 

世の中の人びとは安易に人の言う事を信じない反面、権威筋の言う事に関しては無条件に信じ込むという摩訶不思議な性癖がある。それは実証的でなく冒険的でもなく、要は自己保存のベクトルに従った他者依存の観念に縛られているということを示している。

 

要は小さく卑小な肉体自我を守り、安楽に維持するために無意識に権威と力のありそうな他者に依存しようとするのである。そしてその元にあるのは 「私は肉体自我にしか過ぎない」 という観念なのである。

 

人間は肉体的、精神的、霊的存在でありながら、眼に見えて感じることが出来る範囲、物質的、肉体的側面ばかりに意識を集中する観念で方向づけされていたがゆえのことである。

 

しかしもう、古いそれは終わりなのだ。

 

ここまで人類意識の中に新たな自己像の拡大、より大きな存在であるそれぞれの<わたし>、あるいは魂レベルの自己認識の事実が広まってしまっては、もう後戻りはできない相談である。

 

分る人には解るのだが、今の世界の混乱にみちた情勢や、自然環境の変動は、人類の集合意識の中に今までとは異なる意識の光とも言うべきものが差し込んでいるからなのである。

 

意識の光とは、人間の自己認識に新たな情報が加わり、その自己認識の作用に応じて現象世界が変わりつつあるということだ。

 

内面が変化すれば外ずらも変化するのが理(ことわり)であり、マクロな世界環境に異変があるということは、それを観察しているところの人間の、そのマクロな形態である人類集合意識の変化を示しているのだ。

 

しかしながら、そのマクロな人類集合意識なるものも、あなたやわたし達というそれぞれの在り方を規定したり束縛したりするものではないことを忘れてはならないだろう。

 

・・・

 

人間が肉体、精神、霊の複合であると言われる所以は、人間が独立した自意識を有するからであり、その意識の在り方、すなわちベースたる意識における「意図、発意、想念」によっていかようにも自己創造が出来る存在であるということでもある。

 

肉体・頭脳が、精神を生み、霊的なものが生じるということではなく、それらは人間の同時的な側面でありながら、逆に霊的な存在こそに、精神の働きがあり、またそれは肉体存在を具現・表現するといえるのだ。

 

精神感応による直接な情報伝達、意識の体が肉体から抜け出すような現象、念動や念写のように精神的な意図が直接物理現象に作用する事実は、それを傍証しているのだ。

 

突き詰めて言えば、我々の身近、またその中、そのすべてである時空というもの、あるいはその元にある空(くう)は、様々なエネルギー、波動に満ちているからこそのものである。

 

空(くう)に揺らぎをもたらしそれが渦動となり、波動となり、物質的形態までもその投影として生み出すのは、まさに意識と意図、人間においてはその想念であると言わねばならない。

 

空(くう)はどのようなあり方をもできるベースであればこそ、我々が親しんでいるこのような肉体物質的存在形態のみならず、精神波動を内に擁するところの魂レベルの存在形態も可能なのである。

 

人間は肉体、エーテル体、アストラル体、コーザル体等の複数レベルの身体を持つといわれるが、それらはまさに空(くう)におけるあるいは空(くう)に存在する振動帯に同調するものであり、それはまた魂の属性である多次元的な存在形態をも意味しているのだ。

・・・

 

今までのいわゆる3次元的在り方及び、それを固定表現しているところの肉体、物資形態は、その一番外側ともいえる層の振動帯のことだと言えようか。

 

自己が自己である・・という意識に目覚めた存在、すなわち人間は、あなたやわたし達は、

 

そういう多次元とも言える存在層に気付ける「意識」を有しているということであり、

 

また、今この時、明確に自覚すべき時期に来ているということである。

 

多分、そういう稀有な意識進化プロセスが生じたことを「アセンション」といっているようである。

 

今ここに在りながら、またどこにでも在ることが出来るという、拡大された「意識」に至ること、

 

その意識からより自由な想念を汲みだしつつ、結果である周囲の現象化を促すこと、

 

是こそが、根本的な改革であり、あるいは神聖な革命であるといえようか。

 

・・・

 

常に、わたしは・・・わたしである・・ところの・・・存在である

 

いかようにも内から外へと投影できる存在のことを、意識的存在と言い、

 

それはまた全ての世界、様々な存在階層にも遍満するところの生命体、

 

そして今ここにある・・・あなたやわたし達のことである。 

 

誤解を招くかもしれない表現をするならば、

 

魂とは多次元的複合体であり、

 

それぞれの世界のわたしであり、

 

今ここにいる「わたし」でもあると言えるだろう。

 

普遍的な意識の個別化されたものが、あなたやわたし達、

宇宙やら多次元世界やら、そういう様々な存在階層、様々な家においてもそうであればこそ、

存在諸生命、存在諸物は全て、一つの意識から生じているわけであり、

そういう直覚的な事実をいう言葉としては、

一つは即ち多であり、

多はまた即ちひとつなのである。

・・・

再掲するが、

あなたの見聞きする外側というのは、実は内側の投影である。

 

わたしの見聞き感じる風景、外の木立、街路樹、建物、空の雲、そして動き回る人々、天空に見える宇宙、そして銀河さえも、実はわたしの内側にあるものだという事に気付けるだろうか。

 

そんな馬鹿な!という感覚があるだろうが、深い意味では、どうもこれが真実である。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。