気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

大周期の終わりの始まり

2013-04-13 10:03:06 | 新たなる地平線

人類社会は、今明らかに転換期を迎えているのだがそれに気付けるだろうか。

 

それは激動の年をしっかり頑張りましょう・・等という年初のスローガンのような類のものではなく、

 

それを越えれば、まったく違った世界に移行するとでもいうような「転換」なのである。

  

「転換」とは一気に現象化するとか、短時間で姿かたちが変わってしまうとか、あっという間に様変わりするようなものであり、別の意味ではカタストロフィーのようなものかもしれない。

 

カタストロフィー・・は破局とも訳されるが、必ずしもそういう良し悪しを含む感情的なものではなく、多分言い得ていると思われるのは、

  

歪の一気の解消、あるいは清算、一つの幕引き、ご破算、成就、生誕、死、飛躍、等のような、後戻りができない変化、不可逆的相転換のようなものだ。

 

人それぞれのマクロ的、あるいは最大公約数的な集団投影であるところの地球人類意識が、必ず通過するべきある瞬間を迎えつつあるということでもある。

 

・・・

 

どこにそのような兆しがあるのだろうかと訝る向きもあるかもしれないが、

  

実は兆しという段階をとうの昔に超えてしまっているのだということに気付けるだろうか。

  

現状で云えば、後はほんの何かのトリガーによって一気に急展開するような時期に差し掛かってきたという事である。

  

それは例えば、氷が0℃を超えて溶け出し水に転移し始めている状態であり、ゴムがギリギリまで引っ張られて千切れる瞬間であり、コップの中の水が増えてゆき、あとほんの数滴で器からあふれ出す瀬戸際であり、また今までそうだと信じ込んでいた価値観が、何かの切っ掛けで大きく一大変化せざるを得ない状態である。

   

それは飽和点、転換点ともいえる特殊な状態のことだと言っていいだろう。

  

今はそういう特殊な時であるのは間違いがない。

   

人類と地球環境、そしてそれを取り巻く宇宙環境含む色々な側面でそれが観察される。

  

そして、そのすべての側面が”人類の意識”に大きくかかわっていることに気付けるだろうか。

   

・・・・

  

(以下の内容は当然ながら商業ベースの情報、あるいは教科書などには載っていないが、多くの文献や昨今のインターネットサイトでキーワード検索ができるものである。)

  

それはまたアトランティスやレムリアそしてムーと言われる古(いにしえ)の超古代文明の転換点とも相似しているのである。

  

12000~13000年ほど前にあったと云われているアトランティス文明に関して有名なのは、ギリシアのプラトンがエジプトの神官から伝え聞いたといわれる書物の記録であり、かつてその文明はジブラルタル海峡の先にあったというものである。

  

現在大西洋のそのエリアと思しき所は、アゾレス諸島、マデイラ諸島、カナリア諸島がある。アゾレス諸島にはコモド・ドラゴンという名の恐竜の生き残りが生息している。地殻変動でその海域を含む陸地が没したのだとすればなるほどとも思われる。

   

良く引用される下の地図は、17世紀のドイツの教会の司祭であり科学者であったアタナシウス・キルヒャーが出版した書籍の中のものとされる。

 

当時の教会はその権威からして様々な情報が集まるところでもあり、また彼の業績からして文学者、童話作家でもなく科学者であったところが面白い。17世紀以前にもアトランティスに関する伝承や記録の断片等があり、かつ当の本人が強い興味とひょっとして魂レベルでのノスタルジックな思いを抱いていた可能性もあるだろう。そうでなければ当時の権威筋でもある教会の司祭が、このようなものを敢えて出版するわけがないとも思われる。

  

下の地図で大陸が肉厚、アバウトに描かれている理由は、その詳細が不明だったからだと思われるが、しかしながらアゾレス諸島やカナリア諸島と思しき島は17世紀にはその詳細が知れていたはずであり、ひょっとしたらそれらの諸島は当時地図にあるように実際には小大陸のようなものであったかもしれない。

   

それが海没して今の切れ切れの諸島群となり、大西洋中央にある大きな陸地はそのほとんどが海に没したとも考えられる。大西洋の真ん中には中央海嶺というマグマの湧出ラインがあり、またその海嶺は地殻変動や地震の巣であるため、この直上にある大陸がすっかり沈んだことも頷けるかもしれない。

Athanasius_kirchers_atlantis

リーディングで有名なエドガー・ケーシーは、北米のマイアミ沖のバミューダ海域、魔の三角地帯とも呼ばれる場所にアトランティスの文明の一部が発見されるだろうと予言したが、事実そのエリアの海底にある種のピラミッドやら石造りの都市跡、道路のような遺跡が発見されたとも言われている。

  

またエドガー・ケーシーはアトランティス文明にかかわる無数のリーディングを残している。彼はそのリーディングによって、数多くの治療や問題解決等の成果を上げており、その情報取得能力からして、かなり信憑性がうかがえるわけだが、現代人の多くがかつてアトランティス時代にも転生していたとも言っている。

 

ちなみに、このような文章を変な常識観念から排除せず、普通に読んでいる読者は相当な転生記録を潜在意識に持っていることを・・うすうすでも感じているかもしれない。

  

またアトランテュスとは直接関係がないかもしれないが、古代文明からの情報が残されている可能性があるものとして、16世紀の海軍軍人ピリ・レイスのものと云われる古代地図がある。その地図には氷で覆われていて中身は見ることのできないはずの南極大陸の北岸の正確な形が記されているのである。

 

 458pxpiri_reis_harita


公式には、南極大陸が発見されたのは19世紀であり、内部の大陸の地図が作成できたのは20世紀初めなのだ。またそのピリレイスの地図は、地上で測量して作り上げたものではなく、地上はるか上空大気圏外から俯瞰した眺めからの描写図法である。有史以降ではそれを可能にする人工衛星やシャトルは20世紀の後半以降である。

 

また現代文明のみが唯一のものだとする表面的、時系列的な狭い観点からすれば、このようなあり得ないような遺物のことをオーパーツ(out of place artifacts 場違いな工芸品) と呼んでいるようである。オーパーツとは要するに現代文明以外の地球の古代文明あるいは地球以外の文明との関わりを示す遺物のことである。

・・・

古代、超古代に関する様々な伝承や記録等が残されているわけだが、その超古代文明あるいはその大陸は現在この次元世界に存在していないがゆえに、全てが断片的な状況証拠に過ぎないとされ、公式な歴史の中には出てこないのは致し方がないが、それが存在しないとする判断もできるわけがないのである。

  

かつてあったとされるものが今存在し知覚されないために、単なる架空の伝承、おとぎ話のようなものとされているわけであるが、ある意味で火のないところに煙は立たないわけで、なにがしかの古代文明は存在したと考えるほうが妥当なのである。

  

実際古代文明や宇宙的な文明の存在には、何がしかを肯定する理由や証拠はあるが、否定する理由や証拠はないのである。否定する理由は唯一「そんなことはあり得ない」とする先入観念・その時の常識観念だけなのだ。

 

またそれらの古代文明は一夜とは言わないまでも、極めて短い期間の間にこの世界から消えてしまったとされており、その物理的変化を言うならばカタストロフィー的な文明崩壊である。徐々にゆっくり、そしていつの間にかではなく、あっという間の極めて短時間なのである。

  

短時間という事は、すなわち時空間の変化率の激しいことを意味するわけで、変化率が激しいという事はエネルギーが増大しているとも言えるのである。これは単にスピリチュアルな物言いだけではない。

・・・ 

余談だが、これを運動系で類推してみると、

V =dX/dt (V:速さ、X:空間距離、t:時間)であり、

物の(運動)エネルギー Eは、1/2×M×V×V 

つまりエネルギーは、E=1/2・M・(dX/dt)・(dX/dt) ということなので、

 

エネルギーは時間に2乗で逆比例する。すなわち時間が短縮するという事はエネルギーが2乗で増大するということであるし、またその逆エネルギーが増大すれば、時間は逆二乗で短縮されるということでもある。

 

こういう数式は単にエネルギーと時間の直観的な理解のためのものであるが、

 

確かに、今の時代の特徴はあらゆるものが目まぐるしく変化しているということであり、それは何も偶然にというわけではなく、また文明の利器の進展に沿ったというわけでもなく、

 

実際に何かのエネルギーが増大しているということでもある。

 

それはある側面からの説明では、銀河中心方面からの放射エネルギーとか、あるいは高次元からのエネルギー降下とも言われているのだが、いずれにしても今この地球あるいは太陽系も含めて何がしかの急激なエネルギー増大があるようである。

 

 

それはまた、意識~想念~エネルギー~物理現象(表現)   という流れから言えば、

 

要因方向である・・・意識~想念の方の大きな変化を意味しているのである。

 

従って人類にとって本来は物理的なエネルギーの変化だけが主題ではなく、その元にある意識、想念の方の要因が最重要であるということだ。

 

ここが肝心要なところである。

 

・・・

 

アトランティスやムーの文明の最後に関する伝承に共通するのは、短時間のカタストロフィー的な崩壊であると同時に、その時期が大体約12000~13000年前とされているところである。

 

12000~13000年という直線時間は、ちょうど地球の歳差運動の周期、25600年の1/2に当たっている。これもたまたま偶然とすることで事なきを得るわけにはいかないかも知れない。地球固有のもっとも長い周期、それが歳差運動の1めぐりなのである。

  

これはエジプトのピラミッドに内在する情報等からも得られる大周期なのだ。

  

これはおそらく25600年の1つの呼・吸、陰陽サイクル、あるいはこの惑星の次元形態の一大変化サイクルであるとも考えられるのである。それはまた朝・昼・晩・夜、 春・夏・秋・冬、そのような地球上のサイクルの最大公約数的なものと云うことが出来るだろうか。

  

今はちょうど、夜から朝に、冬から春に該当しているようであり、またそれは約6500年を1区切りとするある意味で、起・承・転・結の最後、結~起にあるとも言えるだろう。

  

敢えて言えば、地球という惑星意識も、その上に存在する意識的存在たる人間、動植物も唯偶然にいるわけではなく、まるで魂の体験によって、それそのものを進化・開花せしめるべくしつらえられた学び舎なのである。

 

それが今大きく変わろうとしているというのが実際のところであろう。

 

世間の騒ぎや世界の騒乱、金融戦争やら物理的闘争、経済収支の破綻やら、嘘も騙しも見境がなくなった政治経済状況に関しても、その元にあるのは、

 

人類の想念の、どこか何か、突き動かされざるを得ないような衝動が原因であると思われる。

  

そして、その下地にあるのは「大いなる意識」からの次なる進化への促しであり、またエネルギーの増大なのであり、現象変化,展開にかかわる時間自体の収縮でもあるのだ。

   

潔く、その大いなる波動に素直に乗れば良し、あるいはまた幾多の古代がそうであったように、頑なな個我執着(エゴ)の重さで沈むこともままよ、またその文明あるいはそれを構成するそれぞれの意識達の選択なのである。

 

しかしながら、いずれにしても、何がどうであっても、

 

それぞれの<わたし>達が行なうべきは、常に穏やかで潔くあることであり、心魂の磨き、たゆまぬ精神の向上努力であることだけは確かだと言えようか。

 

 

それが道である。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 


エゴという一過性の夢

2013-04-11 20:18:24 | 覚醒意識

●あなたの周りの他人

人間の周囲には様々な他の人間がいる。

 

よく知った人、友人・知人、仕事上の顧客や仲間、親兄弟、家族、親戚、道を通りすがる他人、電車の中の人、

 

大なり小なり、あなたが寝るまではほとんどと言っていいほど、他の人と関わっていることだろう。

 

そういう「他人」とはいったい何だろうと・・・考えたことがあるだろうか。

 

ただ単にあなたの視界に意味もなくそこに現れては、いろいろな関わりを偶然に持っていると思うだろうか。

 

個人個人別々の身体と、個人個人別々の想いと、個人個人別の感情を持っているわけであるからして、

 

当然、個人個人は別箇、バラバラ、分離した存在単位であると考えるのかもしれない。

 

その見方は、すなわち2元性の見方と言われるものである。

 

 

●全てそれぞれは「ただひとつ」の性質をもつ

 

右と左、それは別々のもの、上と下、それも別々のもの、男と女、それも全く別々のもの、老人と若者、それも別々のあり方であるという見識である。

 

あなたと私、君と僕、目の前の他人とそれを見るわたし、・・・それらも全く別物であるという認識である。

 

それはそうだろう、肉体が別箇であり、思考や感情も別箇であるわけで、同じ物ではありえない。

 

そう、例えば顕れた物質的現象としてのあなたと私は、別の表現形態を持っているわけである。

 

人は皆それぞれ異なった属性を持っている、身長何センチ、体重何キロ、生年月日、名前、性別、記憶、それらが全く同じ人物は存在しないという直観はあるはずだ。

 

顕れた現象には、同じものは全く存在しないということでもある。

 

時間空間に現れたものは何一つ同じものはない・・ということでもある。

 

これはまた、

 

あらゆる現象には 何もかも同じものはただひとつもない ということである。

 

 

そう、世界、宇宙、あらゆる森羅万象の中で、何もかも・・たった1つ、只ひとつしかない・・・ということでもある。

 

あなたもわたし達も、目の前の親しい人も、たまに嫌な人も、近所の人も、そして家にいる猫も犬も、机も書棚も、食器も、世界・宇宙の中にたった1つしか、只1つしかないのである。

 

同じ銘柄の何かの製品であっても、同時に造られたものであっても、個体として、その存在する時空座標、全てにおいて異なっている。

 

そう・・・、意識して周りを見回せば、あるいは考えを巡らせば、何の、何時の、何処の・・どれ1つとして同じものはないのだと気づけるだろう。

 

これは極めて当たり前であるが、すでにある当たり前の奇跡の連続のようなものである。

 

多くの人は、銭金、効果、効能、影響、損得、勝敗、損得などの極めて皮相な観念の習慣からその意識を外し、元からある、何時もあった事実、こういう根本的でシンプルな事実に気付くべきであろう。

 

日常とは・・・いつでも、どこでもある当たり前の奇跡のことである。

 

●すべてはかけがえのない唯一のもの

 

人は例外なく、現れている諸現象、全てにおいて全てが異なっているという奇跡的な事実の中に生活している。

 

どれ1つとして同じもの、無駄な繰り返し、意味のないおうむ返し・・そんなものはないということだ。

 

例えば、何でもお金に換算する「なんでも鑑定団」ではないが、

 

世界が、世界に1つしかないものだらけ・・であれば、個別に値付け等できるわけもないし、値千金どころか値踏みなど論外であろう。

 

銭金勘定の計算のような、本質的には実際どうでもいいような皮相な観念ではなく、

 

事の本質から見ればすべては<この上なく>貴重なことである。

 

何せ、本質において、世界に1つしかないものを、どうして他と比較できようか。

 

比較できない、相対的でないものは即ち、いわゆる絶対的ともいえるのではないか。

 

全てがかけがえのないものである・・ということだ。

 

また、

 

全てが掛け替えのないものであれば、

 

どうして、どれか1つ、何か特定の何かに執着する必要があるのか?

 

 

●2元的な価値尺度 

  

2元性の観念では、個別別箇に現れた<物>の方だけを見る、あるいはそれらの違いの方だけを見る。

  

右と左、それは別々のもの、上と下、それも別々のもの、男と女、それも全く別々のもの、老人と若者、それも別々のあり方であるという見識である。

 

そして善と悪である。相容れない別のものとする観念である。

 

あれが良くてこれは悪い、あれは高くてこれは低い、それは価値があってこれは価値がない。

  

彼は味方であって、彼女は敵である。あの人は善良でこの人は邪悪である。

  

あの国は正しくてこの国は間違っている。

  

要は、そういう手前勝手な価値観で終始していたということなのだ。

  

そういう価値観念、言わば物差しであらゆるものを観ていたということだ。

  

その根底にあるのは、 個我・・・という一過性の<わたし>観・・・である。

  

その個我への飽くなき執着・・・

  

それを<エゴ>とも言っている。

 

 

あらゆる表現型、またそれに付随する物、財産、地位、親、子供などへの執着もそうである。

 

  

そう・・・、いつの間にか<執着>が入り込んでいるのだ。

 

  

●過ぎたる自己保存が恐怖を生み出す

  

そして、その元にあるのは何かというと、自己保存本能である。

  

人は大なり小なり、自己を生存させるために、何が良くて何が悪いのかという選別をしているということだ。

  

それは肉体護持、現状維持、生活のために必要だという無意識の要求によっている。

  

・・・違うだろうか?

 

 

肉体存続にこだわるあまり、それを何とか維持しようとして、それに適するものを善、それに適しないものを悪としているということだ。

  

要は人間が死を恐れているということだ。

 

不都合な状況は、困難を連想させ、困難は生きにくさにつながり、生きにくさは死への連想をさせるのだ。

  

悪者の行為は、自己利益を棄損し、自己利益の棄損は生きにくさを連想させ、生きにくさは死を予想させる。

  

貧乏は社会での生きにくさであり、仲間外れも集団での生きにくさであり、不名誉も生きにくさであり、生きにくさはまた死を連想させる。

  

一般的と言われる人々の観念では、

死んだら終わり、後は何もない、

従ってよくわからないけれども、とりあえず死ぬのが怖いから、

世間の中で何処か安心しつつも、

その中で揉まれ、叩かれ、這いずり回り、あるいは這い上がり、

あるいは取りあえず安堵しつつふんぞり返ったりしている。

大体そんなことなのだろうか?

 

 

違うのだろうか?

 

そういうある意味で川の流れの上の浮草のような、刹那的な状況においては、こころの下に隠した苦悩が尽きることもないはずではないか。

 

また、中には生きるためと称して、嘘八百を隠れた信条としつつ、大勢の他者をだましている者もいる。

 

特に人前に自らをさらす仕事柄か、昨今の世間の政治家などはそういう者が目立つわけである。

 

しかしながら、皆人の例外なく、いつか必ず死んでゆくのだ。

 

そうして、いったい全体どこに行くのだろうか。

 

 

確たる何かがあるのだろうか?

 

いいやありはしないだろう。

  

●過ぎたるは執着はまさに及ばざるがごとし

  

現代社会では、生きることにこだわることは良しとされていようが、

  

でもそれって実際はどうなのだろうか?

 

特に戦後の欧米流の人命尊重観念は本当だろうか。

 

自由と民主主義を標榜するどこかの国、人命尊重を謳ってきたどこかの国こそが、

 

あちらこちらに勝手に出向いては、最も大量に人命を奪ってきたのは、いったいどういう事だろうか。

  

 

なんとしてでも、何がどうであっても、そして人を押しのけても、また人を排除してでも、あるいは他を犠牲にしてでも、自己保存にこだわることに、一体全体・・どんな正当性があるのだろうか。

 

他よりも1分、1秒、1年、10年でも長く生存するために、他の全てを犠牲にして、場合によって他を殺戮し、挙句の果てに、そういうことを平然と行う輩たちはいったいどういう天国に行くというのだろうか。

 

生きること、・・・適者生存、競争、戦い・・・

 

何か根本的にズレているし、意味がすり替わっていることに気付けるだろうか。

 

  

そう・・・、生きるという、皆ともに当たり前のことが特定の個々人のエゴにすり替わっているのである。

 

  

昨今の世間の風潮はそういう風な、断崖絶壁に誘う方向に流れていることに気付けるかもしれない。

 

  

日本で渦巻いているわけのわからないTPP、放射能汚染処理のできない原発、国民のお金をつかって気ままに借金を積み重ね、挙句の果てはその担保まで収奪しようとする政治的魂胆、

  

これらは全て、個我の自己保存のために他者の犠牲を強いるという観念から来ているのである。

  

まるで、他を犠牲にしてでも、生への過ぎたる執着を良しとする、そういう集団を募っているようではないか。

  

レミングがレミングの群れに合流しようとしているようなものである。

  

そういう集団、個我の飽くなき執着の・・その行き着く先は、・・・・ない

  

 

大いなる大自然環境を与えられ、仲間である魂たち、多くの人々に囲まれながら、

 

自己だけ・個人だけ・自分だけの刹那的な生への執着にはまり込み、

  

他を犠牲にしても、目先の生存と安定に固執する人間の醜い有様を見よ。

  

そのすべての根底にあるのは、個我の抱く死への恐怖なのである。

 

 

恐怖とは、本来肉体に備わっている危険回避の反射機能ではなく、

 

個人我に執着するこころ・・すなわちエゴの妄想なのだ。

  

・・・・

 

今までのこの地球という表層の次元世界で行われていたものは、主にエゴの妄想であったようだ。

  

そして、そういう楽しくも悩み多き悪夢、自己以外をあるいは敵とするような妄想から目覚める時が・・今・・来ているのである。

  

そのうちではなく、今はもうこの時なのだ。

  

全てはひとつ・・・ひとつがすべてに展開している、

  

一は多なり、多は一なり、

 

多は他であり、そのひとつひとつが、かけがえなく、

  

また、あらゆる多、全ての他は自らの多面鏡、

  

・・・すなわち・・・あなたは・・<わたし>なのである。

  

 

お分かりになるだろうか。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


色即是空のエネルギー(3) デゴイチ出現

2013-04-07 14:48:47 | 新地球文明論

●新しい可能性の認識から現実へ

かつて一大革命を起こすような画期的な技術やノウハウが、陰謀やらによってつぶされてきたという話も多々あるわけだが、そういうことになるのは、要は大衆意識がそこまで認識出来ていないからだとも考えるべきであろう。

 

人々にそれに関する認識が多少ともあれば、逆に人々にとって画期的な発明や発見が、エゴの行為によって見殺しにされることもないということだ。

 

先駆者たちは常に、そういう人々の無知や偏見あるいは無意識的あり方によって往々にして迫害を蒙るものである。なぜかと言えば、いろいろな分野を通じて人々の意識の進化、目覚めを促す行為そのものこそが、この宇宙で最も高邁な奉仕であり、場合によって否応なく犠牲を強いられる場合も多いのである。

 

画期的なアイデアや革命的知見は、それが周知されること、あるいは共通の認識にならないと、当然ながら社会という共通現実世界では表面化しないということだ。

 

個人においてもそうであるように、集団内で共通で認識せざるものは、その集団内に顕在化しないわけである。

 

根本的にはそういう事であり、誰かどこかが、人々がより良き世界に住むための知識や英知を握りつぶしているという解釈は意外と正しくない。真の原因は人類全般の意識の狭さ、見識の低さにあったのである。

  

●二元性の終わり

こういう見方は、社会の出来事、人間関係の個々別々の現象を追い掛け回している限り、決して見えてこない。

 

マクロ的にみるならば、世の中での悪や偏見、傲慢を地で行く者たちとは、人類全体の中にある闇や無知の縮図を代表しそれを敢えて表現する役目をする者たちである。

 

ところがそういう悪を演じる個々の者たち、例えばオオカミ自身にもそれがわからないわけであり、またそれに迷惑を蒙ると称する羊の群れたちもそれがわからない。

 

つまり地球という次元世界での生き残りを掛けた、それぞれの自由意思に基づく健気な演技なのであるが、そういう演技を行なっている者たちが、自分が役者なのだという事自体に気づいていないということだ。

 

自己とは・・地球という劇場に顕れた、普遍的生命・魂であり・・・人生とはその舞台での一過性の演技であるということに、なかなか気づかないという事である。

 

人類という集合体はあなたやわたしという個々人の、フラクタルでマクロ的な展開であり、あなたやわたしたちの内面にある光と闇、英知と無知の玉石混交の有様自体を観ることが出来るならば、善も悪もそれらの段階を示すものでしかないことが確り理解できるだろう。

 

善も悪も、嫌も応もなく、全ては魂レベルの気付きの為であり、またすべては進化の途上にあるという事である。

 

明言するが、善悪観念がどうしようもなく対極を構成するような、そういう時代は終わりを告げたのである。

 

・・・

●認識によって顕在化する法則

 エネルギーは人間の生活に深くかかわるものであり、そのエネルギーがより自由自在に得られるならば、今までの人類の苦悩や無駄な労力も無くなるはずであるが、それが今までどうして我々の前に出てこなかったかと言えば、

要は、我々の多くが新しい事実に気づかなかっただけなのだ。

 

既成の概念、常識観念の範囲では、当然ながら新しい事象に気づくことはないということだ。 

  

新しいものなどない・・というのが集団での認識であれば、共通現実で構成されるこの世界に、そもそも新しいものなど存在しないということになる。

 

・・・

曇り空であれば太陽がその上にあっても光は地上に届かない。

こころが曇っていれば、 

それが今までに、そこに有ったとしても・・・観ることあたわず・・である。

何事であっても、「それ」を存在認識として気付かなければ、「それ」は顕在化しないのである。

  

・・・・・

しかしながら、真の意味での次世代エネルギーも、今ようやく顕在化してきた。

 

様々なフリーエネルギーという過去の技術、二コラ・テスラ、E・グレイ、エマモーター、等の断片的な発明情報や経緯は、謎めいたストーリーと陰謀と、闇と光の闘いのようなおどろおどろしい伝説を通じて、ようやく一般の認識レベルにも静かに浸透してきた。

 

ご存知かとも思うが、

 

その1つは、

日本で特許出願し、昨年公開された、井出治氏の通称デゴイチ・コンバーターと言われているものである。

 

日本で特許出願し、それが公開されたということは、現状の社会制度において、

すでに公知の事実になったということだ。

嘘も隠しも出来ない形になったということである。

 

あまりよそ様の情報を添付しない主義であるが、公開文なのでここでの紹介も問題はないと判断する。下記は参考サイトであり、ここから特許庁の閲覧も可能だ。)

http://puripuripaicha.blog106.fc2.com/blog-entry-6.html

 

日本での特許公開がされたわけなので、これは法的に「公知の事実」になったということだ。

発明者に特許が下りれば、彼に知的所有権が発生するが、他の人もこれを勝手に事業化して金儲けをしない限り、個々での製作は基本的に問題がない。そう、誰でも作ることが出来るのである。

 

 ・・・

英語ではなく日本語なので非常に解りやすく説明されているが、  

そのどこにも、フリーだとか、真空だとか、空間エネルギー等とは書かれていない。  

当然ながら、変な誤解や大衆の有頂天、乱暴狼藉?などを招かないような、ごく普通の電気的な技術文書として書かれている。

   

やや専門的な言い方になるが、

その公開された技術は、単にパルス駆動型のトランスシステムを使った「高効率のコンバータ」としての技術特許とされる。  

決してわけのわからない異次元の物質など使っていない。(笑)

 

ではあるものの、磁場という空間の「場」の変調を制御することで、その「場」の揺らぎ、跳ね返りのような効果を通じて、この次元へとエネルギーが滲みだす・・という表現も可能だろうか。

あるいは、2次元平面の土地に3次元的な縦穴を掘ることで泉が湧き出す・・という言い方もできるかもしれない。

 

この超高率コンバータは、スピリチュアルな概念の組み合わせによる先行観念的な論議で終始することなく、そういう可能性を考慮しつつ、氏が独自に、長年コツコツ研究・研鑽。探究してきた、ここでいう「真空エネルギー」の1つのシンプルな実現方法なのである。 

 

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(31は直流電源、34はパルス発生回路、33はスイッチング素子(FET等)
 32は特殊なトランス、35は負荷。)

 

私の所感を示すならば、これはフリーエネルギーというものが<認識>から<現実化>へと転換されたものであるということだ。

 

夢を夢とせず、それをこの世界に持ち来らせたということだ。

 

電気の普通の基礎知識があれば良く、少し時間をかけ、そして我慢して少し食い下がるだけでそれが理解可能だろう。

  

そして、その先に直観がやってくるはずである!

 

 

●電磁波動を使い、空間から余分な電磁共鳴波動としてくみ出す方式

鉱石ラジオが、空間を伝播する電磁波をキャッチして電気エネルギーあるいは音声に変換されるように、あるいは地中の井戸の水をくみ出すように、

一定の磁場変化の波形と周波数を調整することで、その共鳴磁場の発生・消滅サイクルで滲み出すところの真空エネルギーが存在すると考えられる。

 

それは1種の電源コンバータのようであり、電磁コイルを使った磁場の特殊な配置と、それを生じるための電流の波形と周波数の組み合わせで構成されている。

 

言わば特殊な組み合わせで作られた、トランス(変圧器)駆動回路のようなものである。

 

特許公開文書には、実施形態を説明しつつ、得られる事実のみを主に記述するものであり、感想や予想は意味がないため、当然記述などされていないわけだが、

 

それを見るに、変圧器(トランス)の特性としての”磁場の「空間」伝達”に関わる現象の中において、逆起電力の残留波動の有効活用、レンツの法則などの組み合わせの妙によって、実際に空間からエネルギーが取り出せているのだ・・という理解が可能である。

 

ごく普通の電気、磁気の法則にのっとって構成されている代物であり、おどろおどろしいものはどこにも無いわけで、また隠し事やそれに付け入る隙もない。

そして、自分の分析と直観によれば、これは真空エネルギーを利用した超高率のコンバータであるということがわかる。

  

まさに、シンプル イズ ベストだ。

 

・・・    

磁場も重力と同じく、空間の1つの歪のようなものと考えるならば、その磁場によって生成している空間の歪に対して、ある種の波動を与えることによって、波動の共振、共鳴現象が起き、その増幅された波動(磁場エネルギー)を一部取り出すことが出来るものと考えられるのだ。

 

プラス・マイナス=0、  +1-1=ゼロ、 陰・陽=空(くう)、

また、水面に石を落せば、そこを中心として円を描く波が生じるだろう。

・・・波が生じたということは、エネルギー波動として現実世界に顕れたということだ。

語呂合わせではないが、

どうやって空(くう)に、石(意思)を落せばより効率的なのか、それが課題であったともいえるだろうか。

アイン・シュタイン(一石さん)も喜んでいるに違いない。(笑)

  

・・・

そのデゴイチコンバータは、1なる電源入力で、1以上の出力を可能とする電源変換器であり、通常一般の変換器(コンバータ)と違って100%を超える効率を出すとされる。

 

科学技術的な見識がある場合は、こういう話になると、もうここでダメである。(笑)

電源機器の効率は常に100%以下なのだという「常識」があるからだ。

つまり、装置の入力より出力が増えているというと、一見永久機関を連想するトンでも系と言われるのである。

 

しかしながら、自然界には未だ人間が知らないこともあるという謙虚さがあるならば、一概にすべてトンでも・・・として捨て去ってはいけないはずである。

 

効率が100を超えると称する仕組みの信憑性を論ずるならば、1つにはその周囲の空間が冷えるという現象に注目する必要がある。 

 

通常の装置でいつもある損失熱、発生熱が無く、逆に周囲の空間が冷える現象、すなわち吸熱するという現象がある。この周囲の空間からの吸熱という現象があるシステムは、全てとは言わないまでも、間違いなく100%以上の高率が可能な機器と言っていい。

   

普通のコンバータは  入力 ⇒ 出力 内部損失(発熱)  であり、

必ず入力>出力  であるが、

  

デゴイチコンバータは  入力 ⇒ 出力 -内部損失(吸熱)  とされており、

つまりは 入力<出力  となっているのである。

100の入力エネルギーが、「それ」を通過すると、空間のエネルギーが湧き出し加わり、出力されるエネルギーに追加され、100以上のものになるわけである。

つまり、このコンバータによって空間エネルギーが湧き出し、滲みだしているということ。

 

(誤解を避けるためだろうが、公開特許ではそういう100%以上の効率に関する文言は当然ながら記述されてはいない。)

しかし・・もし・・100%を超えるならば、とんでもないことになるわけだ。

 

・・・我々は今までと異なる生活様式の世界に入ることになるのである!

  

これを数段組み合わせれば、何段も増幅できるわけであり、その増幅の一部を入力側にフィードバックすれば、初期駆動、トリガー以外のエネルギーが必要なくなるということだ。

つまりエネルギーが空間から供給されるために、必要なのはそのエネルギー発生器を最初に動かすトリガーだけになるということである。

 

これも発想の転換、既成の概念の跳躍を必要とするものである。

 

①今までの文明世界を根こそぎ変えてしまうか、

あるいは

②まったく違った世界にならなければ、普及しないか。

そのいづれかであろう。

しかしながら、前者と後者では、まったく異なるプロセスが起きるという事だ。

①は最も望ましきソフトランディング的な文明転換であり、②はハードランディングによる破壊を経由した再生と言えるだろう。

・・・

 

エネルギーがどこでも得られるような生活様式、

そんなこと不可能に決まっていると・・・思うのか、

 

可能性ありと・・・思うのか・・・、極めて簡単に言って・・・、その違いだけなのだ。

 

今はもう、それが嘘や売名行為やペテンなどとは思わなくなりつつある時代であることに気付けるだろうか。よく言われるように、信じるも信じないもあなた次第・・・である。

  

既成の概念だけに縛られない、好奇心旺盛な諸氏や、感受性の高い人々が増えているのも事実である。そういう時代なのだ。

 

それはまた、先人の努力と英知のおかげで、人類意識上での<認識>が変わってきたのだと言えるだろうし、そういう認識の向上、意識の進化に伴ってそれに呼応するかのごとく、雄大なサイクルがめぐってきており、宇宙空間からのエネルギーも浸透してくるようになったと考えられる。

 

意識、想念、エネルギー、現象・・・・すべて一連でつながっているのだ。

 

・・・

 

進む道は形ではなく、意識にある。

その正道を歩く力強いガイドは想念であり、

道すがら、周囲の景色や咲く花々は、エネルギーの賜物である。

そしてそのエネルギーはこれから一大変化を起こすことになる。

 

 

現象・形・物質のほうにこだわる者は、未だそれを識(し)っていないことを示し、

ごく当たり前に行われるところの2元性の「卒業」は難しかろうか。

  

我々が存在する世界の基本プロセスは・・・・意識~想念~エネルギー~現象化であり、

意識の働きである想念を変えることで、扱えるエネルギーも変わり、現象化の様相も変わるのである。

他の動物・植物という生体と異なり、人間には想い、想念、思考という、エネルギーを生み出すところのプロセスに先行する、意識を使うことが出来るポジションにいるということなのだ。

言わば我々はそういうところまで進化の道を歩いてきた魂の強者(つわもの)なのである。

 

魂という、肉体個人我よりさらに大きい「わたし」を意識するまでに成長した、我々人間という生命体は、まず想念の第一義的な重要さに気づかなければならないのである。

 

難しげなものは本当に何もない。

想念と行為によって世界が変わってゆくこと、   

あなたは本当にそれを感じることが出来るか? 

 

人の第一義的に大切なことは、姿かたちや見栄え等でなく、その想念にあると理解可能だろうか。

昔からあったことであるが、多分道が2つに・・・1つとはこういうことなのだ。 

 

・・・

金や物より大切なのはこころの有り方と知っているか?

   それとも、銭金が第一に大切なことだと思っているか。

   

こころが本来常に青空のように美しくあるべきだと感じるか?

   それとも、いつも外の何かのおかげで曇っているか。

 

気分は、何があってもどこか晴れやかであれると感じるか?

   それとも、他人のおかげで食虫花のように毒々しいか。

 

心だては太陽のように、無条件に他に優しいことが本来だと感じるか?

   それとも、親切や慈しみは無駄と思っているか。

  

何かの折には、いつも自己を省(かえり)観れるか?

   それとも、・・・ばかな・・、悪いのは自分以外だ・・・と思っているか。

 

嵐の中でも、どこか穏やかであれるか?

   我を忘れ右往左往するのが当然と思っているのか。

  

真実を知っていくことが楽しいか?

   今の知識がすべて正しいと思っているか。

 

自分の中に、汲めども尽きぬエネルギーをどこか感じることができるか? 

  それとも、そんなものはないと思っているか。

 

自己を、肉体を表現している不滅の<魂>・・と識(し)っているか?

  それとも、人は単なる肉体であり、死んだら終わりの有機的物質であると思っているか。

 

あらゆる全ては、調和と変化と進化を楽しむためにあると、感じることが出来るか?

  それとも、生命は競争や弱肉強食で進化するものだと信じ込んでいるか。

 

・・・

自己を観る、想いを観る、行動を省みるという行為の重要性が、古代から受け継がれて来たことには理由がある。

 

魂のレベル、あるいは進化、あるは学習成果、あるいは楽しみ・・・・は、自然に生起する想念という意識の2次的生起波動によって、それを自己確認することが出来るのだ。

 

また、人々が自己のこころを観ることによってのみ、自分が生まれた世界において、自縄自縛に落ちいっている観念による足枷手かせを外すことが出来るのだ。

  

想念が様々なエゴ、我欲の執着に縛られなくなれば、そういう存在達の扱うことが可能なエネルギーもまた、より自由(フリー)となるのが・・・なるほど道理である。

  

真空エネルギー、フリーエネルギー、あるいは宇宙エネルギーなるものは、

  

人のこころがある段階まで自由になった時に、それが使用可能になるなものなのだ。

 

決して般若心経がどうだこうだという事ではなく、それは色即是空、空即是色を理解する者たちの当たり前のように扱うことが可能な無限供給エネルギーといえようか。

 

またそうでなければ、至極当然ながら、エネルギーの誤用招くことで、自滅自壊するのは火を見るより明らかなのである。

 

こころ進化せざれば、進化せる何ものの威力も扱うこと能(あた)わず・・である。

 

 

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色即是空のエネルギー (2)

2013-04-06 11:13:22 | 新地球文明論

●今までのエネルギー概念 

現状でのエネルギー使用の1つの容易な形態は電気エネルギーであり、従ってある部分で自由エネルギーは分散型発電機とも言えるだろう。

 

すでに実用化され使用されている燃料電池の燃料は、水、水素、酸素であり、燃料自体はどこにでもある水と空気なのである。またそれはどこにでも設置できる小型分散型が可能な発電装置であるし、燃料自体はどこでも得られるようなものであるわけで一種の自然エネルギー利用とも考えられる。

 

また自然エネルギーシステムとされる太陽光発電、風力発電も、天気や風の条件にもよるが燃料自体は太陽光そして風という一種フリーなエネルギーである。

 

地熱も波力もやはり自然の中にある温泉の蒸気流、海水の運動エネルギーを利用している。

 

これら自然エネルギー発電は、発電装置の製造、設備投資とその維持管理をする必要があるが、燃料そのものは自然の中にあるものであり、ほぼどこにでも存在するエネルギーを利用しているのである。

  

火力、風力、水力、そして危険な原子力の発電も、実のところは空気や水の「運動エネルギー」を利用していることに変わりがない。

 

火力は燃焼による空気分子の運動エネルギー、水力は水分子の自由落下で得られる運動エネルギー、風力は大気中の空気分子の流れを利用するものである。これらは分子運動エネルギーと言えようか。

 

原子力も要するに原子核の崩壊を加速させて、放出される中性子粒子の運動エネルギーを利用し、それを水に当てることで水を沸騰させて蒸気化し、発電タービンを回しているのである。これは原子運動エネルギーと言えるかもしれない。

・・・

一概に言うならば、今までのエネルギーは、火と水の使用法から逸脱しておらず、最終的には空気、水等の粒子の運動エネルギー、つまり粒子の流れを作り出し、それをモーターに導き、交流、直流電気に変換しているということである。

 

●原子力は物質偏重文明の最終エネルギー

原子力にしても、結局は水なくして発電できない代物であり、根本的な問題は、自然にそのままあるはずの放射性原子を集めて濃縮し、より濃密な原子核崩壊エネルギーの塊を作り、その原子崩壊時の電磁波エネルギーを利用することにある。

 

それは他のエネルギーと違い、周囲環境のエントロピーの急増大、あるいは生命の崩壊を導きかねない類のものなのだということは誰でも知っているはずだ。原子崩壊時に生じる放射線が分子レベルの波長を持つために、生命種の形態設計図であるDNAを破壊するのである。それを分解、解消できないために、長期隔離、完全密閉が要求されるが、そんな完全な技術が世界にあるはずもない。

  

放射線によって設計図たるDNAが歪になってしまえが、出来上がる形態は確実にそのように歪になるのは当たり前なのだ。そして自然界に本来存在しない生命形態は当然ながら生存することは出来ないのである。

 

現実に人類は未だ原子核崩壊そのものを十分には制御できず、その核燃料から放射されるエネルギーも中和することが出来ないでいるわけで、問題は、そういう制御不能な根本問題を総合的に解決せず、一部の制御が可能な部分の利便性だけで見切り発車しているということである。

 

素知らぬふりをし、また何が何だかわからぬ者たちが、他の犠牲を承知の介で研究・蓄積すればいいなどと考えているならば、それは生命種として・・もってのほかの悪逆行為なのである。

 

故意か、結果的は知らないが、愚かこの上なくも、今それが平然と行われているのである!

 

いわば経済功利性の共通利益を理由だてにしているわけだろうが、何万年も汚染が続く状態の使用済み核燃料を放置しつつ、その処理を先送りでごまかしている、つまり子孫に巨大な負債と危険性を残しているトンでもない行為なのである。

 

お金の為か?身の安全の為か?目先の便利さか?

 

そんな刹那的な理由で、多くの生命を途方もないリスクに巻き込もうとしているのだろうか。

 

 

記者会見席で、知らなかったといって頭を下げればいいものと次元が異なるのだ。

 

最近次第に福島周辺域でも、遺伝子破壊の影響が顕在化してきつつあり、あちらこちらに植物、動物の異変が増えていることが真面目な研究者、学者たちによって観察され報告されている。

 

●土壇場まできた魂レベルの選択ステージ

 

このまま進んでいく世界ならば、人々の肉体に異変が生じ、子孫にも伝わり、それを解消するために、どれほどの時間を費やすことになるだろうか。

 

分けを知らずとも自滅を率先した者たちは、場所から逃れても、カルマからは逃れられない。

 

肉体は一時逃れても、・・・魂としては決して逃れられない。

 

それは・・・調和していないこと・・・そう、それは違うのだと!・・心底わかるまでは、

 

魂は・・・決して学習は終えないからだ。

 

それが言われるところのカルマだと言えようか。

 

・・・

●大自然に対して傲慢か、あるいは謙虚かの問いかけ

放射能汚染は、・・・生活を維持するために、無理して頑張って食べれば・・・それが無くなると思うほど、そんなに自然界は甘いものではない。

 

大自然はある面で厳然とした嘘を決して言わない教師のようなものである。

 

我々は、いつから、・・いつから・・・母であり、父であり、その物理的身体を提供し、魂の学びを支えている大自然という教師より偉くなってしまったのだろうか?

 

・・・

福島のひいては日本の未だ癒されざる現実は、現状で放射性物質の処理が不能であることの証左である。

 

そのような完全な制御もままならないものを、さもわかったふりをして行使すべきではないのである。

  

まさに子供の火遊びのごとくであるが、ちょっとバランスを崩し、さらに予想外の外乱が加われば、全世界を汚染し様々な生物種のDNAを破壊し、地上を不毛の大地にしてしまいかねない、・・・まさに寸前のところに来ているのだ。

 

まったくもって、ローン返済や経済功利性や、利権やエネルギー消費の貢献などのようなレベルの話ではない。

 

過去の教訓を生かさず、それを無理やり忘れ去り、あるいは誤魔化して、右ならえの目先の功利性や利便性だけで終始する事は、ほんの少しの切っ掛けで、もう完全な形で奈落の崖に転落してしまうための小さな重り(おもり)に等しいのだ。

   

2年前と今の現状を見れば、そのうち何とかなるというような、そんな状況ではなくなった。

 

・・・・

 

気付かない間に・・・、ここで・・人間の本質の進化レベルが試されているのではないか。

 

まるで道が解りやすく、2つに1つまでに集約されたようなものである。

  

1つは古き観念、例えば金銭や核等への執着による自壊であり、もう1つは不要と悟った執着観念を捨てた、その潔(いさぎよ)さの後に出てくる光明である。

   

昨今の増大する核や金にまつわる事ばかりの世界の騒ぎの本質を観る限り、

    

意識、選択する時間というものも、もうそれほど残っていないようである。

 

土壇場とは、昇るか落ちるか、止まるか進むか、そういう一大転換ステージのことである。

 

それは間違えようもなく、それぞれの魂レベルで決めることなのだ。

  

(つづく)

 

 Road_1009


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色即是空のエネルギー (1)

2013-04-03 17:01:50 | 新地球文明論

●真空エネルギー

真空エネルギーとかフリーエネルギーとか、そういう新しいタイプのエネルギーが前世紀の中頃から人類の一部で話題になってきた。

 

知っている人は知っているが、知らない人は全然皆目知らないかもしれない。それは一般的には荒唐無稽な話なので、、まー、当たり前なのだが・・・。(笑)

 

それは、当然今までの既存の火力、水力、原子力、風力、太陽光・・以外のエネルギーを利用したシステムであり、何時でもどこでも得ることが出来るといわれるものである。

 

その1つに、空間エネルギーとか真空エネルギーとか言われているものがある。

 

それは何もない・・はずの空間に生ずるエネルギーであり、通常観念では明らかに眉唾とせざるを得ないものであるが、空間とは何か、あるいは空(くう)とは何かという探究の先に、当たり前のように出てくるものと考えても良いかもしれない。

 

ある意味では、「空即是色」そのものに沿ったエネルギーと言えるだろう。

  

空(くう)はゼロと思いきや、+1-1=0 でもあり、また+100-100=ゼロでもあるように、

 

空(くう)は、実のところある種の<充満>であり、空(くう)がなければ有も生じず、また有は空(くう)に帰すということである。

 

昔かの有名なディラックという物理学者は、真空は電子と陽電子で満たされているのではないかと言った。

 

その根拠は、運動エネルギーと電荷をもっている陽電子(+電荷)と電子(ー電荷)が相互に衝突すると、跡形もなく空間に消えてしまう対消滅という現象があるからだと考えられる。

  

・・・ありゃりゃ・・一体どこに消えたのか? と言ったかどうか。

 

それでディラックは空間は何もないのではなく、電子と陽電子で満ちているが、エネルギー的にプラス・マイナス・ゼロというバランスを持って潜在していると考えたようである。

 

有るには有るが、それを取り出す何かがなければ現れない・・というわけである。

 

何か実にややこしい、禅問答のようなものだ。

 

それはまるで、存在物とは、空(くう)という水面に一時生じる「波紋」のようなものとする認識と同じようでもある。

 

さらに、空(間)は電子、陽電子のみならず、様々な波動、またその局在的な集合ともいえる粒子の生じる根源であるとも言えようか。

 

そういう、空間から取り出すエネルギーを称して、真空エネルギー等と言っている。

 

かつてはSFで済んでいたわけだが、何事においてもよくあるように、それが現実的になって来たわけである。

・・・

 

えー?マジ? そんな馬鹿な・・ というような眉唾ものと感じるかもしれないが、実は今まで気付かなかっただけの、本来あって当然ともいえるものなかもしれない。

 

そういうものがフリーエネルギーと言われるものであり、またそんな夢のような話には、決まっていつもおどろおどろしい結末や陰謀などが付きまとってきたのも事実であるようだ。

 

それは多分、結果的にそういうものが流布するための期が熟していなかったからだともいえるだろうし、

 

また、そういう空間からエネルギーがタダで得られるという、まるで夢のような可能性すら、そうその可能性すら、到底受け入れがたいものとする観念が人類の根底にあったからだとも言えるだろう。

 

しかしながら、ひょっとして今はもうその時期が熟したと言えるだろうし、逆に

 

それは、これからの大転換に時を同じくして、どうしても出てこざるを得ないと考えられるのだ。

 

確かに本格的な、言わばちょっと高い次元に属する 「次世代エネルギー」 なのである。

 

その先達とも称されるかの有名な 「二コラ・テスラ」は、実に・・1世代早かったのである。

 

・・・が、しかしちょうど、そういう熟成の時間が必要だったという事かも知れないわけで、

  

まさに、ちょうど・・・、なるように・・なっているとも言えるだろう。

 

・・・

 

●フリーエネルギーはゲームオーバー時期に出る?

  

 真空エネルギーとは、何もない空間から取り出すエネルギーという意味であり、フリーエネルギーとも言われるように、ほとんどタダ (フリーとは英語でタダという意味がある) 同然で得られるものという意味だ。また身近なところ、どこでも得られるという意味でもある。

 

その技術的な方法論はすでに世の中に数多く出ているのであるが、企業的、事業的な欲望やそれに付着する権謀が常に渦を巻く傾向があり、かつまた、大方はそれに気づかず「とんでも・・」等と言って敬遠、無視するのが常なのである。

 

多少とも理解できる場合でも、既成の概念から見てその異質な有様に戸惑いつつ、面妖なこととして切り捨てることがさも科学的だとしている識者もいるだろう。

 

そういうものが全て眉唾だとする根拠としては、多分エネルギー保存則の固定した解釈からの反応であったり、既成の概念で理論づけできない、実例がないという事であったり、また逆に、そんなに良いものであれば、とうの昔に世間に広まっていてしかるべきだという感覚があるかもしれない。

 

それが事実ならすでに世界の表面に出ていてしかるべきではないか・・というのは、実はちょっと本末転倒の考え方なのである。

 

どこでもドアではないが、どこでも取り出し可能な発電機があるとするならば、それは極めて汎用的であり、またそうであればこそ今までのエネルギー体系を覆すことにつながるここと、

  

また実は簡単すぎて、複雑な体系化がそれほど期待できず、それによって産業化と利潤追究のメリットが無くなる類のものでもあるわけで、

 

実現したら最後、あらゆる旧態依然たるエネルギーシステムが不要になるのは目に見えているのである。

 

だから今まで普及してこなかったともいえるだろう。

  

なぜなら、あまりにシンプル過ぎて、あらゆる仕組みの根本が恐ろしく変わってしまう可能性があるからだ。

 

経済発展信仰で必死で邁進しているような時には、まさに迷惑で時期早生なエネルギーなのであろう。

 

それは既存のやり方にとってはまさに「ゲームオーバー」を意味しているからだ。

  

また、さらに本質的には、人類の一定以上の精神、霊的進歩がなければ、そういう膨大に増幅可能な、また極めて汎用的なエネルギーの使用は禁止・・・というような宇宙的な法則があるのかもしれない。

 

そう、何事も、なるように、なっているのだ。

  

そして、その時もまた・・今なのである。

  

まさに・・・・人類にとって、今という時は、非常に、非常に微妙なバランスで成り立っている時期にあるということを、

 

こころすべきであろう。

    

(つづく)

 

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