気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

色即是空のエネルギー (1)

2013-04-03 17:01:50 | 新地球文明論

●真空エネルギー

真空エネルギーとかフリーエネルギーとか、そういう新しいタイプのエネルギーが前世紀の中頃から人類の一部で話題になってきた。

 

知っている人は知っているが、知らない人は全然皆目知らないかもしれない。それは一般的には荒唐無稽な話なので、、まー、当たり前なのだが・・・。(笑)

 

それは、当然今までの既存の火力、水力、原子力、風力、太陽光・・以外のエネルギーを利用したシステムであり、何時でもどこでも得ることが出来るといわれるものである。

 

その1つに、空間エネルギーとか真空エネルギーとか言われているものがある。

 

それは何もない・・はずの空間に生ずるエネルギーであり、通常観念では明らかに眉唾とせざるを得ないものであるが、空間とは何か、あるいは空(くう)とは何かという探究の先に、当たり前のように出てくるものと考えても良いかもしれない。

 

ある意味では、「空即是色」そのものに沿ったエネルギーと言えるだろう。

  

空(くう)はゼロと思いきや、+1-1=0 でもあり、また+100-100=ゼロでもあるように、

 

空(くう)は、実のところある種の<充満>であり、空(くう)がなければ有も生じず、また有は空(くう)に帰すということである。

 

昔かの有名なディラックという物理学者は、真空は電子と陽電子で満たされているのではないかと言った。

 

その根拠は、運動エネルギーと電荷をもっている陽電子(+電荷)と電子(ー電荷)が相互に衝突すると、跡形もなく空間に消えてしまう対消滅という現象があるからだと考えられる。

  

・・・ありゃりゃ・・一体どこに消えたのか? と言ったかどうか。

 

それでディラックは空間は何もないのではなく、電子と陽電子で満ちているが、エネルギー的にプラス・マイナス・ゼロというバランスを持って潜在していると考えたようである。

 

有るには有るが、それを取り出す何かがなければ現れない・・というわけである。

 

何か実にややこしい、禅問答のようなものだ。

 

それはまるで、存在物とは、空(くう)という水面に一時生じる「波紋」のようなものとする認識と同じようでもある。

 

さらに、空(間)は電子、陽電子のみならず、様々な波動、またその局在的な集合ともいえる粒子の生じる根源であるとも言えようか。

 

そういう、空間から取り出すエネルギーを称して、真空エネルギー等と言っている。

 

かつてはSFで済んでいたわけだが、何事においてもよくあるように、それが現実的になって来たわけである。

・・・

 

えー?マジ? そんな馬鹿な・・ というような眉唾ものと感じるかもしれないが、実は今まで気付かなかっただけの、本来あって当然ともいえるものなかもしれない。

 

そういうものがフリーエネルギーと言われるものであり、またそんな夢のような話には、決まっていつもおどろおどろしい結末や陰謀などが付きまとってきたのも事実であるようだ。

 

それは多分、結果的にそういうものが流布するための期が熟していなかったからだともいえるだろうし、

 

また、そういう空間からエネルギーがタダで得られるという、まるで夢のような可能性すら、そうその可能性すら、到底受け入れがたいものとする観念が人類の根底にあったからだとも言えるだろう。

 

しかしながら、ひょっとして今はもうその時期が熟したと言えるだろうし、逆に

 

それは、これからの大転換に時を同じくして、どうしても出てこざるを得ないと考えられるのだ。

 

確かに本格的な、言わばちょっと高い次元に属する 「次世代エネルギー」 なのである。

 

その先達とも称されるかの有名な 「二コラ・テスラ」は、実に・・1世代早かったのである。

 

・・・が、しかしちょうど、そういう熟成の時間が必要だったという事かも知れないわけで、

  

まさに、ちょうど・・・、なるように・・なっているとも言えるだろう。

 

・・・

 

●フリーエネルギーはゲームオーバー時期に出る?

  

 真空エネルギーとは、何もない空間から取り出すエネルギーという意味であり、フリーエネルギーとも言われるように、ほとんどタダ (フリーとは英語でタダという意味がある) 同然で得られるものという意味だ。また身近なところ、どこでも得られるという意味でもある。

 

その技術的な方法論はすでに世の中に数多く出ているのであるが、企業的、事業的な欲望やそれに付着する権謀が常に渦を巻く傾向があり、かつまた、大方はそれに気づかず「とんでも・・」等と言って敬遠、無視するのが常なのである。

 

多少とも理解できる場合でも、既成の概念から見てその異質な有様に戸惑いつつ、面妖なこととして切り捨てることがさも科学的だとしている識者もいるだろう。

 

そういうものが全て眉唾だとする根拠としては、多分エネルギー保存則の固定した解釈からの反応であったり、既成の概念で理論づけできない、実例がないという事であったり、また逆に、そんなに良いものであれば、とうの昔に世間に広まっていてしかるべきだという感覚があるかもしれない。

 

それが事実ならすでに世界の表面に出ていてしかるべきではないか・・というのは、実はちょっと本末転倒の考え方なのである。

 

どこでもドアではないが、どこでも取り出し可能な発電機があるとするならば、それは極めて汎用的であり、またそうであればこそ今までのエネルギー体系を覆すことにつながるここと、

  

また実は簡単すぎて、複雑な体系化がそれほど期待できず、それによって産業化と利潤追究のメリットが無くなる類のものでもあるわけで、

 

実現したら最後、あらゆる旧態依然たるエネルギーシステムが不要になるのは目に見えているのである。

 

だから今まで普及してこなかったともいえるだろう。

  

なぜなら、あまりにシンプル過ぎて、あらゆる仕組みの根本が恐ろしく変わってしまう可能性があるからだ。

 

経済発展信仰で必死で邁進しているような時には、まさに迷惑で時期早生なエネルギーなのであろう。

 

それは既存のやり方にとってはまさに「ゲームオーバー」を意味しているからだ。

  

また、さらに本質的には、人類の一定以上の精神、霊的進歩がなければ、そういう膨大に増幅可能な、また極めて汎用的なエネルギーの使用は禁止・・・というような宇宙的な法則があるのかもしれない。

 

そう、何事も、なるように、なっているのだ。

  

そして、その時もまた・・今なのである。

  

まさに・・・・人類にとって、今という時は、非常に、非常に微妙なバランスで成り立っている時期にあるということを、

 

こころすべきであろう。

    

(つづく)

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。