我々は常にいわゆる『灯台下暗し』の状態にあると言っていいかもしれない。
何を云わんとしているかと言えば、おのれ自身の何たるかを観ず、外の世界ばかりを見ているということだ。
今この瞬間であっても多分そういう事かも知れないのだ。
ところで、
あなた自身は実のところ、いったい何者なのであろうか?
・・・・
その問いかけに対して、自分自身で何かの回答を示すことが出来るだろうか。
幼少期、青年期などはそのような本質的な疑問が自己内部で沸々としていたはずなのだが、
いつの間にか、社会の慌しさや肉体感覚、生存競争の波に揉まれ、そういう疑問や質問自体を忘れてしまったのかもしれない。
余計なお世話であるが、・・・あなたはどうだろうか。
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多分、重要なのは・・・『わたしは何者か?』 という自己自身への本質的な問いかけに対する、
自己自身で思うところの・・その時々の自己回答意識なのである。
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この世界では、当初は誰でも赤ん坊という時代を通じて、次第に成長して行くという仕組みになっている。
赤ん坊の時代とは、何かといえば、すなわち 『素(もと)の意識』 だけの時代である。
赤ん坊も喜怒哀楽、あるいは身体的生存に必要な栄養補給、お乳の要求や、排便、排尿等を教えるべく、
時に応じて笑ったり泣いたりするのだが、その意識には未だ 「我・・わたし」 という自我・自覚が現れていない。
要は、俺、わたし、儂、おいら・・・等という自己意識、個別の『自己認識』とその表現形が極めて少ないということだ。実際のところ、あなたもわたし達もそうであったし、世の善人悪人と言われる人々にも言えることである。
そこには得も言われぬ素の意識の輝きと可能性がある。
意識はあっても心模様がないというか、白い用紙は存在してもそこに何も書かれていないというか、建築のベースはあっても未だ何も建てられていないというか・・そういうことである。
それを素(もと)の意識と言おうか。
この世界に生まれるという事は、肉体が子宮からポンと生まれてくるだけの形態的な話だけではなく、生命と云えば解りやすいが、その肉体を表現する・・原因体である『魂・意識』も、ほとんど無意識のような状態から生じてくるということである。
この世界では・・・素の意識から始める・・そんな仕組みになっているということだ。
生まれて少し経過し、この世界での環境で落ち着き始める状態になれば、赤子に何か言ったり触ったりすればそれなりの反応を返してくるはずである。
普通は・・・なんと可愛い子だね・・とか、アー笑ったよ~とかで終始しているわけなのだが、
赤ん坊の子宮内での生物進化論的な形態変遷もさることながら、また生まれてからの急速な意識進化はとてつもないものなのだ。
生物学的な理解では、肉体の中枢機関である頭脳のニューロンネットワークが急速に成長・拡大するということなのだが、それらが偶然に勝手に起きてくるというわけではないのである。
ここで云う「意識」あるいは「意図」、解りやすい表現では「生命」があればこその急激な成長なのである。
それは世に言われるところの、既に相応に成長したところの「魂」が宿っているからこそのことなのである。
宇宙の顕現の仕組みは・・・意識~エネルギー~形態表現(現象) である。
簡単に言えば、全ての諸顕現にはその青写真たる因(ソース)があるということだ。
現れた物事、現象、例えば肉体を有するあなた・私という人間の存在すらも、元の因(ソース)があればこそである。
あなたやわたし達、我々自身が灯台下暗しのようなものだと云うのは、その因たる自己に気づいていないということだ。
今・在る・・人間としてのわたし・・・を自覚しているところの・・その意識が・・『魂』の存在証拠そのものである。
さて、それでは魂とはどういう形なのだろうとしてしまいがちだが、形をあらわすところの原因は、現れることをその本分としている以上、特定の形態があるわけでもない。
まずそこに気づかなければならないわけである。
しかしながら、単純すぎて意外とわかりずらいし、いつも素通りしてもいる。
またそれは、もっと複雑なものの中にきっと答えがあるというような先入観が、
永久というほどの邪魔をしてきたからなのだろう。
また何かの形態、形、容姿、現れのほうばかりを気にするために、
次から次へと現れてくる現象のほうに意識がいってしまうということ。
そういう形だけを存在とする観念が主流の文化、文明あるいは惑星生命圏は、いわゆる3次元的世界とされ、
その中での人間は、不自由な3次元的空間のほんの一角に過ぎない・・・肉体自己であるわたし・・・という自己認識で終始していたということである。
また逆にそうでなければ、この3次元的な世界は続かなかっただろうし、
人間から見て不自由な時空を、出来るだけ自由に行き来できるような科学技術、各種の機械・機器なども生まれなかったし、
良かれ悪しかれ、繰り返される己を忘れた『魂たち』の喜怒哀楽経験も実際不可能であったわけである。
・・・
要は外の世界、3次元的形態結果の世界だけにその意識を向けることで、
逆に今までは、自分というものが『普遍的な意識』の”自己表現”であるところの、いわゆる「魂」であるという事実を思い起こさないで来たという事だし、
また魂・意識は様々な表現型の因(もと)にあるものであればこそ、3次元的な顕れ以外の、より自由度の高い表現形態もあるということなのだ。
いわゆるUFOや宇宙人、宇宙文明などの真偽の錯綜した情報類は、我々自身がそういうより拡大された存在表現形態が可能な、言わば多次元的存在であるということを示しているのである。
簡単に言えば、今は、そう3次元的(時空4次元的)な認識で終始していた世界から、より自由度の高い世界に移行する過渡期にあるわけである。
それは、また我々自身の自己定義として、3次元的時空の小さな塊であるところの肉体であるという自己認識から、
それを表現する元、因(もと)である普遍意識、あるいは様々に表現型を顕すところの可能な個性をも包含するところの「魂・意識」である・・という自己認識への移行なのである。
・・・
我々は今まで生命が偶然生まれて、そして偶然に意識が発達し、そして偶然の人生を経て死んで無くなってしまうものだ・・・というような、そんな漠然とした常識観念、社会通念の中にいたのだ。
そんな中で、その自己たる肉体を存続するために・・と称して、社会的な様々な問題や軋轢、闘争なども繰り返してきたわけであるが、その行き過ぎた自己存続、自己利益のみを主眼とした想念で満ちた人間性を「エゴイズム」と呼んできたのだ。
一時の儚い夢、短く限られた肉体自己の生命を、一時でも豊かに永らえることが、当座の目標、刹那の目標であったということなのだ。自己利益、組織の利益、そして国益さえもそういうことであり、それが度を外した形が闘争や戦争なのである。
世の終末が核による全破壊によってもたらされる可能性が出ている今の文明は、そういうエゴ的なあり方の極まれる姿なのである。
それは確かにEGOの文明と言っていいだろう。
その文明を構成する人々の自己認識・・・、すなわち自己を何者だとしているかという信念・想念のレベルによって、そこに現れる文明も決まってくるわけである。
地球という生態系の、言わば頭脳に相当する人類の想念が、単なる一過性の肉体自己に終始していた状態から抜け出し、飛躍し、
それぞれの『わたし』とは、本来は、より自由度の拡大された『魂・意識』であるという状態に移行することを・・・言うならば5次元への移行と言っていいだろう。
意識~想念~エネルギー~肉体表現・・であればこそ、
意識の発する想念を本質的に変えることで、当然扱えるエネルギーやその表現型である人間形態の有り方も大きく変化をせざるを得ないという事なのである。
世に言われる5次元や霊的進化、半霊半物質という言葉はそれを端的に示す言葉であろう。
我々・・人間という、自己の認識を有する存在まで至った者たち・・の存在定義は、
わたし・・・とは、常にわたしである・・・と自由に認識できるところの存在であるといえるのだ。
そして想念とは、魂意識たる自己存在が、白いカンバスに様々な自己を描くところの、万能の筆のようなもの。
根本の想いが変わらずして、その表現型である現象は決して変わることはないということだし、またそれは人間という意識存在の為の安全弁でもあると言えるだろう。
今までの泣くに泣けない、また本来あってはならないような、どうでも良いようでどうしようもないような、そんな他者の無明、様々な思いの流れかから、今はその身をゆっくりと引き揚げてゆく必要があるだろう。
そして、注意深く自己の想いを眺めつつ、意識内面で気付けるところの、本来そうであるべき嬉しく楽しい自己像を描き続ける必要があるのだ。
光りが増すとは・・・人々のそういう新たな拡大された「わたし」への気づきをもとにした、意識、想い、表現の具体的な作業、あるいは基本想念の転換のことと言えようか。