●今までのエネルギー概念
現状でのエネルギー使用の1つの容易な形態は電気エネルギーであり、従ってある部分で自由エネルギーは分散型発電機とも言えるだろう。
すでに実用化され使用されている燃料電池の燃料は、水、水素、酸素であり、燃料自体はどこにでもある水と空気なのである。またそれはどこにでも設置できる小型分散型が可能な発電装置であるし、燃料自体はどこでも得られるようなものであるわけで一種の自然エネルギー利用とも考えられる。
また自然エネルギーシステムとされる太陽光発電、風力発電も、天気や風の条件にもよるが燃料自体は太陽光そして風という一種フリーなエネルギーである。
地熱も波力もやはり自然の中にある温泉の蒸気流、海水の運動エネルギーを利用している。
これら自然エネルギー発電は、発電装置の製造、設備投資とその維持管理をする必要があるが、燃料そのものは自然の中にあるものであり、ほぼどこにでも存在するエネルギーを利用しているのである。
火力、風力、水力、そして危険な原子力の発電も、実のところは空気や水の「運動エネルギー」を利用していることに変わりがない。
火力は燃焼による空気分子の運動エネルギー、水力は水分子の自由落下で得られる運動エネルギー、風力は大気中の空気分子の流れを利用するものである。これらは分子運動エネルギーと言えようか。
原子力も要するに原子核の崩壊を加速させて、放出される中性子粒子の運動エネルギーを利用し、それを水に当てることで水を沸騰させて蒸気化し、発電タービンを回しているのである。これは原子運動エネルギーと言えるかもしれない。
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一概に言うならば、今までのエネルギーは、火と水の使用法から逸脱しておらず、最終的には空気、水等の粒子の運動エネルギー、つまり粒子の流れを作り出し、それをモーターに導き、交流、直流電気に変換しているということである。
●原子力は物質偏重文明の最終エネルギー
原子力にしても、結局は水なくして発電できない代物であり、根本的な問題は、自然にそのままあるはずの放射性原子を集めて濃縮し、より濃密な原子核崩壊エネルギーの塊を作り、その原子崩壊時の電磁波エネルギーを利用することにある。
それは他のエネルギーと違い、周囲環境のエントロピーの急増大、あるいは生命の崩壊を導きかねない類のものなのだということは誰でも知っているはずだ。原子崩壊時に生じる放射線が分子レベルの波長を持つために、生命種の形態設計図であるDNAを破壊するのである。それを分解、解消できないために、長期隔離、完全密閉が要求されるが、そんな完全な技術が世界にあるはずもない。
放射線によって設計図たるDNAが歪になってしまえが、出来上がる形態は確実にそのように歪になるのは当たり前なのだ。そして自然界に本来存在しない生命形態は当然ながら生存することは出来ないのである。
現実に人類は未だ原子核崩壊そのものを十分には制御できず、その核燃料から放射されるエネルギーも中和することが出来ないでいるわけで、問題は、そういう制御不能な根本問題を総合的に解決せず、一部の制御が可能な部分の利便性だけで見切り発車しているということである。
素知らぬふりをし、また何が何だかわからぬ者たちが、他の犠牲を承知の介で研究・蓄積すればいいなどと考えているならば、それは生命種として・・もってのほかの悪逆行為なのである。
故意か、結果的は知らないが、愚かこの上なくも、今それが平然と行われているのである!
いわば経済功利性の共通利益を理由だてにしているわけだろうが、何万年も汚染が続く状態の使用済み核燃料を放置しつつ、その処理を先送りでごまかしている、つまり子孫に巨大な負債と危険性を残しているトンでもない行為なのである。
お金の為か?身の安全の為か?目先の便利さか?
そんな刹那的な理由で、多くの生命を途方もないリスクに巻き込もうとしているのだろうか。
記者会見席で、知らなかったといって頭を下げればいいものと次元が異なるのだ。
最近次第に福島周辺域でも、遺伝子破壊の影響が顕在化してきつつあり、あちらこちらに植物、動物の異変が増えていることが真面目な研究者、学者たちによって観察され報告されている。
●土壇場まできた魂レベルの選択ステージ
このまま進んでいく世界ならば、人々の肉体に異変が生じ、子孫にも伝わり、それを解消するために、どれほどの時間を費やすことになるだろうか。
分けを知らずとも自滅を率先した者たちは、場所から逃れても、カルマからは逃れられない。
肉体は一時逃れても、・・・魂としては決して逃れられない。
それは・・・調和していないこと・・・そう、それは違うのだと!・・心底わかるまでは、
魂は・・・決して学習は終えないからだ。
それが言われるところのカルマだと言えようか。
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●大自然に対して傲慢か、あるいは謙虚かの問いかけ
放射能汚染は、・・・生活を維持するために、無理して頑張って食べれば・・・それが無くなると思うほど、そんなに自然界は甘いものではない。
大自然はある面で厳然とした嘘を決して言わない教師のようなものである。
我々は、いつから、・・いつから・・・母であり、父であり、その物理的身体を提供し、魂の学びを支えている大自然という教師より偉くなってしまったのだろうか?
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福島のひいては日本の未だ癒されざる現実は、現状で放射性物質の処理が不能であることの証左である。
そのような完全な制御もままならないものを、さもわかったふりをして行使すべきではないのである。
まさに子供の火遊びのごとくであるが、ちょっとバランスを崩し、さらに予想外の外乱が加われば、全世界を汚染し様々な生物種のDNAを破壊し、地上を不毛の大地にしてしまいかねない、・・・まさに寸前のところに来ているのだ。
まったくもって、ローン返済や経済功利性や、利権やエネルギー消費の貢献などのようなレベルの話ではない。
過去の教訓を生かさず、それを無理やり忘れ去り、あるいは誤魔化して、右ならえの目先の功利性や利便性だけで終始する事は、ほんの少しの切っ掛けで、もう完全な形で奈落の崖に転落してしまうための小さな重り(おもり)に等しいのだ。
2年前と今の現状を見れば、そのうち何とかなるというような、そんな状況ではなくなった。
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気付かない間に・・・、ここで・・人間の本質の進化レベルが試されているのではないか。
まるで道が解りやすく、2つに1つまでに集約されたようなものである。
1つは古き観念、例えば金銭や核等への執着による自壊であり、もう1つは不要と悟った執着観念を捨てた、その潔(いさぎよ)さの後に出てくる光明である。
昨今の増大する核や金にまつわる事ばかりの世界の騒ぎの本質を観る限り、
意識、選択する時間というものも、もうそれほど残っていないようである。
土壇場とは、昇るか落ちるか、止まるか進むか、そういう一大転換ステージのことである。
それは間違えようもなく、それぞれの魂レベルで決めることなのだ。
(つづく)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。