気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

夢のある話 (4)夢とは何か

2013-02-02 10:42:09 | 夢及び半覚醒時の体験記録

普段の我々は主に目覚めた状態での五感感覚だけに意識を集中しているわけだし、いわゆる眠っている状態での意識の働きに気付ける人はそう多くはないかもしれない。

  

今までの人類の平均的な信念体系では、眠りは単なる単なる肉体休息であり、肉体だけが<自己>であると漠然と信じ込んでいる限りは、眠りの間にあなたの意識が活動しているとは露にも思っていないかもしれない。

  

人類にとって今最も重要な課題は、この内面と言われる意識の方向に気付くことなのである。

 

中近東、アフリカ世界の騒乱や、何とかミクスという幻想の経済政策や、円安やらドル経済崩壊やら、不可視な矮星の接近やら、太陽のフレアのうわさやら、それこそ様々な想念形の情報、ニュースに気付いているかもしれないが、

 

それら外の世界から湧き出しているかにみえる様々な混乱想念に振り回されてはならない。

 

人の世界の全ての出来事は人々の想念の結果である。

 

世界的な様々な組織が画策する洗脳や事変や諍いも元は歪んだ想念であり、尤もらしい経済政策や、真剣そうに見える政治と云わず、全ては特定の人間達の相対的な価値観念の投影にすぎないのである。

 

どうしてそのような他者たちの想念にことさら意識を集中し、期待や絶望、批判や詮索をしなければならないのだろうか。

 

そんなことは自業であり自得 ・・「なるように・・なる」 ことになっているだけの話である。

 

・・・

そういう枝葉的な話はさておいて、

 

内面にそれぞれの意識を向け、その意識のすそ野を広げて行く方法は瞑想や内観等、古来から色々とあるのだが、夢の分析なども実は手軽な1つの方法である。

 

夢は主として睡眠中の意識的経験の、現実的観念への変換と云って良いかもしれない。

 

夢とは、すなわち内面次元というか、自己意識がつながっている「普遍意識の中での経験」の翻訳・・・のことであり、その経験知を現実に持ち越すことが出来た場合に限り<夢>となって<憶えている>ことが出来るということである。

 

また夢を現実生活に記憶として持ち来たる場合には、当然ながらその人の馴染んだ知識や概念に「翻訳」されることになるために、場合によって夢の内容がアヤフヤ、トンチンカン、漠然としたイメージになる場合も多い。

 

しかしながら、これは夢あるいは内的経験に慣れてくるにしたがって次第に明瞭な意味に変化してくるのである。

 

夢情報が重要なのは、常識という歪曲観念に満ちた顕在意識がどこかに消えている状態(眠っている)でのダイレクトなものであるからなのだ。

 

それはまた大きくいえば、歪んだ先入観念がない意識状態での、多次元的な情報授受とも言えるだろう。

 

逆に先入観念がないがゆえに、自分の常識観念や既存の知識とずれることも多いため、夢が断片的でアヤフヤに感じられるのである。

 

例えば外国に行ったとして言語の意味が不明であれば、何が何だかよくわからないようなものだし、中途半端な言語能力では今一ぴんとこないはずである。

 

夢が断片的で漠然としているならば、それは例えばあなたやわたし達の実際あった過去の記憶と同じ類のものでもあろう。

 

何年か前の記憶を思いだすならば、多分それは断片的でもあり、実際夢の記憶とそう変わらないことに気がつくことだろう。

 

このように記憶においては夢の中での出来事も、実際の生活での出来事も同質であることに気付けるはずである。

・・・ 

我々はこの御膳立てされた物理的世界にどっぷり馴染んでおり、またどこか唯物論的な観念がしみ込んでいるおかげで、この物質的体験世界だけをリアルなものだと思い込んでいるのだが、実はそういうことではないようである。

 

パラレルワールドや多次元世界と言われるものは実際にあるわけで、その多様な諸世界も今の現実世界も、全て普遍的な(神の)意識の波動的投影によって表現されていると考えられる。

 

我々の拡大し続ける魂・意識も、その普遍的な、全包容的な、遍在的な意識の海の中に在るからには、

 

意識においては本来自由自在に諸次元を横断することも可能であろう。

 

またそういう拡大された意識レベルのことを宇宙意識とも言うのだが、この地球上ではその宇宙意識にまで同調出来る存在はそれほど多くはないようである。

 

またそこまで至らぬ者としては、初歩的であろうとなかろうと、瞑想や夢のような拡大された意識レベルでの経験をも重要視しなければならないはずである。

 

顕在意識が外れた状態での意識経験の記憶である夢もまたおろそかにすべきではないし、またそれは誰でも、毎日、タダで身ひとつで可能な意識拡大プロセスなのである。

 

自己観想、内面の探求、

 

まさに灯台もと・・暗し・・・・

 

本質、真理を知る方向に歩くために、お金をかける必要もない。

 

どこかに遠くに行く必要もない。

 

またどこかの誰かに依存するわけにもいくまい。

  

一歩一歩進むのは今の瞬間の・・意識ある・・自己自身なのである。

 

日々の当たり前の生活の中にこそ、

 

かけがえのないそれぞれの魂の成長の機会があるのだ。

 

それとも、どこか山のあなたの空遠くに在ると思っているのだろうか。

 

・・・

 

例えば夢は、自己内面から湧出するところの、拡大された<わたし>からのメッセージとも言えるかもしれない。

 

それは気付けば、手軽でいつでもどこでも可能な魂意識の1つの拡大方法である。

 

夢などとゆめ夢馬鹿にしてはいけない。

 

更に進んで、静かに単座するような瞑想等を生活の中に取り入れることが、これからの人類にとって極めて重要なテーマであると言えるだろう。

 

人間存在にとって、意識的・・意識を獲得することが重要なポイントなのである。

 

次第に混乱の度を増すかのような外の事件や出来事だけにフォーカスし、感情や思考で反応し続けることは、まるで太陽の日差しで作られる自分の影法師を追いかけ回しているようなものだ。

 

・・・

無益の  事を行じて  徒(いたずら)に 時を失うことなか  (正方眼蔵随聞記)

 

 

 

Dogen01

余談ではあるものの、

わたしはある時の退行催眠の体験において、道元とおぼしき人物の明瞭な映像を内観した時があるために、その御縁を感じて時折道元禅師の記事やら写真やらを掲載させていただいている。

  

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。