気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

内観の効能

2013-02-16 09:02:41 | 見えないものから見えるものへ

内観すなわち自己の意識内部の有様を観察することにはどんな効能があるのだろうか。

 

こんなことを言えばまるで薬の効能やある種の技術で得られるプラグマティックな有効性や効果のように聞こえるが、しかしながら内観を行う、行じることで確実に得られることは、実のところ意識の拡大・深化・進化といえるものである。

 

自己の内部を観るということは肉体、身体、頭脳の中身を観るということではなく、まずそれら自己の存在形態の物質的・形態的側面から意識を外すことである。

 

意識を外すという意味は、あなたの<意識>を物質的・肉体的な感覚から自由にするということである。

 

だからと言って気を失うことではないし、眠ってしまうことでもない。

 

意識を自由にするということは、まず緊張した体を弛緩し、いわゆるリラックスした状態にする必要がある。

 

ゆったりと座って落ち着いた状態で半眼、または瞑目することが昔から行われている。座禅の組み方、ヨガの姿勢等は基本的には、身体・肉体をリラックスさせて安定状態を維持する方法である。

 

まず体とこころは密接な関係があり、体が落ち着くことは即ちこころ、マインドが落ち着くことになるわけである。

 

マインド・こころが落ち着くということは、すなわち体もリラックスしているということは既に知っていることだろう。

 

単にこれだけでも、体とこころをリラックスさせる努力だけでも、健康とこころの平安にどれだけ寄与するか、既にあなたは経験しているだろうか。

 

まずこころと体の相関関係に気付けることが、このような姿勢や方法を理解する元になる。

 

体や外的環境のことだけに注意し、自己の意識をそのレベルに縛られている間は、このような端坐・瞑目の意味が全然解らないかもしれない。

・・・

安定的な姿勢を保って、身体を静かに維持し、いわゆるリラックスし、内面を見つめる・・・そのようなことに何の意味があるのか、とんと理解できないかもしれない。

 

しかしながら、色々な姿勢や座り方そのものの中に意味があるというわけでもなく、

要は、

 

身体を静謐に保ち、こころを見つめる方向にその意識を向け、その状態を持続する条件付けを自分で意識的に行う・・ということである。

 

このような姿勢、こころの状態をつくり上げようとすること・・自体に、

 

魂レベルから発する意識の拡大意図が含まれており、

その意図と行為だけでも明らかに人の意識状態が変化するのである。

 

まず・・これが・・・、ここまで来るのが肝心要の峠の茶屋?なのだ。

 

・・・・・

しかしながら、実際のところこのような行為の中に、どんな難しいこともありはしないことに気付けるだろうか。

 

人は皆、日常忙しい忙しいと言いつつ、あるいは暇だ暇だと思いつつ、何もしていないかあるいは何かを行っているわけであるが、

 

忙しい忙しいと言っている自分、生活回し車をくるくる回すことだけにいそしんでいる自分から、・・その自分自身を放してみる「時」を持つことは、何時でも可能なことにも気付けるだろう。

 

毎日24時間、ほとんどが外の世界との対応、仕事、家事、勉学その他に集中し、夕べには疲れてしまい、あっという間に寝てしまうだけの生活が多いのではないだろうか。

 

いや、多くの人々が大体においてそうであることは、自分の経験から言って間違いが無いと思う。

 

たしかにそれが今の世相なのだし、いつの間にか常識となってもいよう。

 

何かを考えている、何かをしていることはそうであるが、その・・何かを考え、している<当の自分に>意識的になっていない、あるいは光を当てていない状態に縛られているということ。

 

これをここでは、無意識的な在り方と言うのだが、

 

無意識とは「意識が無い」ことではなく、

 

意識している自己を観ていない・・自己自身に意識的でない・・ということである。

 

意識的・意識=ここと・・・・無意識的意識=そこの間には・・驚天動地のギャップがあるのであるが、この重要性に気付けるだろうか。

世にいう「目覚める」・・とは、今まで知らなかった社会の裏、他者の陰謀や、悪賢いエゴ組織の裏での活動に気付くということではなく、また宇宙人なる者達からの暖かいメッせ―ジに感動し期待するということでもなく、

 

意識を有する自己という存在自体に・・意識的に気付く・・ということである。

 

自己の意識に気付いているということは、

 

自分の内面を観ているということ、

 

自己の想念、想いや、こころや体の反応に気付いているということであり、

 

それらに気付いている、意識しているということは、

 

想念や感情、良し悪し、快・不快等を感じながらも、

 

それらに自己投入しない、翻弄されない意識レベルに上昇しているということである。

 

・・・

空を飛ぶ鳥はいわば3次元的自由を持っており、2次元的な地上の動きを眺めつつもそれらに影響されないだろう。

 

特に人間が「受調」する想念は人間の在り方・表現形を決める最重要要素であり、

 

想念自体に意識的に気付いていない有様では、

  

想念やそれに付随する感情、そして身体的な反応、言動、行動に突き動かされるのである。

 

未だ無意識レベルの在り方で終始するならば、人の言葉や世相の観念、常識やどこからか執拗に聞こえるエゴの迷い道への誘導プロパガンダや、あるいは崖下に落ち込んでゆくレミングの群れのなかに引き込まれるかもしれない。

・・・

自分が一体何を考え、何を想い、何を感じ、どう表現しようとしているのかを、

その自分がしっかりと観ていることが何をおいても大切なことであるし、

 

またその自分を観るところの・・・更に広く高い次元にある<自分>に同調することこそが、今人類に出されている霊的な宿題・テーマとも言えるだろう。

 

気付けば次第に荒れ模様を呈しつつあるような地球環境や社会情勢等は、

 

そろそろ目覚めても良い頃だという外界からの動的メッセージであろう。

 

それから逃げることも、あるいはどこか異変を待ち望むことも当て外れである。

・・・

外の世界を観ている者は誰か・・と言えば、

 

内なる<わたし>しかいないではないか。

 

内なる<わたし>は、・・・多元世界、諸宇宙全てを自己として観ているもの、

 

大いなる<わたし>の一部である。

  

すなわち、それに気付くための内観である。

 

いつでもどこでも、常にあなたと共にあるのは、

 

<あなた>しかないではないか。

  

Hs200742c1024_wallpaper

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿