意識の拡大には内面の開拓が欠かせないのだが、いったい全体
内面を直視することはどういうことを言うのであろうか。
また、内面とはどういう方向にあるのだろうか。
またそれはどういうことを意味しているのだろうか。
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例えば古くからある座禅のように、ただだまって端坐し、静かに自己を見つめるとした場合、
その状態をどれだけ保つことが出来るだろうか疑問である。
現代人という・・実は病んだ人々は、この・・ただそこに在る・・・という状態を続けるのが当初は極めて難しいのである。
めまぐるしく動く世の中に適応するためには、人間の思考がめまぐるしく動かなければならず、常に人の頭の中?では様々な知識や情報が渦巻いている。
その思考の束をいかに早く処理できるかが頭の良さとされているし、
あれに対してはこうすべきであり、この目的に対してはこの情報を適応する・・・等など、目ざめている間に数えきれないほどの思考が去来している。
人が何をやっていようと、都会のオフイスでパソコンをいじっていようと、道を歩いていようと、農作業をやっていようと、常に人は何かを考えているはずである。
1日に何千何万、何億もの思考が現代人の頭を行き来していることだろう。
要は「思考中毒」のような事になっているのであるが、
現代人はこれ自体に気付いているだろうか。
また無数の思考が人の頭に無造作に去来している有様自体に気付いているだろうか。
聞けばそれは当たり前だというかもしれないけれど、その思考で人の行動や感情が決まっていることにも気付けるだろうか。
それらの思考と感情そして行動・表現によってその人の人生が出来上がっていることにも察しがつくだろうか。
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思考は云わば様々な次から次へと湧き出すイメージのようなものであり、それを文章化したり図面化したり言葉にしているのが我々の仕事や生活なのである。
ここで問題なのは、
多くの人が、思考を使いつつも、その思考自体に気付いていないということである。
思考はしていても、・・・思考していること・・・そのこと!自体に意識的になっていない・・ということだ。
そういう無意識に生じるような思考に方向付けをするのがメディアの役割である洗脳やマインド制御と言われるものである。
外からイメージを盛んに流して印象付けを行い、人の思考に何かをインプットしようとすることがマインドのコントロールである。
TVやラジオの宣伝もそういうものであることは誰でも知っているはずだし、そもそも宣伝で飯を食っているわけだ。
それには良いも悪いもないし、どう捉えるかは各自の自由にまかされているのである。
ところが、
嘘でも繰り返し言われれば、それが真実のように捉えてしまうだろうし、
みんながそう考えているならば・・・それが正しい等とつい考えてしまう癖があるのである。
そのこころの癖は一種の繰り返しパターンであり、
そのパターンを再生する有様は、まるで条件付けされる、パブロフの犬のようなものである。
誰でも否定したくなるようなことなのだが、
なぜそうなるかと云えば、
思考すれども・・・その思考の生起自体に気付いていないからである。
またここでいう・・・思考自体に気付くということは、
自分の頭でしっかり考える・・という、ことではなく、
その思考がどこから生じるのかということに気付くということである。
思考、観念、イメージ等がいつの間にか固定化されることで人の思想・信条が固定化し、
それが言動や表現に顕れることになり、またその方向で人生芝居が出来ていくということを知っているならば、
その元にある自分の思考に気付かないではおられないはずである。
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しかし実際のところ、多くの人はその自らの思考・観念自体に・・・なかなか気付いていないのである。
あなたはどうだろうか。
現象世界から思考を集め、自分の知識としつつ、世界を読み解こうとする英知ある行為自体も、
逆にその思考に絡みとられ、人間社会の観念の二元性に嵌って堂どうめぐりをすることにもなるかもしれない。
実に微妙なことながら、思考すなわちマインドの世界はそういうことなのだ。
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思考が観念となり、常識となって人々の共通認識、信念体系となって今の世界を構築している。
例えば人々の支配とは、何もムチや武器を使って無理強いすることではなく、その思考操作によって知らない間に行われることなのだ。
世の中の騒ぎや衝突、懸案となる国際情勢、新しい条約提案や国の方針等も、
あるいはそれは、自分の思考を操作できない者達の為の、有償の・・刺激的な代替案の提示のようなものかもしれない。
代替案と云っても、提案した者達の都合のよいようになるのは当然のことであるが、
資本主義的な製品創出、サービス提供もこうなると、ここまで来るとちょっと笑える話ではないだろうか。
なるほど、外の世界ばかりを見ているとこうなるということだ。
諸業無常、
外の世界は、常にすぐに終わってしまう泡沫の宴のようなものである。
自己の内なる光・意識こそが、外の世界を投影する原因であるからには、
これを観なくてどうすることも出来ないはずである。
例えば人はただ黙ってそこに居て、
おのれの内なる意識、そこに湧き出す思考や感情を観ることができるならば、
様々に去来する思考やイメージの依って生ずるところの、
元々の普遍的な意識・・・「空」(くう)に気付けるだろう。
色即是空、空即是色・・・
空は何も無いのではなく、実は全てのことなのである。
我々の内面もそして周囲も、実は空(くう)・普遍的意識で満たされている。
人間の思考・感情・経験は、無限の色彩を持つ、空即是色の<色>即ち、創造であり、
内観とは、あるいは自己観察、想念観察とは、
人がおのれを通じて、一なる、無限なる、色即是空の<空>に帰還する”意識的行為”なのである。
色即是空・・・、現象は空から生じること。
またある意味で、多即一・・であり、また吸う息でもある。
空即是色、・・・空は現象の源であること。
またある意味で、一即多・・であり、また吐く息でもある。
人間存在がそれぞれ内なる意識を観るという行為すなわち内観は、
吸う息、吐く息に意識しつつ、
思考や感情をそのままに眺め、
その源である、無限なるおのれに意識的に同調する行為のことを言い、
それは思考や感情というものを、大空に去来する雲のごとくに眺めることであり、
大空であるおのれ自身に気付いてゆく、静かで積極的な行(為)なのである。
それは、
寸暇に湧き出でては消えて行く、様々な思考や想念にも捉われることなく、
それを超えて在る・・・自らに気付いてゆく意識的体験でもある。
一なる源に通じる全ての道は、常にその足元に、いやおのれ自身にあり、それは避けて通ることのできないものなのだ。
頭で造られる様々な思考、イメージは常に砂上の楼閣、マーヤの幻想。
マーヤといわれるこの幻想・現象世界は、マインド・こころの投影映像あるいは影絵のことである。
それを<観ている>ものこそ・・・あなた・・という本質である。
「内観」とは・・自己の本質に気付く普遍的な意識的行為のことである。
それは本来いわば神なるものが、世界宇宙全土から、それぞれに自己を思い出すということと同じことを意味している。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。