気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

オーバーソウル

2013-02-03 09:43:08 | 新たなる地平線

人間の意識がすこしづつ拡がってゆくと、自分がいわゆる<魂>を持つ存在であるということに気付いて来ることになる。

 

今ある<私>が、今回だけのものであり死んだら終わりと考えている意識レベルから・・、

 

その<私>そのものが幾度も別の人格を持って生まれ変わっているところの実体のようなものであるという自己理解、自己認識に至るわけであるが、

 

そういうふうな、幾多の別人格の人生という中での共通の<自己>なるものを称して、「魂」と呼んでいるはずだ。

 

いわゆる他生における人生を通じて、当初はおぼろげであったとしても、

 

そこに共通する自己が存在することを理解したり自覚したりするならば、

 

その幾多の人生、あるいは生命体験をまとめた、

 

より普遍的な魂としての<わたし>に気付くということになるのである。

 

それはオーバーソウルだとか高次の自己、あるいはハイヤーセルフとも言っているのかもしれない。

 

ロバート・モンローはそれを I there(あちらのわたし)と言い、霊界通信的には 守護霊や類魂と言い、チャネリング的には宇宙ファミリーと云っているのかもしれない。

  

もっともスピリチュアル的なそれらの言葉の説明や定義などはあまり意味が無く、

 

要は、そういう、より普遍的な<わたし>に気付くということは、

 

今の意識ある私・・とは、

 

時間と空間を超えた存在の仕方、

 

あるいは幾多の空間・場所や歴史・時間に渡って出・没をしている、

 

より普遍的な、またはより大きい自己の一部であると自己認識することである。

  

今・・・私である・・・と自覚している自己意識、・・自己認識を拡大し、

 

それが歴史と場所、時間と空間のなか、あるいは宇宙大のステージにおいて幾多の経験をしているところの

 

・・・拡大された・・わたし・・にまで気付くということである。

 

例えば、魂にかんする何かの書物や言説にふれることでその可能性に気付き、

 

半信半疑ながらも・・ありうることだと直感的に感じることによって、

 

それの気づきのトリガーとなる場合や、

 

普通とは全く異なる特別な「夢」等によって、

 

その<魂>としての自己を自覚するような気付きを得られる場合もあるし、

 

いわゆるリーディングや退行催眠という、先導者とのシステマティックなプロセスによって得られる内面情報によって、その輪郭を思いだすこともある。

 

そういう拡大された自己の在り方、自己認識は、

 

現状の3次元的に固定されたような時間空間、生存場所、文明、生活にいながらも、

 

それを超えたところの<わたし>に意識が拡大しつつあることを示しており、

 

それはいわゆるところの、本来あるべき霊的成長の道を歩くということなのだ。

 

今ある<わたし>・・・を含みつつ、

 

それを忌避せず、また決してそれに束縛されず、

 

より拡大された<わたし>というものに気付いてゆく

 

その長いような、短いようなプロセスの先にあるものは、

 

当然ながら、全てに在ってまさしく・・あらゆる全てであるところの、

 

昔から誤解されつつ言われてきたところの<神>あるいは<創造主>

 

あるいは・・ひとつなる<本質>なのである。

 

これは現実離れした空虚な理想や絵空事などではなく、

 

魂・意識達の・・・ある段階で気付くべき、魂の基本中の基本である。

 

例えば、偉大なる山脈が、今はたとえはるか遠くに見えるとも、

 

その方向や道を失うことはもはやないはずであるし、

 

3次元的な袋小路での堂々めぐりは終わりを告げるのである。

 

今ある当たり前の生きざまや生活も、それが殊更どうということもなくなり、

  

慌てず、騒がず、今・・・あるがままに在ることを良しとすることになるだろう。

 

世界の全ての騒ぎや混乱は、

 

歪んだ想念とその対処の仕方の誤解から来ている。

 

外の世界をいじくり回し、人を変え、品を変えようとする方向違いの想念である。

 

自分を変えずして人が変わるものと錯覚し、

 

体制や仕組みを先に変えようとする行為は、

 

それぞれの<大いなるわたし>に気づかないまま、

 

あくまでも・・がまま・・で終始しようとすることであろう。

 

造られた我、歪んだ自己観念である<我>どうしがブツカリあい、押し合い、へしあいする世界の渦はもうすぐ奔流となって崖に向かうことになるだろう。

 

いわゆるところの<エゴ>文明の終焉であり、それは「我がまま」から「在るがまま」への意識的な変容を意味するのである。

 

在るがままとは、何もせず怠惰であること、いい加減であることではなく、

 

あるがままの宇宙・大自然のダイナミクスに調和しつつ、

 

今あるところにおいて、それに調和する有様のことである。

 

科学もエネルギーも人の集合する在り方も、

 

自然との協調によってその奥行きを深め、逆に有り余るほどのものとなる。

 

世にいうフリーエネルギー、真空エネルギーもその方向で当たり前のように出てくるものである。

 

今、そしてその続く先、 

 

意識的存在達は、古き小我を捨て、大いなる自己への拡大の道に乗ることになるだろう。 

 

そして、

 

神の自己観想が宇宙・大自然となっているように、

 

それぞれの無限の<わたし>への観想を行うことが人間の最大のテーマなのである。

何事においても言えることは、 

 

自分を深く理解せずして、

 

他を理解出来るはずがない・・ということだ。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。