内観とは簡単に言えば...こころを観る・・ということだ。
またこころを見るということは、自分のこころの動きを観察するということでもある。
日常の何でもない生活や人間関係等において、自分がどう感じ、どう反応しているかを、自分で観察する意識を持つということでもある。
瞑目して端坐していても、目覚めて何か活動していても、自分のこころを見つめていることができるならば、それは内観なのである。
意識を拡大することは、自分に起きるさまざまなことをしっかりと観察できる意識状態に移行するということであり、
また、そのさまざまに自分に起きることというのは、肉体的五感によって自然に起きることではなく、
その外面世界と自己との出来事に対して、”自分のこころが反応する事柄”なのである。
たとえば、あなたが自己意識を持たない単なる人型ロボットならば、そこにはどんな出来事も起きてこないことは理解が可能だろう。
たとえロボットと外界との電子的な信号のやり取りはあっても、その信号のやり取りに気づいている自意識がないならば、そこには世界が現れてはいないということなのだ。
それに気づく意識を有していないならば、世界の出来事、諸現象はまさに<有って無きがごとし>なのである。
例えば、
何かの考えに没頭しているときには、周りの出来事に全く気付かないという経験は誰でもあるはずだ。
周囲に色々な出来事があったとしても、それに意識的にならなければ全然気づかないということであり、
常時気づいていなければ、それは当人にとって存在しないと同義である。
このように、ある意味では、「こころ」というのは意識的なレーダーのようなものであり、その意識が焦点を合わすことだけに同調するともいえるのである。
そして、意識が同調する事柄だけが、あなたの「こころ」という言わば”レーダーサイト”に現れるということであり、
逆に、ある特定の思考に集中することで、他の現実に気づかないということでもある。
これが例えば否定的な思考であれば、その否定的な思考に集中することによって、それに付随する否定的な感情にハマってしまうことになるし、
いやなこと、恥ずかしいこと、恐ろしいこと、胸が苦しくなるような状態にもなるわけだ。
こういうことは、誰でも何度も落ちいった経験があるはずである。
あるいは、まだハマっているのかもしれない。
要は、
人は皆、自分の「こころ」によって・・自分のあり方・・を決めているということである。
・・・
仏教的な教えでは、三界は唯心の諸現・・とも言われるが、これは人間の生存する諸世界はすべて「こころ」の現れであるという真理を表現している。
簡単に言えば「こころ」というのは、思考でありビジョンであり、それに付随する感情のことだ。
その「こころ」によって自己の存在せる世界が現れているというのである。
実のところこれは狭い意味でも、広い意味でもまさにそうなのである。
狭い意味では、それぞれの人間の有り方、有様は・・・その人間のこころによって創生されているということであり、
より広い意味では、存在諸世界あらゆるものが「意識」と「意図」によって現れているということだ。
そのあらゆるもの、あまねくすべて表現している普遍的な「意識」と「意図」を・・・一般には神とか創造主とか言っているわけである。
人間が自己の内面、すなわち自己の意識と意図、想念、思いを見つめることで、創造の根源的なあり方に気づくことができるのだ。
そうすれば、
人々が一喜一憂する諸現象、驚きおののく人間世界の諸現象は、すべて人の想念が現れた結果なのだということが理解できるはずである。
自己の内面を観ることができるならば、
他者の内面も憶測かや理解ができるようになり、嘘も隠しも存在できないことになるし、また真の意味で他者に共感もできるようになるのだ。
本来・・「和」 とはそういう意味である。
内面意識を観ることができる人々が次第に増えるならば、意識の働きがより精妙になり、いわゆる波動が上がることになって、その波動の上がった集合世界では以心伝心が普通に可能となる。
以心伝心とは、こころをもってこころを伝えること、いわゆるテレパシー、精神感応とも言われている意思疎通形態であり、
物理的な装置を使うことなく、意識波動を通じてコミュニケーションが可能となる。
そういうアンダーグラウンドの直通の意思疎通が行われる世界では、人間同士の騙しや縛りの約束、嘘八百等は存在できないのだ。
それぞれの内面を観ることでそれぞれの意識が広がり、
人々、そしてすべての存在物との意識の交差する範囲が拡大し、
自己と他者、人と諸物、地球と宇宙、この次元と他の次元との共感が拡大する。
サイバーネットワークならぬ、意識のネットワークが広がってゆくのである。
リモートビューイング、遠隔知覚、直接知、あるいは宇宙レベルの交流が普通になるのである。
もし世界をより良き方向に変えたいと望むならば、
行うべきは・・・それである。
より良きことが、外の世界の宇宙のどこかにあるわけでもなく、
その全ては・・・・あなたやわたし達の中にあることなのだ。
内はすなわち外へと繋がっている。
原点は、自己を見つめることにある。
見つめることであらゆるものが現れる。
見つめるとは・・・意識的になることであり、
「意識」において「意図」を投影することで何事もその存在を露わにするということだ。
それは、
神が自己を見つめることを始めた・・宇宙創成・・・と同じことなのだ。
人の日常の生活、生きざまにおいてもまさにそうなのである。
おのれの意識の中に生起するものを観ることは、
人のこれからの基本中の基本的作業であり、
まさにそれを通じてより拡大された世界につながるのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして誠に有難うございました。
次回は、人とはいったい何者で、どうしてここにいるのかというテーマの記事にしようと思う。