この世界は今いわゆる<エゴ>的なものから<エヴァ>的なものへの転換が行われていることに気付けるだろうか。
・・・
ここで言う<エゴ>とはいわゆる利己主義であり、<エヴァ>とはそれを含んでそれを拡大した利他主義ともいえようか。
拡大された「利他」が即ち「利己」にもなるという思考を中心としたあり方である。
拡大される利他に関して言えば、確かにそれは「愛」の一つの形態であるといえるだろう。
なるほど、確かに自分だけが良ければいいわけはなく、その自分がいるところの周囲、あるいは拡大された世界が良くなければ、当の自分さえも良くはならないことは、誰が考えても見当がつくはずである。
・・・まさに、当たり前。
まさに当たり前の、当然の有り方に気づいて生活をする社会・文明のことを「エヴァ文明」と言っても良いだろうか。
ある意味では、エゴ文明は利己、自己、個人の利益を優先する小さな自己像の集合したものであり、エヴァ文明は真正な意味で『お互いさま』ということを理解したものの集合でもあろうか。
またお互いさまと言っても互いのエゴ・主張でバトルしたり、慣れ合ったりするものではなく、お互いに意識・魂の成長を促すような形態を有する文明ということである。
自然と調和しつつ共存し、大自然の探求を元にした本来の哲学・科学を構築してゆく文明とも言えるだろうか。
すくなくとも、個人我を突き詰めてわけがわからなくなる哲学や、すぐに経済的な儲けが出来る科学の追究ではないはずである。
ましてや崇拝の強制と金銭の徴収、地べたでの仲間意識を造り上げるだけの宗教も存在出来ないだろう。
エヴァ文明は、その多くが意識生命体である自己の有り方の意味を理解している人々で構成されるものであろう。
今必然的に起きてきつつある次なる文明は、
今までの観念のような、偶然に、行き当たりばったりで、意味も無く生れて、理解も無く去ってゆくような機械還元論的、あるいは唯物的な死生観等を、1つ大きく超えたところにある『魂レベル』の気付きを元にした文明であろう。
それは、
わたしとは・・何か?・・という問いかけの1つの段階の答えを見いだした時に得られる気付き、あるいは理解を元にしているはずである。
そういう世界の人々の特徴は、それぞれが別々バラバラの個人主義ではなく、お互いがそれぞれ異なった表現体でありながら、元は1つの<わたし>だという自己認識にあるはずだ。
それぞれが異なれども生命の根源はひとつであるならば、どうして異なる表現体同士で殺し合ったり、バトルしたりすることがあろうか。
まさにお笑い草である。
なるほど、バトルや競争や闘争も、お互いが生かし合いつつ共存し、相互に理解と知識を深めてゆくことが本来の自然の有り方であることに、嫌というほど気付くまでのことでもあったのかもしれない。
「・・・共存共栄・・それはわかるがネ、結局は理想論だよ・・現実は違う・・・」という声も聞こえるのだが、
それは実際に頭の知識だけの場合の言い方であり、直感的にもコモンセンスでもわかるところの真実を『悟って』いない、感じていないというだけの話なのだ。
それは単に、頭でわかっても実際の生き様や行為で「実地検証」に及ばない状態の話のことである。あるいは恐怖が先に立っているために飛び込むことが出来ず、飛び込み台にたたずんでドギマギしている人のようなものだろうか。
わかっているけど現実が・・・そういうのが現実論という名の虚構の空論である。
大自然が食物連鎖によるバトルロワイヤルだというのだろうか。(笑)
大自然は昔から未来まで<共存共栄>と完全な<調和>であることは火を見なくても明らかである。
それは理想でなく、完璧な現実なのである。
西洋には無かったかもしれないが、少なくともこの日本という地にはあったのだ。
・・・・和をもって貴しとなす・・という古語。
江戸時代の自給自足形態と民衆文化の発展、古くからある修道や修行等を通じて道を究める者たちへの理解と許容の文化。
神道という、偶像の存在しない随神(かんながら)の道。
あなたやわたし達の身の回りにも、古き良き教えや真実が数限りなく見つかるはすである。
それとも、社会の流行や飽食、Ipadや携帯電話の中に幸せがあったのだろうか。
・・・
和とは人間界だけではなく、大自然の中における・・人と人の間の『調和』が第一であるということであり、
即ち『人間』の意識の調和というか、地球という生態系・大自然の中で生きつつ経験と思索を通じて進化すべきあり方というか、そういう自他共存の本来の有り方を示したものではないのか。
一般に解釈されるような、例えば国同士や人同士の利害関係の平和構築というような、表層の軟弱なバランス生成のことではないのだ。
ここまで自然のバランスが崩れて来ても未だに理解できないのだろうか。
驚天動地の天変地異が起きればそれがわかるというのだろうか。
ここまで人心が荒んでいても、それがそうだと判別出来ないのだろうか。
尚更、さらに物質繁栄によって人類の幸福、最大多数の最大幸福が得られると思っているのだろうか。
いいや、
もうすでに十分に行きすぎたことを悟るべきではなかろうか。
要するに、多くの人は多くの他者が気付いていないからといって、そちらに意識をお互い同士に任せているだけのことなのである。
多数決は単にエゴ的意見の食い違いの1つの調整・判定方法であり、魂の経験と深化とは関係が無いものだ。
とはいえ、どういうものが真実への方向かは、皆それぞれの内面にあるわけだが、外の無理解と無知の様相、あるいは何か新しいものに真実があるのだというプロパガンダに合わせてしまってきただけのことであろう。
我々の身体も、こころもそして魂と言われる本質も、あなたやわたし達の多数決の理論で存在なんかしてはいるわけではないのだ。
それこそ・・・あるがままに・・・そこにあることである。
我々がいつか生れてここに存在し、またいつか去ってゆくことになるのもあるがままである。
多くの人々の叫びや主張の嵐の中で鍛えられていることも、ままよ、それもまたあるがままである。
そこから脱するためと称して他者をどうのこうのという前に、自己の探求と研鑽に意識を集中することのどこが不利益なのであろうか、どこが非現実的なのであろうか。
頭と理論、契約と搾取を通じて巨万の富を得ることで、一体何が利益になるのだろうか。
間違っているとは知っていながら組織の中で生きるために、嘘をつき続けることのどこに本質的な利益があるのだろうか。
それは利益獲得と言うよりも単に肉体護持のゲームに打ち興じている幼い姿を示しているだけであり、結局は誰の福祉にもならず利他にもならず、かえってEGOの集積にしか過ぎないことになっているではないか。
そのEGOの想念と結果の集積によって、社会の歪みが極端になって来ているわけだし、また我々の舞台ともいえる大自然が汚れ、さらには地球上の時空が変化してきている有様にも気付かなければならないだろう。
しかしながら・・・・さらに肝心なところは、
今ある大いなる変化は、単に人類の無意識に発散蓄積した悪想念の歪みを解消するためだけではなく、
この地における次なるステージへの合図にもなっていることである。
要は地球上にいる人類の想念の「飽和」を意味しているとも言えるのだ。
『飽和』の次にあるのは飛躍であり、また急激な相転換、あるいはカタストロフでもある。
それは、エネルギーを受けて氷が水になり、電子軌道がジャンプし、摩擦で動かぬ物体が急に動きだし、実った柿の実が地に落ちるようなものだ。
社会の底にあった嘘八百の泡(あぶく)が世間という表面に現われて来るし、お為ごかしの支配の構図がガラガラと崩れて行き、また様々な組織の腐敗の悪臭が匂って来るようなものだ。
陰謀論の流行やスピリチュアリズム、宇宙人の話題や気象兵器のうわさと実施、何とか革命という名がいつの間にかつけられる中東周辺地域の政治の崩壊や混乱もまさにそうである。
人々が意図していようと無意識であろうと、潜在意識下においては何かが大きく変化していることを嗅ぎ取っているためである。
ピンからキリまであるようなチャネリング情報、光と闇の闘い?に一喜一憂している人がいるのも、今がもう地球の文明の飽和の時期だと伝えているのだ。
様々な人類の様々な歪みや、あるいは教訓が今人類意識の表面に現象となって顕れているということでもある。
だからと言って、自分の改善や改革を差し置いて、外の形だけの世界様式を変えようとすることの矛盾にも、もういい加減に気付かなければならないわけである。
頭で知ったところのスピリチャルな知識を振りかざしても、あっという間に無知や不信でなぎ倒されるのはこの世界のレベルの特徴である。
主義主張という思考・観念のカテゴリ枠をかざして行われた歴史上の革命や改革は、結果全て混乱と退廃を生んできたのは、それぞれの人間の意識改革自体をおざなりにしているからである。
それぞれの私の意識が変わることなく、その・・・結果の・・集合である社会が変わるはずもないのだ。
また安易に人を愛せと言われても、その相手から無知や偏見が帰って来た時にショックを受けるような意識レベルでは結局は愛せるわけも無い。
それも今までの歴史でわかるはずであるし、あなたやわたし達もどこか経験があるかもしれない。
愛するとは、自分の都合のよいように相手を変えようとすることではない。
それは古い利己主義・EGOである。
愛するとは、自分の知っていることを無理やり伝えようとすることではない。
それは古い利己主義・EGOである。
愛するとは、相手の間違いを批判し矯正しようとすることではない。
それも古い利己主義・EGOなのだ。
要は自分に、あるいは自分の思考・観念に従わせようとする・EGOなのだ。
なかなか気づけないかもしれない根の思考・・・それがエゴという利己主義観念である。
・・・・
ところで、
世界の一大変化ということが言われて久しいが、一体ぜんたい変化などしているのだろうかと思っている人も多いだろう。
しかしながら実際に大きく変化してきていることは良くわかるはずなのだ。
・・・
大自然が非常な変化率で変わって来ている事は、まともなニュースの見聞きや身近な生活内での気象変動の体験でもわかるだろう。
よほど安穏とした古い観念の中に沈んでいない限り、地震や天候の急変等を少しながらも感じている人は、何かがおかしいと思っているはずである。
30年以上も前から異常気象という言葉が定着しているのは、それ以前の気象状態との明らかな違いを言っているわけで、何かの勘違いなどではない。
またそれら人間を取り巻く時空の少なからざる変化の多くが人間の意識と関連しているのだ。
地殻の動き、天候のパターン、生態系変化等、我々を取り巻く時空自体が勝手に変化しており、人間はただ無関係に右往左往していると考えているならば、それは大きな間違いであろう。
人間の意識活動、想念、思考、想いはいわゆる「波動」であり、物質表現形である3次元世界への干渉と同調等の波動効果を通じて、その顕現形態への大きな影響を与えているのである。
身近な例で言えば、昔からある雨ごいや豊漁、豊作祈願等も、それは単なる民衆の希望や儀式を言っているのではなく、古い時代から伝えられ、またそれ自体が形骸化してはいるが、実際にその民衆の想いが結果に対して影響を与えているという真実を伝えているのだ。
こういう古代からの知恵に関しては、西欧流の個人主義、肉体中心主義、物質繁栄主義では到底理解が出来ないだろう。
世の中には実際に天気を変えることのできる人や、例えばどこかの雲を消したり出現したり出来る人もいる。
誰でも知っている?ように、金属スプーンを曲げたり切ったりできる人もいる。
あれも何かの間違いかやらせだとか云う人がいるだろうが、実際にあることなのである。
実際にスプーン曲げがTVなどで公開されたり、実際に見たりしたはずであるが、要は自分が出来ないからといって、いつか忘れてしまうものだが、こういう思考と現象化の関係は・・・いわゆる現実なのである。
往々にして興味本位のマスコミを通じて思わぬ真実が出てしまうと、必ず有象無象の者達が参入してして来て、嘘まがいや金儲けの手段に変えようとすることにもなり、実際何が何だかわからぬことになってしまうものである。
例えば、一時流行ったユリ・ゲラー現象は、マジック・手品だったという観念で塗りつぶされてしまった感?があるが、
それは真実は与えられるものだというレベルの人々、自分の意識で見極めようとしない人々にとっては全てやらせだったということになる。
実際にやらせなのは、それをやらせだというような方向に持っていっている・・こと自体なのである。
人間の思考や観念の創造力から眼をそらすことが、そのやらせの目的であると言われても仕方が無いのだが、それに気づかぬ人々にもまた責任があるはずなのである。
例えば気象の変化は人類の意識と大いに相関関係があり、
それは何も高出力の集中された電磁波や浮遊物質を使って、無理やり電気化学反応をさせて行わなくても生起することである。
こういう人為的なやり方は現象レベルでの反応を、別のエネルギーによって無理やり改変させるやり方であり、それ自体エネルギー的に非常に非効率であるし、また自然とは異なる反応によって得られる更なる副作用自体が問題ともなる。
次第に世間にもリークされてきたこのような天候や気象の人工的な改造は、まさに人間が肉体であり、その体を切ったり張ったりして健康を得ようとする本末転倒の思考の延長なのである。
とうとう、今地球という生命圏が実験材料になっている感があるのだ。
・・・・
しかしながら、
これ以上やれば地球という『魂の学び舎』が壊れてしまうことだけは、決して宇宙の意図にはないのであればこそ、今が既に飽和した時期であると言えるのだ。
そうして、飽和の先には必ず大いなる転換があるものである。
こころすべき時期にあることをゆめ夢忘れない様にすべきであろう。
・・・
また、興味深いことに、
日本の政治の世界でも、今、2つに1つの方向が提示されているではないか。
TPPの賛否・・・
更なる自由競争とその結果の収奪を期待する契約とも解することが出来るテーマであろうか。
国民の代表であるはずの国家政府は口出し出来ない契約をするのかしないのか・・・の問いかけ、それはまるで子羊の群れから最後の羊毛刈りを行うことに・・・賛成か反対か。
・・・・もういい加減にしろ!・・・・と言いたいところだ。(大笑)
増税の賛否・・・
誰も要望していない間にいつの間にか蓄積された政府の債務を、
誰も要望していない増税で焼け石に水を掛けようとする行為に・・・賛成か反対か。
・・・・賛成するはずもなかろう。
テーマにもならないが、・・・そうでもないのだろうか。
原発廃止か否か・・・
万全なる制御が出来ず、何万年も隠匿保管しなければならない放射性物質を蓄積することになる原発。
尚更、環太平洋火山帯の一環である地震列島にあって、50基以上の核施設を、一体だれが喜んで許すのだろう。
それともハリネズミのように自分の身の回りをある種の核爆弾で守っているのだろうか。
もう一回来れば終わりだということが理解できない者はいるのだろうか。
・・・・
なるほどわかり易い戦後の最終卒業試験になったものである。
教訓を教訓として困難を乗り越え、お互いさまが質素で本質にそった生活に戻すか?
目先の個人的・物的繁栄をさらに追い求めて爆発するのか?
どちらに行くのか、日本の集合意識も<最後の試し>に遭遇しているようである。
誰かの為政者とか、経済発展とか、何かの難しい理論のせいにはもう出来ないようである。
まさに、ここにも、こころすべき時が来ていることが示されているではないか。
嗚呼・・
ここまでわかり易い状況にあっても、未だ気付かないのであろうか。
ままよ・・・それでも良いか。
全てはつまるところ・・良きかな・・・良きかな・・・・である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして誠に有難うございました。