先日私も当然ながら投票所に赴いたのだが、
道の途中に、空(から)の乳母車を支えに、その曲った背中を恥ずかしげもなく晒しながら、
ゆっくり・・ゆっくりと投票所に向かう老婆の姿があった。
下世話な話、自分の下(しも)の世話も出来ているのか?というような姿で、
お国の為に、自分の役目の為にという一心であろうか、
あるいは昔懐かし我が子を思い出すかのように、
でも今はそこに・・・誰も乗っていない乳母車を押しつつ、それに支えられ、
選挙用に急きょ設えられたバリアフリーの歩道を必死に上がっていたのだった。
なるほど、
選挙や政治がらみの物事は、
何かわかったような意見をしゃべくる身内の考えや、
付き合いでの依頼、あるいは生活基盤につながった組織からのお願いなどがあるのが常であるが・・・、
それがもたらす結果は何かはわからないとしても、その時の縁を大切にしながら、
あるいはそれを今の生きるよりどころにしながらも、
周囲の為、・・・子供の為に、
そして、それにつながる有象無象の人々に、
どこか何か・・役立つことをしたいと思っているのであろう。
一票それが・・何をもたらすかの知的な分析も判断も出来ない人々であっても、
あるいは老人だ、認知症だとか、ボケだとか云われる方たちであっても、
魂がその体自体から転移する時期を誤魔化されたような世間の偽観念の渦の中で、
今やるべきことを黙って・・やっている姿・・・
その身そのままで・・今・・生きていること・・・在ること。
勝手ながら、そのような感覚を覚えるような、ある意味で健気な老婆の姿が、・・・今もこの目に焼き付いている。
・・・
気付けばこのような有象無象の相対的世界・・・、
実際のところ、分けのわからない欲得思考の展覧会のような感のする世界、
さも解ったふりの者達が、次から次へ手を上げ躍り出て、その挙句の果てが無茶苦茶になっても責任も取れない者ばかりが先導するかのような世界・・、
常に露と消えて行くだけの刹那の幻想の世界に期待をしつつ、
全てが裏切られ、翻弄され、どこか搾取されている可能性にも気付かず、
それでも自分が何か他者の役に立とうとする姿・・・、
・・・、
それが何で、どんな効果で、どんな利益や悲劇をもたらすのかは今はわからずとも、
前に進もうとする本質の姿は垣間見ることが出来る気がする。
どこか踊らされ利用されているやもしれない・・・ことも知らず、
ただ生きて何かの役に立とうとしている姿・・・。
・・・
道ですれ違っただけの、ことさら何の縁も無い老婆だったけれども、
それに気付かせていただいたことに感謝である。
御苦労さまでした。
お疲れさまでした。
本当に有難うございます。
そう・・、
人の母も、地球という名の父なる宇宙に浮かぶ母も・・・その本質は同じなんだなと思う。
その広大なふところの上で何も知らず遊び呆ける友がき、その他多くの無意識のいろどり役者たちを眺めれば、
たまに袖すり合うだけの多くの人々へも・・・どこか魂へのいとおしさを感じるかもしれない。
その為には、何が正しく何が間違っているか、何が正解で何が誤謬だかという思考や批判をこのさい頭から排除すべきなのだろう。
外の現象世界、全ては成るようになるということであり、
それが嫌も応も無い集合意識レベルでの学びのプロセスなのだということだろうか。
・・・
この気象変化・地殻変動期にあると言われる今の地球において、原発という放射性物質の極度に集中され濃縮された破壊エネルギーをそのままに、
またさらに推進する?という方向に再び多数決という名の舵を切ってしまった形に仕上げられた感のある集合意識においては、
今後高い確率で予想される経済や生態系の激変、文明の一大崩壊のような転換を迎えた時点で、もう誰のせいにも出来ないことを・・・
悟るはめになるのかもしれない。
仮にも、自然界との調和よりも、今ある命の大切さよりも、付和雷同の笛の音に踊るような目先の金回りのほうを選んでしまったということならば、
それもまた意識的な選択であり、その選択によって今回もその結果が現われるだろうし、ただそれだけなのだ。
要は、因果応報は時代が下れば無効になるわけも無く、たとえどんな時代であろうと、良きに付け悪しきにつけ、意識的に選んだものを刈り取るということは変わりようがない。
結果を刈り取るその時には・・・あー、知らなかったということは言えないし、誰のせいにも出来はしまい。
なるほど、それに気付けるかどうかの試金石、あるいは標識の1つはもう通り過ぎたようでもある。
有史以来初めて広島・長崎に核の閃光と放射能拡散を経験し、
長年にわたる病苦と差別、遺伝子の奇形の症状に苦しんで来た人々は否も応もなく、すでにそのカルマを解消したことだろうが、
さらにまた福島の放射能を世界中に垂れ流している・・・地球という中のへそ、神州の雛型である日本と云う国体の、癒されざる物質形態内奥の傷を一体誰がどうするのであろうか。
またこれ以上の歪みは蓄積出来ないところまで来ていることを、多くの人は見てとることもできないのかもしれない。
どんな生き物もそうであるように、体の傷は癒されるのが自然の法則であるが、その癒し方に、もう自己都合だらけの人的な期待や注文は出来るはずもない。
その歪みや傷をいやす大自然の英知は、人的物量を超え、想像を超えたものであることを経験することになるかもしれない。
根本的に言って、地球という時空間は生物、人類全てにとっての<借り家>なのだということを知るべきであるし、
そしてその感謝を忘れてしまえば、
地表から自らが追いおとされるはめになっても誰にも文句も言えまいし、またそれすらも気付かないかもしれない。
それでも、・・・そんなはずはない・・・のだろうか。
いいや・・・、見渡せば、すでに時は満ち、機は熟したのではないかと思う。
・・・そう、これ以上は 不自然 なのだ。
・・・
翻って、
集合意識がどうしたとか、そんなことよりも、何よりも、
それぞれの<わたし>自身は気付くべきことがある。
今の瞬間・・・在ることに、気付いて居て
それに本当に、感謝が出来るだろうか。
例えそれ以外の全ては一時の、儚き夢まぼろしであったとしても、
ままよ、それでも良いのだろうし、
かえってそれを観察するところの本質は不動であることを忘れないでおこう。
そう、常に還るところは・・・自己の本質なのである。
・・・
ただ、いま、・・・有難う御座います。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。