5次元とか3次元とか言う場合は、人間に絡んだ世界形態のことであろうと思うかもしれない。
3次元世界とか4次元世界とかいう風に、それを世界・環境の有り方のことであると捉えているかもしれない。
そういう具合に、あくまでも世界のこと、環境のことが主であって、その世界に在るところの主体としての、あなたやわたし達のことがトンとおざなりになっているかもしれない。
良くある意識的ミスマッチあるいは思考の的外れというものである。
環境変化が先ず先行するというような3次元的、あるいは唯物論的思考となっているために、それは例えば良く聞くような、アセンションしたとかしないとか、そういう言葉に現われているのかもしれない。
要は感覚的に、ある部屋から別の部屋に単に移るような意味で使われ、それも良くない状態からより良い状態への移行とでも捉えるのかもしれない。
確かに今の現実世界が非常に生きやすく快適だとかは誰も思わないはずであるし、そのような世界から脱皮出来るならば、これほど良いことも無いと感じている人々は多いはずである。
アセンション等と云わずとも、生と死はある意味でそのような自然な生命顕現の移行のことであるし、そのような移行に関して人々がどこか気付いて、気にしているということだけでも、人類の意識は拡大しているとも言えるのだが、
実のところ生と死のサイクルは、そして転生は、
魂とも称される個別化した意識体が、様々な環境に即した身体・肉体をまといながら、あるいはその環境にあった寿命という体験時間を経ながらの自然な体験学習の繰り返しを意味しており、
何もことさら次元上昇やらアセンション等と騒ぎたてることもなく、今までも、今も続いているのである。
あなたが今・・ここに生きている・・ということは、社会の常識通念が気付いていようといまいと、そういう転生のサイクルの中に在るということである。
今ここ、地球の表面次元に・・生きているという・・自覚意識があるからには、その今・・永遠の中の「今」に在り続けていることになるのだ。
問題は、そんなことなど何も眼中にないかのような、物質形態主体の浮かれ騒ぎばかりの世間の流れなのであり、
様々に移り変わる価値観や物質形態を重要視することの愚に気付き、その他大勢のどよめきと騒乱の中で自己を見失わない様にすることが、今最も大切な魂の<学び>でもあるだろう。
今最も大切という意味は、現在この数千年に顕れた人間社会、3次元的な思考を元にした文明世界が既に飽和しており、これからどうなるのかと言うような不安思考が主流になったような感のある極めて稀な状態、謂わば分岐点に来ているということなのである。
資本主義経済が崩壊したとか、毎度のことながらバブルが弾けたとか、これからまたバブルを演出するとか、国家予算がそれを売り買いする外部の国債の投資家によって成立する可笑しな有様だとか、
あるいは世界的に経済成長が止まり、お金が少なくなって焦りつつ、目を皿のようにして他国すれすれの土地と資源を簒奪しようとか、何かのトラブルイベントを作り上げ、それに対抗すべく時代遅れの3次元的兵器で軍事面での内需拡大と兵器産業を助けようだとか、
もう1度来れば終わりのはずの地震列島に張りめぐらされた数万年も溜まり続け、誰も処理の出来ない放射性物質の蓄積を再開するとか、
本来国民の生業(なりわい)為の中央制御であるはずの政治や権力が、宣伝と洗脳の境界を踏み破り、あるいは見えないところに嘘と騙しを落としこんで利益誘導してしまう醜態だとか・・・・、
明らかに危険な方向に向かおうとするかのような動き、
これらそれらをしっかりと観察するならば、地表次元においては、
物質形態の繁栄と豊富さのみを求めてきた今までの人間世界は既に分岐点を迎え、それを通り過ぎようとしているということに、すでに気付く人々も多いはずである。
比較的大勢の人々が、自分達がたまたま生れた偶然の生き物、単に知性をもった肉体であり、死んだら終わりの動物だとかいうような虚構の観念の中に沈んでいるからこその文明であったのかもしれない。
またなるほど、そういう世界で最も大切なのは、刹那の肉体であり、またそれを維持し快楽に保つための豊富な物資であり、それを得やすくするための権威や権力ということなのだろうか。
近代以降の欧米流の進出・獲得・簒奪・競争等の思想で彩られた物資繁栄主義は、そういう根にある思考が故のことであったろう。
・・・
ちょっと困ったことには、
物質主義、利己主義のような根の思考を持ったまま 魂:意識体が肉体死を経たならば、その残留思考の程度によってこの次元世界の周辺に引きとめられることになるということだ。
そういう地球時空周囲の意識存在層あるいは、中間層、肉眼では当然見えない意識体の存在周波数帯域が、4次元とか幽界やら霊界とか言われているようである。
本来多次元意識体である魂、つまり人が死んだ後に関しては、最も外装の肉体は持たないものの、それは単に常に着がえるだけこと、要は次元層の外衣を脱いだだけのことであり、
その本質である意識の内質によって、外側の体験フィールドが変わるということには変わりがない。
なぜなら、意識が常にフォーカスしているところに<わたし>があるという自己顕現原理のようなものがあるからだ。
本質である意識の振動率、あるいは簡単に言えば主たる残留想念の質が、地上の混乱の様相に近ければ近いほど、類は友を呼ぶというような波長の共振作用によって引かれ、あるいは引っかかってしまうようなものだ。
それは、本来の言わば5次元以上の・・大きな<わたし>という意識体に帰還出来ず、途中で引っかかってしまうようなものであろう。
まるで大きな<わたし>という母船から、探求と経験知を得るために探査機を発出させたものの、その分身である探査機が、周波数の波の途中のどこかで引っかかって難破しているようなものとも言えようか。
またその引っかかった個別の「意識のポイント」・・よくいわれるようにそれは霊とも言えようが、その霊の難破、引っかかりを開放すべく、5次元以上の大きな<わたし>からの常時の援助が行われているのが現実である。
そういう救護役は守護霊だとか指導霊、霊的ガイド等と言われる魂存在の役目である。
要はわけのわからぬ状況で天と地を行き来する幼子には、常に保護者が付いているようなものであり、その幼児はそれすらも気付かないからこそ<霊的幼児>ともいえるかもしれない。
・・・
人の本質は、外部顕現機能を有する意識体であるわけで、
地球の3次元的世界での1つの短い人生体験学習では十分ではないと判断された場合には、地球の多次元層の間を何度も行き来することになるということなのだろう。
それは例えば、何度も登頂に挑戦しながら、得難い学びを増やしてゆく登山家のようなもだろうか。
それが輪廻転生と言われるものであろう。
魂の学びの為に輪廻転生する当の魂達自らが、どうしてここにいるのかを忘れ、何が何だかわからないかのような有様の広がった世界、
確かに、これが3次元世界の文明のあり様と言えようか。
そういう3次元的肉体の因としての高次元的魂というか、さらに大きな自己に気付かぬ意識のレベルを3次元とか、第3密度の世界とも言うようである。
要は、全てを観察しているところの高次の意識・・<わたし>というものに、なかなか気付かない狭い認識レベルにフォーカスしていたということである。
普通に言えば、大所高所からものを観ることのできない自己の有様とも言えようか。
・・
いわゆる3次元というのは、今までのような物質形態ばかりに意識がフォーカスした状態であるとも言えるわけで、
人存在は本来そういう次元をも貫通した、あるいは超えた在り方をしている多次元的「意識体」でありながら、ある意味で肉体顕現周辺の皮相な部分、3次元的な部分での学びをしていたということでもある。
あなたもわたし達も、本来そういう言わば多次元的な存在なのであるが、
それはまたある意味では、幼稚園から小学校に行くような、すこしづつでもまんべんなく、しっかりとあらゆることを学んでゆくプロセスにあるともいえるだろう。
本来その国の人間としての知識を学ぶために学校があるように、さらに大きな意識・魂として、この世界だけでなく多様な世界の知識を学ぶために宇宙の住み家がある。
多次元的な宇宙の中にある様々な星も、あなたやわたしの今・・いる・・この地球もまたその1つである。
その地球も実のところ巨大でふところが広く、良くいわれるところの愛と光に満ちている。
地球という意識体が殊更言葉でしゃべらずとも、あなたはそれに気付けるだろう。
大気はそよ風であなたの頬をなで、
太陽の光はいつも地を明るく照らしてくれ、
草木は黙って我々の呼吸の為の酸素を生みだし続ける、
大地は子供達の歩く道を固持して守り、
動物は人間に何をされても愛らしくそばにいる、
山々は季節ごとに 白く、青く、黄色く、赤く色づき、
川は天からの清水を海まで還しながら地を清めて行く、
・・・・
万一、これらに異変が現われた時点では、すでにそのような環境破壊的文明自体が飽和したという合図なのではないだろうか。
それに気付かない、古い価値観念で固まった近視眼的思考の推進者達、結局は刹那の自己保身の為に騒ぎまくる者達は一体何を観ているのだろうか。
なるほど我々はまるで、何も分からず活動し、思考の力だけを頼りに地球を掘り返し、これ見よがしの摩天楼を築きあげつつ、気がつけば窒息しそうな都市文化を花開かせてしまった霊的幼児であったのかもしれない。
そう・・、今はもう・・・その幼年期・・・の終わりに遭遇しているのである。
今まで生きて育ち、経験を増やし、思考を洗練させ、大勢の人間関係から何事かを学んで来れたのも、
この地球があればこそではないか。
今はそれを静かに感じるべき時なのだ。
存在する全てのものは、大いなる意識と意図が・・・無数に、無限に個別化した形で顕現しているのだ。
この地球もそういう中の1つの意識体なのであり、鉱物・植物・動物・人間であっても、その意識体の中で遊び、学び、体験を重ねてその意識を大いなる意識まで拡大させつつある朋友のようなものなのだ。
今・・、ここで・・・観じざれば、今度、いつどこでそれをやるというのか?
・・・・
広い広い鏡のように澄み切った水面をもつ池に、
天から雨の滴が無数に降ってきた・・・、
その雨粒は、鏡のような池に無数に落ちて<波紋>が生じる、
その<波紋>はあちらこちら無数の<波紋>の輪を作り、
それらの無数の輪は池全体に波動として広がってゆき、
その沢山の輪と輪が干渉しつつ様々な紋様を描きつつ拡大する。
そうして広い広い池の・・端の端まで到達するのだ。
・・・・
いやいや、
広い広いといっても、実はあなたの手のひらの上のことなのかもしれない。
・・・・・・
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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