気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

世界は仮想現実(2) 常無き世界

2012-04-01 10:06:14 | 宇宙時代の考え方

諸業無常という古い言葉がある。

 

人においても、その集合せる社会においても、そして大自然においても、あらゆるものが<常無き>有様を呈していることを看破した言葉である。

 

大自然における季節の移り変わり、人のこころの変化、社会の動き、すべては一瞬たりとも全く同じものではなく、

 

それがたとえ繰り返しのように見えても、決して同じ繰り返しではないことを示している。

 

無常と無情が混同された感のある印象、奢れる平家は久しからず、という栄枯盛衰のことわりだけを言っているものではない。

 

現われ出たすべては変化すること、すなわち一瞬一瞬が極めて特別な瞬間であり続けることを言うのである。

 

変化とはへんかであり、ゆらぎであり、あらゆるものに同じことの繰り返しがないのは、

 

一瞬一瞬の現われ続ける現象によって、

 

まさにそれを生み出して変化するところの、

 

<当の>

 

創造者あるいは意図、あるいは意識たる本源自らが、

 

自らに気付くことができるからなのだ。

 

なぜならば、

 

変化のないところには<存在>というものがないからである。

 

変化、変移等無くて・・どうして、それを<それ>として気付けるだろうか?

 

これらはまるで禅問答のようで、極めて直感的感知を要求する表現かもしれないけれど、

 

すべての一なる根源、そしてその現われである森羅万象すべてが、その様々な変化を旨とする自然という現象を通じて、・・自らが目覚めていることに<気付いて>いることを表現しているのだ。

 

宇宙創造等というと、すぐに、はるか向こうにありそうな、途方もない、膨大な物質組成の創造とその仕組みという風な、いわゆる無限大の物理量的なものに捉える観念が直感的理解の邪魔をしてしまう傾向があるが、

 

実のところは、遥か無限の向こうの空間の先や、悠久の時間の流れという仕組み自体が、人間のマインド・こころによって創られたものである。

 

マインド・こころによって創られた・・といっても、あなたやわたし達が何かの彫刻を造るように丹念に意図的に製作するということではなく、

 

それを<それ>として見ている、・・観ている、・・そうだととらえている、あるいはそう信じ込んでいることで<仮に>創り上げているということである。

 

バーチャルなリアリティの創造である。

 

科学たりと言えどもその理解は変化し続けているではないか。

 

マインド、こころによって創られる世界、

 

それは、その時その時で<そう>と認めているこころの働き、すなわち<認識>によって創られているということである。

 

宇宙創成というレベルにおいても、大いなる創造、神なるものの存在演出、宇宙における永遠に変化しつづける森羅万象の、その常無き有様は、無限さえもそのふところ?に包んでいる<意識>によるところの<自己認識>なのである。

 

平たく言えば、全体である神なるもの、あるいは宇宙意識の自己認識・・・それが森羅万象として生起し続けているのだ。

 

ところで、あなたもわたしも、宇宙創造というそれに参加している<意識>である。

 

<意識>において、大も小も、神も人もなく、岩も、木も、動物もない。

 

ただその異なった現われ、常に変化する現象、そして常に進化、深化拡大する働きのプロセスがあるだけである。

 

意識においては全てはひとつなのだ。

 

ひとつであるからこそ、それが無限大に現われる。

 

無限大の中の、たった1つあるいは1人と感じている・・<あなた>・・も、そのソース、根源の中にいる意識である。

 

意識?  え、それは何だ? どこにある? というものではなく、

 

あなたやわたし達の・瞬・間・瞬・間に、すでに示されている。

 

というよりも、どういうことか、<それ>そのものである自らに気付いていないというだけのことである。

 

今ここに存在しているということに気づき、意識していること自体が、その絶対的な証拠である。

 

今一わからないというのは、人工的な価値観というマインドの影によって光を感じられないだけだ。

 

生きているだけで、この宇宙にいるという気付きだけで、それがどんなに奇跡的なことであるのかということに<気づける>はずである。 

 

それだけでOK・・、

 

それは、<あるがまま>という言葉で象徴されるものである。

 

今すでに在るにもかかわらず、それを誰かに、何かに求める必要があるのか?

 

いいや、ありはしないのだ。

 

ただ行うべきは、

 

それぞれのこころの中にある、いつからか、誰から受け継いだかわからぬような、虚妄の観念を・・、心の癖を・・、恐怖のパターンを、

 

自分で掃除することなのだ。

 

その為には、自らのこころ模様に常に気付いている必要がある。

 

自らのこころ模様自体に、自ら気づける<あなた>自身に移行することで、

 

あなたはもう、こころ、マインド、そしてその顕現パターンの1つである肉体自体も、明らかに自分の顕現様式にすぎないことを理解できるのだ。

 

どこかに行かずとも、何かを獲得しなくても、何かに成りあがらなくてもよい。

 

それぞれの<わたし>達の、言わば、親とも言える・・このすでに現われている無限の存在世界そのもの、それに調和し、それを学び、そこで遊ぶこことの楽しさを思い出すことが求められる時に至ったのだ。

 

本来は、様々な次元、階層を含む仮想現実世界の中における、この1つの世界も、まさに自由自在に創造を楽しむための魂達の遊び場なのである。

 

あなたも私たちも、まさに<無限>から生じたところの表現形であり、また無限自体をその根源としている<それ>である。

 

こころに捉われず、こころに翻弄されず、この世界で何があってもそれを得がたい体験として自らの意識を拡大することが、言わば神なるものの創った<遊び>といえるだろう。

 

日常的であろうと、世間の中であろうと、世界的なものであろうと変わりはしない。

 

全てはこころで作りあげるところのバーチャルなリアリティ、仮想現実なのだ。

 

変えるべきは他人のこころでも、社会の機構でもなく、

 

自分のこころなのである。

 

 

諸業無常・・常無き世界であるからこそ、

 

今、ここにもどこにも、常に創造と遊びの嬉し・楽しの瞬間があるのだ。

 

それを見えなくさせている、身に付着したマインド、こころの曇り、汚れを・・・もう潔く落とそうか。 

 

宇宙、あるいは存在諸世界を通じてダイナミックに変化し続けるサイクル、リズムは、いまはもうその時であることを告げていることも事実なのだ。

 

まさに、大いなる変化のときである。

 

 

 Photo

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。