気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

全ては兄弟・姉妹であるということ

2012-04-29 09:27:39 | 直感真知

「人間とは何か?」は、もっとも本質的な問いかけであると言えるだろう。

 

そして「あなたとは何か?」という問いかけも、また本質的に重要な問いかけであろう。

 

人間とは、

 

まさに 「自問自答とも言えるその問いかけの出来る存在」 ということが1つの答えなのである。

 

言わば他者に、そして自分自身に<意識的>になることがその特徴の意識生命体である・・とも言えるだろう。

 

二足歩行の知的生物・・というイメージ・カテゴライズは、人間という外見のほんの1側面に、人々の意識を固定するような作為的想念のことであると言われても仕方がない。

 

我(われ)という自己意識、あるいは自己認識の深化、拡大を「意識的進化」というならば、我々すなわち他の人間達も含む、その集合せる人間社会とは、

 

我(われ)という自己認識を進化させるための、無数の鏡、あるいは参照点であるとも言えるのである。

 

それはすなわち、人間関係というものを通じて進化する知性の働きなのだ。

 

あるいは一時はその中でもみくちゃにされながら、

 

あるいは一時はその中で孤独を味わいながらも、

 

あるいは一時は押さえつけられるような体験をしながらも、

 

それを通じてこそ、自らが何者であるかということを、

 

身を持って知ってゆくことが出来る、言わば無限の<鏡>の配置された仕組みとも言えるものである。

 

ここでいう仕組みとは、それは人知、加工知からのものでなく、

 

気付かぬだけで、既にあった、常在の法則であると言えるだろう。

 

普遍的法則であり、言葉を変えれば真理の道であり、また天の知、大自然、宇宙の法則というべきあり方である。

 

こころを広くもってこれを観るならば、

 

人間達とは、社会とは、お互いを理解し合い、その気付き、意識をより深くより広く切磋し琢磨してゆく仕組みであることが理解できるだろう。

 

それこそが本来の、人間達の集合、あるいは有るべき集合意識と呼ばれるものであろうか。

  

例えば考えてみれば解るけれども、宇宙にたった1人の世界では、どんな刺激も反省も、後悔も、自慢も、落胆も、嬉しさも起きようはずがない。

 

不満が無ければそれに相対する満足もなく、恐れも無ければそれに相対する安心もないはずである。

 

嫌悪が無ければ、好きもあり得ず、

 

大きさが無ければ、小ささもあり得ず、

 

辛さが無ければ安堵もあり得ない。

 

そのような、ある意味で2極性ともいえる、相対的な光の陰影を学ぶことが出来る世界として、今こここの地球という生命圏があったと考えても良いだろう。

 

我々は、大きく言えば地球に転生を繰り返した意識達は、制限された感のある時間と空間の中で、

 

右に行き、左に戻り、

 

あちらにぶつかり、こちらに反発され、

 

落胆の極みに涙も枯れ、

 

歓喜の極みにほとばしる涙があふれる、

 

上に登りつめた時、そして下に落ち込んだあの時・・、

 

・・・そのような2極性とも言える狭間で、辛抱強く体験と知的集約を成し遂げてきたのである。

 

あなたもまたそうではないか。

 

人間が、身体をともなう体験と、その知的集約を生み出す元にあるのが<魂>と言われるものなのだ。

 

体験を通じて大いなる知性につながる、言わば進化の大道を歩いている「本質」たるあなたやわたしが、<魂>と呼ばれるものであり、

 

その時々の身体と、それを通じて体験を重ねることで得られる知性、そしてそれらを生じせしめる普遍的なソースともいえる「魂」あるいは「霊性」を兼ね備える者こそが、あなたであり、そして私達である。

 

人間とは、

 

<身体>のみにあらず、

 

また<こころ>のみにあらず、

 

また<魂>のみにあらず、

 

それらを統括したところの極み無き一点、あるいは無限遠点をも、

 

軽く小さく容易に含んであるところの、一なるものの顕現である。

 

全体と部分、有限と無限が入れ子になった、フラクタルな構造は存在宇宙の普遍的な仕組みであろうか。

 

すなわち無限たる<全体>が、あらゆる<部分>に自らを畳込んでいる不可思議な仕組みに気付くことが出来るだろう。 

 

 

例えば人、それを宗教的、観念的に言うならば、

 

我々は皆、神の化身あるいは神の子ということになる。

 

そういうことにどこか、静かに謙虚に気付けるだろうか。

 

神とは完全無欠、静的な完成品などではなく、

 

常にダイナミックに変化し続ける、あるいは無限を展開し続ける、あるいは無限を知り続けることの、極みなき「嬉しさ」を味わう仕組みであるとも言えようか。

 

存在することの嬉しさが無ければ、どうして今・ここ・世界・宇宙があることだろうか。

 

おのれに目覚めた者、人間・・、

  

意識を有する<今>ここ・・の存在、

 

すなわち、いわゆるところの神の化身であるあなたや私たちが、

 

皆兄弟や姉妹であるという事実に気付いたならば、

 

誰がどうしようと、何をしようと、

 

愛や思いやりを持たないはずがないではないか。

 

世界が無限に展開しつつそこにあるのも、

 

ただ ひとつ と言うしかない、空(くう)たる無限があればこそであり、

 

またそれを一貫して、表出しているところの普遍的意識の主テーマは、思いやり と 愛 、そのものでしかないのだ。

 

人は皆気付く・気付かないに関わらず、

 

大いなる愛と思いやりの中に生かされている・・。

 

どの人が気付いていようが、誰が今がどうだろうと関係は無い。

 

それはまさに事実である。

・・・・

世間での、騒ぎまくることを良しとする者たちの醸し出す愚かで嘘に満ちた情報の類から、あなたのその意識眼を外してみようか。

 

太陽の暖かい光も、

 

頬をなでる心地よい風も、

 

時には荒れ狂う嵐であっても、

 

道に咲く小さな花や雑草たちも、

 

あなたの接する家族や愛想のない御近所の人々も、

 

どこか嫌々やっているかもしれない仕事の先の人々も、

 

毎朝顔を洗う水たちも、

 

毎日変わる空の雲たちも、

 

夕暮れ時の大空を行く鳥たちも、

 

たとえあなたに親切でなくても、

 

また、何も物言わず、何を語らずとも、

 

そこに一緒に同時に存在しているあなたの仲間であることを、

 

その身をもって示しているのだ。

 

それは無理やり思う類の、センチメンタルな感傷などではなく、

 

 

これが今・ここ・・の本質ではないだろうか。

 

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。