気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

実感が<現実>を創造する

2012-04-15 10:33:19 | 宇宙時代の考え方

●全ては大いなる意識の中に在る

現前に現われている宇宙は、一般に言う創造主、神、全ての根源・・による思考によって顕現していると考えて良いだろう。

 

なぜならば、存在世界全てにおいて、たとえそれが局所だろうと全体だろうと、意識~エネルギー~現象顕現で首尾一貫されているからだ。

 

どんなことでも、そこに何かの現われがあるということは、必ず意図・原因があるのはそれこそ常識なのではないだろうか。

 

例えば著作があれば作者がいる。映画があれば製作者がいる。アート作品があれば芸術家がいる。

 

人間社会での人為的な創造物であっても、それらは決して行き当たりばったりの偶然などではなく、その結果、現象、形はそれを現わす原因によって創られていると考えるのが自然である。

 

現象を起こすものは、現われた物ではなく、背後にある原因たる意図にあるということである。

 

あらゆるものには何がしかの意図されたものがあるのだ。

 

またその意図は現われた物に、その想い、思想・意図を<反映>していることも事実である。

 

我々の目にする、耳にする、味わう、感じること全ては、宇宙的<意識>によって顕現されたものだということなのだ。

 

我々の寝起きする世界、森羅万象、見はるかすこの次元宇宙の果ても、あるいは、自らの例えば手の中の細胞の、中の中、極微の素粒子の世界も、大いなる意図で創られているということだ。

 

我々は皆、その真っただ中にいるのである。

 

●大自然は征服でなく観察・習得すべきもの

 

その大いなる意図はあるいは意志は、結果である現象宇宙そのものに反映されているのであればこそ、

 

我々のなすべきことはまず、自分が今その一部であるところの自然界、宇宙を観察することで、その大いなる意志を感じとることであろう。

 

古代の民の多くが自然を尊崇し、そこから学んできたのが事実であり、それは何も機械文明等を作らなくても十分に霊的成長を遂げてきたのだ。

 

インカ、アステカ、マヤ、ケルト、チベット、南米奥地のシャーマン文化、古代エジプト、古代日本、・・等など無数に散見される文明の記憶等、現代文明では理解不能な文明・文化こそは、大なり小なり、物質顕現レベルを超えた範囲の霊的意識レベルにあったと考えられる。

 

現代はこの霊的と言われる意識レベルを度外視した極端な物質文明として、今その飽和点に達しているということである。

 

悠久の地球上での歴史において、精神の昇華を無視した物質文明は過去何度も地球上で核によって滅んできた。

 

もういいかげん、歪んだ信念から生じるところの、物質崇拝によって自らが自壊せざるを得なくなる皮肉に、気がつかなければならないのだ。

 

今はまさにいつものようなその瀬戸際にあるわけだが、自壊すべきは<偏った物質信仰>や<歪んだ観念>とその生成物のみである。

 

ここは勘違いしてはならないだろう。

 

何でもかんでも爆発して終わるような三流のアメリカ映画はごめんこうむる。

 

地球は未だかつて滅びたことはないし、滅びることはない。

 

地球は壊れて消えるような物質の塊などではなく、我々と同じく大いなる規模の正真正銘の意識体なのだ。

 

 

●霊的幼児の成長の時至る

  

宇宙におけるその原因あるいはソースのことを、根源、神、一なるものと言ってきたのだが、いつの間にか人間の恐れと希望の観念で作りあげた神なる者が支配者として畏怖され、またあがめられてきたようである。

 

宗教というのも観念体系にすぎす、その観念体系同士で衝突している有様の中には神などはいるはずもない。

 

子供でも理解できることであろうが、如何せんそれを理解できないトラブルばかりを作りだす大人のことを、霊的幼児といっても言い過ぎではない。

 

確かに、自信満々ではあるが、実際何をやっているか・・わかっていない者たちのリードしてきた世界は、権威と富とバトルを象徴とする、極めて生きにくいものであったかもしれない。

 

あるいはまた、そのような世界にやってきた人類そのものは、考えてみれば相当に勇気や雄々しさを持っているとも言えるだろう。

 

まさに愛すべきは地球人類なのである。

 

あなたもわたし達も本当に、よくここにやってきたものである。

 

・・・

 

●3次元的制約は架空の自我・エゴを生み出す

 

例えば、物質粒子が勝手に離散・重合を繰り返して偶然に生命を生み出すというような唯物的思考は、極めて皮相的な観念でしかないことがわかるだろう。

 

そのような物質顕現レベルのみに自己の意識を集中させていることにより、自らが3次元的制約が当然の有機的物質で創られた動物のように思いこんできたのである。

 

信じ込んでいる世界のあり方は「信念体系」とよばれるのだが、この地球表面にある文明そのものも、3次元的制約をその旨とする?信念体系にすぎなかったのである。

 

さらにこの世界は、動物・植物の間のサバイバル、すなわち食物連鎖等のイメージ、食うか食われるかという弱肉強食という架空の観念を信条にするような、個体生命の生き残りがその主なるテーマとする文明となっていたようである。

 

個体生命を生き抜くための個々バラバラの自己主張、すなわち「エゴ」がはびこってしまったとも言えるだろうか。

 

確かに、あなたやわたし達も気付いているように、社会、国家、人間関係はそのほとんどが、それぞれの「エゴ」の調整に明け暮れているのではないだろうか。

 

●意識レベルの上昇では、我良しのエゴは消え去る運命にある

 

我々の世界はエゴ的共通現実の世界といっても良いかもしれないが、そのエゴ的観念による文明自体が、そのエゴ体同士の軋轢によって自壊する段階にある。

 

なぜならば、人類の意識レベル、即ち想いの質的向上が進んでいるからである。質的向上、宇宙における大いなる意識に気付き始めてきたということである。

 

人類集合意識は、今までのようなエゴの生存が目的ではなくなり、お互いさま・・・極めて簡単に言うならば、自他一体の意識レベルに、より広く高い見識レベルに、上昇を始めている。

 

その先にある世界は、バトルや競争など全く意味がなく、共感と共生が基準となることだろう。

 

エゴ体同士の競り合いで獲得できたのは、勝ったと言われる側だけの、肉体の安楽さと便利さや物質的享楽であることが、ことここに及んで誰の目にも明らかなってきたからなのだ。

 

その反面、バトルや競争に負けたと言われる者たちは、戦乱と貧困と分裂にこれでもかというほど苦しんできた。

 

まったくもって、おバカなゲームではないか。

 

●古いゲームは既に終わっている

 

ある意味で、形ばかりの栄光と、その嘘の栄光の影の悲惨さを作りあげる、モノポリーのような物質獲得競争ゲームは飽きられ捨てられたのだ。

 

ゲームオーバーである。

 

そういう生き残りだけが目的の、エゴ的文明の自壊作用を感じている人々も多く、その人々が感じているのは、世界が終るとか、一大天変地異によって滅ぶとか・・そういう恐怖の入り混じった直感であるかのようだ。

 

しかしこころすべきことは、確実に自壊するのは虚構の楼閣すなわち人類のエゴなのであって、いつもその母屋を黙って差出し、子供らを慈しみながらその遊ぶ場を提供してきた母なる地球ではない。

 

●自縄自縛の観念の檻を壊せ

 

外の世界のエゴの崩壊・自壊に一喜一憂している余裕はありはしないだろう。

 

あなたの問題はあなたの問題であって、外の誰かではないし、

 

わたしの問題はわたしの問題であって、外の誰かではないのだ。

 

 

人々の為すべき、あるいは為さねばならないことは、

 

自身にあるエゴの浄化なのである。

 

エゴ体同士のバトルゲームは終わったのだ。

 

今は、各自の知らず知らず作りあげてきた、自己存続ゲーム用の<自我キャラ>であるエゴを浄化する時なのである。

 

恐怖、執着、依存、制限、・・・それらの自身を縛ってきた観念、あるいは他者のせいにしてきたそれらの自己制限という檻を、自らでぶち壊すのだ。

 

それらが実際何であったかを確認するためには、自らのマインドを観てとることが絶対的に必要なことなのだ。

 

●実感(認識)こそが現実を創造する

 

それぞれのわたし達が生きる世界は、それぞれのわたし達が、それこそ真実であると認識していることが<投影>される世界なのである。

 

まず、外ではなく内にある、エゴ体を映し出すこころのパターンに気付くことが喫緊の課題なのだ。

 

内なる原因が変われば、外への写しが変わる。

 

そういう意識的存在達が増えるほど、共通現実としての世界が変わってゆくのである。

 

因果を逆転しては楽しい遊びにもなりはしない。

 

人は皆、それぞれの想念、マインドを出来るだけ観察することが必要である。

 

そうすればどういう想いや感情が、何がどうやって内面から湧き出してくるのかがわかるはずである。

 

またそれらの想いや感情で、表現や行動をしている自らの有様も見えてくるだろう。

 

想いや感情、あるいはそれらを実感する意識的認識作用自体があらゆる諸状態を引き寄せ、あるいは同調して顕在化してゆく。

 

例えば幸せを実感したければ、どこか誰か、どこか外に求めずに、

 

今ここで<実感>することによって、それに準拠しあるいは投影されたところのあなたの感ずる幸せが、反響して現われるのが実際の仕組みである。

 

実感が先に在り、外の結果はそれを確認するためだけのことである。

 

外に求めるがゆえに、いつまでたっても現われて来ないのは、まさに法則なのだ。

 

人が<こころ>を入れ替えれば、周りの世界が入れ替わる。

 

ただ、入れ替えのプロセスの遅延や時間経過を焦ってはならない。

 

それはすぐに出るとかでないとかは、全て「こころの入れ替えプロセス」にすぎないからだ。

 

前回の記事のようなスプーン曲げのようなことを取ってみても、同じ法則が働いていることに気づけるだろうか。

 

それが出来ると信じている、あるいは実感している純粋無垢な少年少女たちにとっては、「曲れ」という意図がすぐに現われてくるのは当り前のことである。

  

求めよさらば与えられん・・という意味を外にという意味に誤解してはならないだろう。

 

何事も灯台元、暗しなのだ。

 

そういう、人の世界の因たるところの想いや感情を観ることが出来るならば、その当該原因を観ることによって、その人は想いや感情で出来ていた束縛観念の次元牢から解放されることになる。

 

人間のこころ、マインドは、人間が無意識にあごで使われるべきものではなく、本来は透明でありながらも、時によってそこに思い描き実感することによって働くところの創造のツールなのである。

 

マインドの浄化とは、その働きを観る認識レベルに至ることである。

 

自らのマインド、こころ、思考を観ることが出来るならば、

 

同じく宇宙、森羅万象を現わすところの、神なるもののこころにも共感することになる。 

 

その先にあるのは、まさに宇宙本然の 「あるがまま」なのではないだろうか。 

 

変化表現しつづける宇宙、森羅万象は「あるがまま」であり、またそれらは全て無限大、特大の知性と愛によっていることがわかるかもしれない。

 

常日頃の周りの当り前生活の中にも、根源から放射されている無限の顕れを感じて、心底感謝が出来るかもしれない。

 

騒ぎまくってきたマインドを静めることが出来るならば、意識はこころのフィルターを通り越して見ることが可能になり、本来あるあるがままの自然、あるいは、様々な命の輝きを発見することが出来るだろう。

 

その世界はまた格別のものでありながら、すでに今までにもこの世界に重なって存在していたのである。

  

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。