以下は、「ただそれだけ」セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え、からの抜粋である。
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質問者:
「私は存在しない」という事実を受け入れられるかどうか、こころもとないのですが。
ボブ:
誰も存在していないものについては何も言えません。あなたは存在そのものです。
この世にはただひとつの存在、ただひとつのパワー、ただひとつの知性があるだけです。
あなたは、いわゆる「自分」というそのちっぽけなパターン、その成り立ちから考えても無に等しいものの中に、みずからを閉じ込めてきましたが、
今度は心の中でその問題を解決しようとしています。
「自分は存在しない」という事実をけっして受け入れることはできません。
ニサルガダッタが言うように、「あなたは観念でそれをつかまえようとしてーーーーそして失敗する。 必ず失敗することになっている」のです。
つまり、頭でつかまえようとしている限り、必ず失敗する、ということです。
では、今、何も考えず、完全に停止してみてください。
どうでしょう?
何らかの観念が進行していますか?
考えることをやめたら、見る働きは止まりましたか?
聞く働きは止まりましたか?
気付く働きは止まりましたか?
観念なく、思考なく、別の思考が起こる前の瞬間、あなたは自分が存在そのものであることを理解します。ーーー
あなたは生きていることそのもの、在ることそのものです。
これはあえて受け入れなければならないようなことではありません。
受け入れるには、また別の観念が必要になってきます。
思考が起こる前にあるものーーーーそれはただあるがままです。
何の飾りもない、裸のきづき、いかなる観念によっても飾られていないもの。
ある詩に語られているように、
「それはあなたの手足よりも、息よりも近くに」あるのです。
あなたはけっしてそれから離れたことがありません。そんなことは不可能です。
・・・・・・
なるほど、我々は海にいて、水を求める魚のようなものかもしれない。
元々それによって生き、それによって笑い、それによって泣き、それによって呼吸をしているにも拘らず、それに気付いていない有様のことだ。
思考という様々な湧いては消える観念を真実であると誤解し、あるいは自分がちっぽけな物的存在であるという思いこみによって、
自らで苦しんでいるということであるが・・、人はこの皮肉に気付けるだろうか?
あるいは、常に先に先に投影するところの、より良き未来という観念に追いすがり、
今という瞬間を逃し続ける愚かさに気づけるだろうか?
現状が不満で不幸であるからこそ、幸せに満ちた未来に夢をつなぐということの、至極もっともらしい<嘘>の観念を自らで見破らなければならないのだ。
何処かに行けば幸せになるのだろうか?
幸いの里は、山のあなたの空遠く、あるいは宇宙のどこかの星にあるのか?
何かを考えだせば、こころの曇りはなくなるのだろうか?
お金が出来たら幸せを感じることができると考えているのだろうか?
世界が改善された後にだけ、あなたは安心して生活が出来ると考えているのだろうか。
・・・・
それはまさに条件づけされた自分、・・・自分の「こころ」に翻弄されているということを知らねばならない。
例えば、いわゆるスピリチュアルな知識を仕入れただけでは、マインドが広がっているように見えるだけで、やはり観念、思考の枠に閉じ込められたままであることを知らねばならない。
物質的であろうが霊的であろうが、そのような作り物に翻弄されてしまうところの、
自らのこころのパターンを見ようか。
どんなものであれ、いわゆるこころの歪んだパターンを自らで清める方向に歩まなければ、
本来ある素の輝き、あるがままの大自然、
あなたやわたしが生かされてあることを通じて発見出来るところの、
あらゆる全体の愛、あるいは思いやり、あるいは慈愛を感じることは出来ないかもしれない。
何が無くても、有っても・・・・ただそれだけで十分幸せであるように、この宇宙この世界は創られている。
それでは面白くないという、それをそうでないと、意地を張っている、
何かを無理やり作りあげようとしている健気な<個人我>は、
大勢の人の無意識ながら合意された想念、こころのパターンで創り上げられたものである。
大いなる無限、あるいは空(くう)という全体から投影された、無数の右往左往する個々人という影法師を見ている者はなんであろうか?
それを言うならば、
無数に分化した私達をみている・・・おおいなる<ひとつ>なのだ。
それはまた全体であり、空であり、無限そのものである。
それが我々の身体、こころ、魂として、また身の回りの世界として既に現われている。
我々は皆、ここに生きて存在している・・ことを感じているはずではないか。
我々の個我のこころ、マインドを静めることで、色眼鏡なき景色が現われるだろう。
人生における修行とはそういうことではないのか。
個々の創造とは、エゴで勝手に造り出すようなたぐいのものではなく、
す・で・に・在・る・その<無限>の奏でるハーモニーに合わせることだ。
そのためにこそ、個我の立ち騒ぐ幼きこころ、マインドを観る必要がある。
観ることは即ち客観化であり、それらの意識的調律を意味する。
実に、多くの我々にある・・どこかの不幸感は、マインドの騒ぎのことである。
マインド、こころをいつまでも騒がせておくことに意義はないだろう。
人々は、誰の行為やこころを見て、不安がり、安心し、嫌悪し、さばいているのか?
我々の観るべきものは、我々の原点たる、我々の其々の・・常に騒いでるところの、マインド、こころ、造られた観念のほうなのだ。
目に見えるところの他者の観察とジャッジから、
意識でしか観えないところの、自己の観察と理解へと進むべきときではないだろうか。
常にそこに、ここにあったこと、
それは、どんな条件もなく、いつでもどこでも出来ることなのだ。
それこそが大自然、宇宙との調和を意味するのではないだろうか。
全ては今、この瞬間に在り、過去や未来も、「今」にある。
誰も皆、すでに気付いていることなのだ。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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