気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

思考という波動

2012-04-10 07:57:08 | 宇宙時代の考え方

思考は眼に見えないが人の肉体よりも身近にある感じがするだろうか。

 

身近というと距離を連想するので適当ではないのだが、要は最も人の存在中枢にあるものということが出来るのだ。

 

しかし、思考、想念、想いは頭の中の頭脳細胞で出来るものではない。

 

それはあたかも多くの人が使っている携帯電話やI-Phone などと同じく、身体以外の次元からの波動を感受しているということだ。

 

すなわち頭脳は送受信機のようなものということである。

 

受信する内容そのものは、あなたやわたし達のこころのパターンに共鳴するものがやってくるということである。

 

科学的な仕組みから言えば、それはまったくラジオやTVなどと原理的には同じということであるが、そのベースとなる波動は当然ながら電波ではなく、今の人類には発見、認識されていない波動である。

 

しかしながらラジオやTVの原理を知っているエンジニアや科学者ならずとも、すでにそれを使用しているのが、我々ということである。

 

ただそれが明確に認識されていない所にこそ問題が生じるのである。

 

こころを浄化する、こころを調律する、こころを静める等という古来からの教えは、それ相当の意味があってこそなのだ。

 

あるいはそのこころの動きを観察するということにも、大きな意味があってこそなのだ。

 

なぜならば、こころがその受信する内容を決めているからであり、すなわち思考という意識の波紋は、それが、受信される想念の呼び水にもなり、またそれは同時に想念としての発信にもなるからである。

 

簡単に言えば、思考とは自らが受発信する想念の動きであり、その想念はこの物理的時空を超えた次元の波動によって、3次元的な認識レベルにあるものにとっては、それは実に瞬時に伝搬するからである。

 

瞬時というのは時間=0、という意味ではなく、我々が過去や未来といっている時間軸を超えて働くという意味でもある。

 

想念が携帯電話等と同じく伝搬し、送・受信されているということに気付ければ、如何にその同調機能である<こころ>が重要であるかがわかろうというものではないか。

 

世間の尤もらしい非常識は、すでに存在している人間の意識の無限の可能性から眼をそむけ、低く重い観念の世界に安住するための、ある意味での時空的重りを形成しているのだ。

 

その重たい観念の世界が、第3密度だとか、3次元的制限の世界だとか言われているわけである。

 

また、意識は情報として瞬時にあらゆるところに既に伝わると同時に、情報を元に現象化というプロセスを起こす。

 

意識がエネルギーを通じて物質的現象化をするということであるにもかかわらず、その結果である物質顕現のみを後生大事にしている有様は、まるで幼児が与えられたおもちゃを必死になって守ろうとしているようではないか。

 

なぜなら、周りのみんながそうであるから・・という他者依存によって自らの意識の開眼を自ら妨げているからである。

 

意識が開けなければ、そこにパワーも湧出しないのは道理である。

 

・・・

今はなぜか記憶はあるが忘れ去られたようになっている感がある<スプーン曲げ>という話題があった。

 

ユリゲラーなる者が発端となって一大ブームにもなったが、誰か1人2人の少年がズルしたとのことで、いつの間にか全てが嘘だという風な群衆認識になったかもしれない。

 

曲れ・・とスプーンに念を込めることで、簡単にスプーンを曲げた当時の少年少女達も多くいるはずである。

 

少年少女は、未だ大人の世界に生きるためと称される重い先入観念が希薄であるが故にこそ、最初から出来ないなどと「信じ込んで」いないからこそ、その多くがスプーンを曲げてしまったのだ。

 

あるいはテレパシーと言われる意志疎通や印象の情報伝達も多少ながら皆経験しているはずであるが、それが全て偶然の産物であるかのような想いで打ち消すのが理性ある大人の態度であるかのごとき風潮が広まっている感もある。

 

いつの間にかそれらは邪道であるかのごとき観念が、メディアを通じて大人の世界にはびこってしまい、本来ある意識のパワーを押し込めざるを得なかったかもしれない。

 

ある意味では、このような念の力で様々なものが破壊されたり、ねじ曲がったりしたのでは、にっちもさっちも行かないことになるという危惧からのことであったかもしれない。

 

要は、そういう効果や力が人間の意識にあったとしても、それを使うだけのこころの清浄さや倫理がないということであったかもしれない。

 

しかしながら、事実は小説よりも奇なり・・であり、人為的な作為話・小説よりも事実こそが正道である。

 

見えるもの以外は存在しないという愚かな「観念」にどっぷりつかっていて、誰かが助けてくれるはずもない。

 

真実以外に、人間が真剣に相手にすべき何が有るというのか?

 

目覚めは必ずひとりひとりなのである。

今まで人類は少しづつ進歩しているはずだという常識、恐れや不安を正当化するような共通現実こそが、まさに夢の中のようなものであり、人間の雄々しき<夢>を創り上げてゆこうとする意識によってこそ、そのまだるい古い夢から目覚めることができるのだ。

 

人間は肉体存在ではなく、意識的存在であり、意識的存在であるからこそ、意識~エネルギー~物質顕現のパワーソースでもあり、またそれは宇宙全般にすでに現われている、変化し続けながらも顕現し続けている、創造という雄々しくも美しき、愛すべき物語に参入しているのである。

 

あなたはもう自分というものが真に何であるかの一端に気付いていることだろう。

  

 Sakura2

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。