人が、自らが存在している・・・と感じているそのリアルな感覚は、
まず五感によっているはずだ。
生きている、生存している、すなわち「私は在る」というリアリティは、
まず五感によって生じている。
それは肉体に装備されたセンサで取得している情報を「感じて」いるからともいえる。
あなたが見ている画面、マウス、文字は「視覚」からの波動情報であり、
腕や顔の皮膚感覚、座っているお尻や足の圧迫感は「触覚」情報であり、
お茶やコーヒーの香りは「臭覚」情報であり、
遠く聞こえる外の喧騒や家の中の会話や物音は「聴覚」情報であり、
口に入れたお菓子の味は、「味覚」情報である。
それらの情報は実際には、それぞれの形態での『波動』である。
つまりは、それらの波動を感じている・・・のが「わたし」であるいうことだ。
そういう、「わたしは在る・・・」というような感覚が毎日毎瞬続いている。
生きているということは、そのアイデンティティ感覚のようなものによって生じている実感ともいえる。
・・・
光、電磁波の狭い周波数帯域と同調し、知覚として認識するのが視覚であり、
空気の振動の一定の周波数帯域と同調し知覚として認識するのが聴覚である。
身体の細胞、分子と、身体以外の細胞、分子等の振動の違いを認識する身体表面上の知覚機能が触覚であり、同じく味覚や臭覚とも言えるだろう。
そして、それらの波動情報を伝達している神経系統、情報処理の中枢としての脳がある。
また身体機構そのものを維持するところの、骨や五臓六腑、筋肉などが網羅されている。
大勢の人々が、自分であると想っている?肉体・・それは大ざっぱに言えば上記のようなものだろうか。
そういう有機的な組織の集まりを『肉体』と言って良いだろう。
1つ1つの肉体、それらが1人1人の人間であり、
あなたもその中の1つ、1個人と教えられてきたことだろう。
1つ1つの肉体の1つが、「あなた」という個人である・・というふうに。
すなわち、実感としては・・肉体=自分であると想っているだろうか。
そして、あなたもその肉体でしかない・・と漠然と思っている・・のだろうか。
それは、<わたし=肉体> という風に思っているということではないか・・ということだ。
あなたはどうだろうか?
・・・・
「わたしとは何か?」・・とマジに考えてみよう。
わたし=肉体・・・なのだろうか?・・と。
・・・
実は、非常に簡単な論理では、実はそうではないことがわかるかもしれない。
わたしが=肉体である・・というからには、
わたしは肉体の全てを知っているはずである。
なぜなら=という等式を限定、断定するためには、
そのものの本質を全て知っていなければならないだろう。
わたしは、肉体の数十兆個と言われる細胞の全てを知っているだろうか?
肉体、それそのものを全て「わたし」として、知っているのだろうか?
血液、神経の流れをあなたはリアルタイムで知っているだろうか?
食物の消化過程や胃腸の動き、働き、栄養素の昇華や物質転換、・・
考えてみればミクロと言えども無限ともいえる諸反応を追跡できるだろうか。
・・・・
いいや、
「わたし」とは何か?・・・と問いかける、わたしの「意識」は、
肉体のことは、ほとんどといって良いほど「知らない」のである。
そう、
肉体の事はほとんど何も知らないのにもかかわらず、
わたし=肉体・・・といつの間にか漠然と定義しているのだ。
<わたし>とはなにか?・・・という<わたし>のことも知らず、
「肉体」のこともほとんど知らない・・にもかかわらず、
いつの間にか、わたし=肉体・・・という漠然とした定義的観念があるのではないか?
あなたが仮に、所詮 「自分は肉体でしかない」 と自分をみていたということは、
何も知らないものに対して、不可思議にも勝手に定義をしていたということなのだ。
A=B である。 (ただしA=不明、B=不明)
そんな等式を、いままで漠然と信じていたのだといっても嘘にはならない。
大勢の人がそう想っていようと、そうでなかろうと、
ほとんど何も知らないものを定義など出来るわけもない。
これは論理的な方面から、明確に言える結論である。
「わたし=肉体である・・・」 とは決して言えないのだ。
なんだが騙されているようで、またシンプル過ぎて、あいかわらず通り越してしまいそうであるが、
ごく普通の考え方、科学的、論理的に今言えることは、
あなた=肉体である・・・とは決して言えないということだ。
したがって、
わたしは何か?
あなたは何か?
という解として、それは=肉体である・・・<=>は明らかに間違っている。
肉体は主に不随意に機能し、働いているものであり、わたしという意識によらず信じられないほど高度に有機化された知性を有するものであるということは出来るが、
それは=あなた、=わたし・・であるということは出来ない。
肉体というものを有する人間としてはここにあると感じているとしても、
肝心な「わたし」・・は、肉体ではないというのが妥当な見解なのである。
そう、
問いかけている当の<わたし>は肉体ではないといえるのだ。
臨死体験や体脱体験等をした人々は、直接的にそれを知っているけれども、今までの時代、それを単なる夢として片づける場合が多いのは、
実際の自分のことを何も知らされないで、
あるいは知ろうとしないでいる人々の中で生きている必要性を感じてきたからだ。
しかしながら、
問題なのは、知っているほうではなく、
知らない人々の方である。
お金で情報を買えば真実が得られるのでは・・という虚妄の観念
権威が全て知っているはずだし教えてくれるはずだという・・他者依存の観念、
大勢の人が言うことは正しいはず・・という思いこみ、
様々な思いこみ、刷り込み観念、常識観念、
そして、「わたしは肉体でしかない」という、
実のところは誰も保証も証明もできない観念を、
どこかで信じていた・・・<わたし>に気づく時である。
不特定他者のことをどうのこうのと言ったりする前に
それぞれの<わたし>について調べることこそが喫緊の課題なのだ。
それぞれの・・・わたし・・とは一体何であるのか。
(つづく)
本日も、拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。