解脱(げだつ)とは、文字通り 「解(ほど)けて 脱している」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。
・・・
それは、
偉い禅宗の坊さんだとかの専売特許でもなく、何か難しげな精神修行を通り、盤石不動の静謐の境地に「至る」ということでもない。
聖人のように必死で他者への奉仕「活動」をしなければ得られない精神状態ということでもなく、
その能力の無限性を垣間見せるような、霊能力者、超能力者に修練して「なる」ことでもない。
そのように何か達成しなければならないという考えすらも、いわゆる刷り込みであるが、それに気づくのはなかなか難しいかもしれない。
人はある意味で既に解脱をしている存在なのである。
そう・・・、そんなことを言えば反発を招くにきまっているだろう。
あなたはどうだろうか?
例えば、これをご覧のあなたは、
「大それたこと、絵空事もほどほどにしたほうがいい。私はそんな悟ったような者ではなく、解脱など考えたことも無い」
・・・それが当り前のように、そう言うに決まっているかもしれない。
最初から決めつける・・そういう『観念』自体が、自らが何であるかを観る目を曇らせているのだ。
解脱(げだつ)とは、文字通り 「解(ほど)けて 脱している」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。
言葉を変えれば、今の「あなた」そのものでありながら、常識とされる数々の妄の観念に束縛されていない・・・、素の在り方というほうがわかり易いだろうか。
あるいは人として本来自然の在り方、と言えばもっとシンプルだろうか。
本来自然のあり方とは、実のところあなたやわたし達、そのものなのだが、
そう想っていないところが唯一の障害物である。
なるほど、
人にとっては、それがどういうことなのか不明であり、また自分がそういう自由な存在であることに違和感を持って、それを拒否しているのかもしれない。
ある意味で、本当の自分を観ようとしない在り方によってこそ、人はいつも不安や不満や怖れを感じているにもかかわらず、なぜかそれを後生大事に保持しているようである。
なぜなら、皆もそうではないか・・・という想いがあるからだろう。
大勢の人々を集め、おバカなこと、そしてそれが面白いことだと、・・・それが当り前だというような誘導は毎日のようにメディアでも、ある意味で必死になされているようでもある。
・・・
本来自然のあり方?
それが人の本来の素の有り方?・・だとしても、それではこの世界で生きていけないのではないか・・。・・とか、
それは世捨て人なのか・・とか。
解脱、あるいは・・悟り、そんな大それたこと・・・出来るはずがない・・とか。
なになに・・これ以上何かをしなければならないのか・・とか。
すぐに心が拒絶反応を起こすことに気づいているだろうか?
言葉の表現は別にして、「わたし」がすでに「解脱」・・・している?って。
あり得ない・・・。 とも感じるかもしれない。
しかし、
その常識的な主張は本当に正しいかどうか、出来得るだけの努力を尽くして確かめるべきではないだろうか。
結構、このことはそれぞれにとって最も重大なテーマではないのか。
解脱、あるいは自由な、あるいは本来の患いや捉われのない在り方とは、
それこそ、達成するとか、出来るとか、成るとか・・・ではなく、
曇りなき 「事実」 なのだ。
それを称して、古臭い言葉ではあるが、すでに解脱している存在と言っている。
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我々は、様々な人間の作り上げる観念をいつの間にか信念として採用しており、
その繰り返された思考すなわち観念、あるいは大勢が認める価値観等を正しいものとしているだろう。
大勢が言うこと、考えることは、民主主義上?正しいものとする漠然とした観念に騙されているかもしれないのだ。
それが刷り込みとも洗脳とも言うものだろう。
それを行う誰か悪者を担ぎ出すとすれば、・・洗脳されている・・という受け身表現になる。
しかしながら、原因となっている悪い誰かを探す必要はなく、
様々な観念、思考を、<鵜呑み>にして、そのことで<鵜に>なっている 自らの有様を観ること、そしてそれに気づくことが その必要な全てなのだ。
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それに、多分、大勢の人の全ての元に在るものは、
自分が「肉体」であるという漠然とした観念であろう。
また、肉体を維持することは、俗に「飯を食う」といって表現してもいいだろうか。
生きていくことは肉体を維持し、生活を物質的に向上させることであり、当面はそれ以上でもそれ以下でもないという考え方でもある。
自分は「食う」ためにこそ、一所懸命に生きているという考え方である。
それ自体当り前であるし、一所懸命は美徳でもある。
しかし、必死になって生きるという刷り込みに気づけるだろうか。
頑張って人の上を行かなければどうしようもないという競争心ともいえる。
闘争、競争・・・生き残り。
それはまさに、ダーウインの種の起源から持ってきて吹聴されている「生存競争」「自然淘汰」なのだろう。
自然界は生存競争で進化している・・という尤もらしい主張である。
しかしながら、どこの自然界に普遍的なバトル・闘争・競争があるのだろうか。
あるいは少なくとも、
同一種のなかにおいて同一種どうしが争い、合い食まなければならない仕組がどこにあるのだろうか。
少なくとも、同一種は助け合っているではないか。
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人間の発明した競争は楽しいゲームであるが、それによってどういう進化が可能なのか?
一等、二等を決めてどういう種の進化があるのか?
そんなことは嘘に決まっているだろう。
大勢が競争し、あるいは闘争し、それによって生き残った者は決して進化した者ではなく、進化の袋小路で行き詰まり、取りあえずの財を集めて悦に入っているだけの者たちではないのか。
そういうゲームで得られる物質的繁栄を、もっともっとと貯めこむのが、それが経済の粋とでも言うのだろうか。
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今、確実に自己崩壊を遂げつつある、主義の最終系である「資本主義」は、競争による付加価値をもとにした利潤追求をその信条にしており、
我々の生活は、否応なく、大なり小なり、気づく気付かないにかかわらず、その世界的観念の流れの中にいたのだ。
それが嵩じて、それを維持するための生存競争になり、少なくとも自分にとってより良き生存状態を獲得するための富や地位、名誉を求める者も出てくる。
食うための仕事でライバルが蹴落とされれば、どこかほくそ笑むこころが出るし、
食うためには、多少の悪でも見逃したほうが保身にとって良いし、
食うためには、自然が破壊されていても当面は仕方が無いし、
食うためには、権威という長いものにまかれるのも処世の方便だと思うし、
食うためには、末代まで禍根と害毒を残し続ける原発もしかたがないと考えるものもいるし、
食うためには、合法的に、誰にも解らぬ形で庶民のなけなしの蓄財を簒奪してもしかたがないと、嘘八百を堂々と話す者もでる。
さらには、食うために、武器を造り、武器を使い、武器で罪もない大勢の人間を殺して、シャーシャーとしているどこかのお偉い国の病人たちも出る。
権威や富や知名度を求めて這い上がる者たちは、その這い上がる過程で人々の無知を利用することを知ってしまい、それを扇動利用することに気づいた者たちでもある。
しかしながら、
それらが今は大なり小なりバレバレの時代になった。
つまりはそのような仕組みは卒業ということである。
古い観念を固辞し、大いなる変化に耐得られない人々にとって、
それは、恐れ、慌てることになるかもしれない。
恐慌というのはなるほどよくできた言葉ではないか。
要は、今までの物質偏重時代、
その様な世界を成してきた人々の元には、・・自らの肉体を維持したい、生存環境を豊かにしたい、財で盤石不動にしたいという『強迫観念』があるということだ。
物質繁栄、物質的力の誇示、契約に基づく財の簒奪、富を造るための大勢の人間を使役することで得られる個人的利益の獲得・・・、
そのずーっと下った根元にあるのは、
私たちは肉体でしかない・・という観念であり、
物質的肉体を維持し、出来るだけ安寧に保ち、可能な限り快適に保ちたい・・、
その為には潤沢物質に囲まれていなければならないという「脅迫観念」である。
余計なのは・・その想いの集合、すなわち集合意識的な「強迫観念」である。
違うだろうか?
我々はそういう、
人と人がバラバラで競争し、あまつさえ闘争し、その延長である戦争や簒奪を仕方が無い行為と思わされ、その為の嘘の流布、宣伝洗脳の嘘八百、八千?が横行しているような、
そんな驚くべき虚飾の世界の坩堝(るつぼ)の中に甘んじていたのではないだろうか?
これはある意味ではすごいことではあるが、何度も繰り返すものでもない。
本当に、<わたし=肉体>なのだろうか。
もしそうでなければ、<わたし>である「か弱い肉体」を維持するためと称して行われる競争、闘争、そして戦争、あるいは私腹を肥やすために強いる他者の搾取・・、
それら全ては本当に色あせることだろう。
なぜなら、<わたし>ではないものを、<わたし>は必死に、その人生での全精力を上げて確保しようとしていたという愚かさが、否応なくわかってしまうからだ。
体はこの世界での借り物・・・という言葉は、決してセンチメンタルな例えでは無く、
まごうことなく事実であることを知った場合には、
自然の中の生成物、組織である肉体は、そのままで生かされているのが一番良いということに気づくはずだ。
そのまま、あるがままを、そうでない特殊な状態にもってゆかねばならないという「強迫観念」は、謂わば後付けの余計なプログラムのようなものであることがわかるだろう。
そのような余計な観念をばっさり捨てることが、
解脱という、あるがままへの帰還作業である。
マインド、こころで作り上げた虚飾の楼閣は、やはりマインド・こころで壊さなければならないだろう。
しかしながら、
実はそれが怖い感じている者がいる。
怖いと想っている者、それを肉体自我、個我、エゴ・・・と言っている。
後付けで造られた観念でがんじがらめになった<わたし>の影法師、
それを個我、肉体自我、あるいはエゴ体ともいう。
それはまさに、わたしは肉体である・・という
いわゆる3次元的な世界ならではの刷り込み観念という、こころの歪んだパターンのことなのだ。
それは、それぞれの<わたし>が、今までの世界で観念とその記憶作り上げて来た「私」という、
刹那の影法師のことである。
映し出される肉体自我・・個々の「私」という観念の投影物、影法師・・
それを観ている<わたし>は一体何なんだろうか?
同じく、それを観ている<あなた>は一体何なんだろうか?
(つづく)
本日も拙い記事をご覧頂きまして誠に有難うございました。