気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

解脱(2) 在るがままへの帰還 

2012-01-20 08:03:56 | 宇宙時代の考え方

解脱(げだつ)とは、文字通り 「解(ほど)けて 脱する」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。

 

何物にもとらわれない在り方・・・あるいは素直な生き方、

 

歪んだ様々な観念から自由・自在な存在、

 

あるがままで、感受性豊かに、好奇心いっぱいで生きている在り方・・と言ってもいいだろう。

 

自由自在で明朗闊達で、こころの澄んだ在り方・・とも言えるだろうか。

 

それはまるで誰にも例外なくあった、無邪気で天真爛漫な幼い時の在り方のようである。 

 

・・・・

あるいは、体や心・マインドを、単にその一部として含む永遠不滅の魂としての自分を知っている在り方・・とも言えるだろうか。

 

永遠不滅の魂とは、まさに無限であり、また空(くう)そのものである「それ」の、1つの表現である「わたし」を識(し)っている在り方・・である。

 

幼子は大人の世界のマガごとは知らずとも、

 

そのことを識(し)っていたのだ。

 

 

極みなきものは、自らの側面を様々な方面から観ていることで、宇宙、森羅万象を顕し続けている事実に気づいている・・在り方である。

 

人間とは、意識的存在とは、その無数に現われた「側面」のことであり、

 

それは今この地球という生命圏にもいるところの、あなたやわたし達なのでもある。

 

今ここで、生きてあること・・・それが『事実』であり、本来それ自体に患(わずら)いなど無いということである。

 

患いをもたらすのは、全て事実に対する個々の判断「観念」でしかない。

 

普通に生活し、働き、遊び、悩み、喜ぶ・・・そのプロセス自体には、何も問題などあり得ない。

 

問題は・・・、それをどうとらえるのか、どう感じるのか、どう考えるのかという意識的な姿勢であり、「観念」自体なのだ。

 

世界の様々な現象も、人々の態度も、それはそのまま、その段階でのあるがままであり、 

 

それをどうとらえるか?・・・どう感じるか、どう考えるか、にかかっているということだ。

 

ただ、それだけのことなのだ。

 

様々な観念に捉われない、それを超えた在り方を、あるがままと言い、解脱と言ってもいいだろう。

 

好き勝手に様々な歪んだ観念を作り上げ、それを現わしては、不幸や悲惨を作り上げ、反省しながらも繰り返す・・・我々という今の人類、

 

そうした者達のセルフ学習ともいえるものが古くから「カルマ」と言われている。

 

しかしながら、

 

次から次へと、この世界に登場する魂たちの学びともいえる試行錯誤は、常にあるレベルで飽和しつつ、次なる新たな試行錯誤に上昇拡大してゆくプロセスにある。

 

あなたは今その稀有なステージにいることに気づくだろうか。

 

すべては観念、想念という道具の扱い方の問題であり、

 

一人一人の意識的在り方の問題なのである。

 

あなたはもう、人の迷える観念、想いという要らないハンマーで、

 

あろうことか自らのハートを叩いて泣き騒ぐような幼き在り方から卒業しているはずである。

 

今はまだわけがわからぬ段階の人達の想いや感情を、あろうことか自らにコピーして、その嘆きや不幸を繰り返すだけの在り方から、もう卒業していることだろう。

 

汚濁も無知も、そして慈愛も、何でもありのこの人間世界ならではこそ、それに十分に気づけるのだ。

 

だからこそ、この汚濁とも汚泥とも感じるこの世界に感謝しよう。

 

そして、

  

それを今、やっと学びつつある、次から次へとやってくる、いわば霊的幼子たちをも理解してあげようか。

 

 

それぞれのあなたが選ぶのは、自らの幸せである。

 

幸せを誰かに『求める』のでなく、自らで『表現』することこそが、

 

大勢の<わたし>達であるところの、それぞれの段階を学んでいるところの、

 

この地上の愛すべき人々の「支え」となり、「幸せ」となるのだ。

・・・

 

我々は皆、もともとこの世界にかつて生れていなかった。

 

そして、いつか去ることになる。

  

そう、

 

じつのところ、誰もこの世界には属していないのだ。

 

どこにいようと、何をしていようと、年寄りだろうと若人だろうと、

 

普通に生きていながら、

 

この世界にいても、この世界に組み敷かれないこと、

 

無限の1側面である<わたし>・・・本質的な、神の個性とも言える「魂」である自分を自己認識し、

 

汚濁に満ちているようにみえるこの世界への無意識的自己同化を解除し、

  

それ自体で、何が何かわからない様々な『観念』から自由になること。

 

 

我々はもともと、肉体でもこころでもない、空(くう)にして、全てに偏在する大いなる意識であることを認識すること。

 

 

あるがまま、・・とは、大宇宙の奏でる歓喜雀躍たるダイナミックな表現に調和してあるということであり、

 

その参画者は、どんなことにも、どんな役割にも意味があることを知っている。

 

個々別々、バラバラで孤独な人間たち・・などとんでもない嘘であることに気づくべきである。

 

その為には、かつて入り込んでしまった、この世界の特徴であった、歪んだエゴという、閉じられた観念の呪縛から『自ら』を解き放つ意識的<作業>も必要だということだ。

 

それが『解脱』である。

 

ただ当り前の毎日とは、その為の意識的開花のプロセスのことをいうはずなのだ。

 

Photo

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿