人は皆、無限の意識の1つの表現形態である。
あなたもわたしも皆そうである。
あらゆる全ての存在は、その自覚の程度を楽しみながらも、
いわゆる進化の道を歩くことを楽しみながらも、
大いなる「ひとつ」から生じ、それぞれが大いなる「多」を実現している魂意識なのである。
大勢の人間達、大勢の動物たち、大勢の植物たち、大勢の鉱物たち、
無限の空(くう)に存在している惑星たち、恒星たち、銀河たち、銀河団たち・・・
それはすべて奇跡ともいえる「ひとつ」から出て来ているのだ。
様々な物質顕現を通じ、
様々な種類を通じ、
様々な形態を通じ、
様々な生命を通じ、
様々な個別意識を通じ、
様々な集合意識を通じ、
無限の方向、無限の角度、無限の層を通じて、
その自らの奇跡の喜びを表現しているのだ。
・・・
ある高名な哲学者は 「なぜ、無ではなく、有なのか?」 と思ったそうだ。
何もなければ、苦も楽も・・・何も無かったはずだし・・
何もなければ、無知も愚かさも・・・何も体験しないでよかったはずだし、
何もなければ、善も悪も、そこから生じる辛い感情もなかったはずだが、
・・・なぜ、全てが有るのか、我々がなぜ在るのか?
・・・なぜ今ここに人々はいるのか?
そう、
高名な哲学者でなくとも、あなたもわたし達もいつか考え、感じたことがあるだろう。
・・・・
なぜ、私は有るのか、大勢のあなたは有るのか?
それは、
なぜなら、
たった<ひとつ>として生じて在るもの、
<わたし>という自己認識を生じるもの、
自らに自らで気づいているもの、
根源とも神とも、全てのすべてといわれるもの、あるいは究極の一なるものは、
自らの<愛>に気づいているからだ。
それはあたかも、
無限たる自らの姿をどうしても見たいという想いであり、
その美しさ、姿、形、を様々に表現したいという想いであり、
その根底にあるのは、自らを<愛>しているという、
自らが<愛>であるという真実なのだ。
それはまた、あたかも人の仕草と同じでようであるともいえるだろうか。
嫌いな自分は、鏡に映さないはずではないか。
自分が惨めだと思えば、姿かたちなど見たいとも思わないだろう。
・・・・
しかしながら、
それを単なる自己愛と言うなかれ。
一なるものが自らを愛するということは、
全てが全てを愛するということである。
その愛によってこそ、
今我々は・・、自らの意識を有する大勢のわたし達は、
ここに、あそこに、どこにも存在しているではないか。
あらゆる物質顕現、非物質顕現、
たとえ、その全てが「変化」をその旨とするバーチャルな姿であろうとも、
マクロの無限大、ミクロの無限小であろうとも、
世界として、それは知覚され、認識され、体験され続けている。
人間とは、それを感じ、悟り、見極めることが出来る存在のことである。
あなたもわたし達もその仲間たちであるということだ。
この次元のあらゆるものを観て聴いて感じる存在、
更に高次の次元の波動である様々な「想い」を抱くことが出来る存在、
その知覚も自覚も、そして意識の広がる過程も、
様々なプロセスや成長を体験することが出来る存在、
それが人間である。
それがわたしであり、
そしてあなたである。
我々は、今ここに身を置いていることを体験していたとしても、
たとえこの世界が正と邪の観念に犯されていたとしても、
たとえこの世界が無知と不浄に染まっていたとしても、
それこそは一時のほんのあだ花であることを知っているのだ。
それすらも許されることこそは、
愛とは全てを許し、全てを愛(め)で、全てを慈しんでいるということであり、
それに気づくことこそ、<愛>の賜物なのである。
全てを愛でる・・意識、
これでもかというほどの多くの人間たちの<意識>による想いや行為を、
たとえ小さくとも、時には忘却に眠っていようとも、
いつか、そして<今>こそ・・それに気づき、
それを嬉しさと、信念と、勇気と、我慢強さを合わせながら、
顕してゆくこと、
それが人間の役目である。
それが出来るフィールドこそが世界であり、地球生命圏であり、宇宙である。
そしてこの世界を含む大いなる宇宙とは、大いなる我々の故郷なのである。
全てのものは、どこにいても何をしていても、
常に<愛>を感じているはずである。
存在していること自体が、その証拠ではないのか。
たとえ身近にあるちっちゃなことでも、無限に大きいものであっても、
全てが愛であることには変わりがない。
あなたやわたし達の行うべきことは、
こころを静謐に置くように心がけ、
様々な雑多な想念を超え、
今の意識の及ぶ範囲から、ほんとうに・・みじかな所からでも、
実は偏在しているところの<愛>を、
自らで発見してゆくことではないだろうか。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
2012年 元旦