我々がこの世界に生れて、そして一生懸命に生きている有様は、
例えば土の中に、あるいは、泥の中にまかれた種の状態のようなものであろうか。
一時は種にとって、社会という土の中は重たく、なかなか身動きが取れないし、光も少ない世界と感じるだろう。
周りの重たい土や小石の押し合いへしあいしている中にいるのは、窮屈でまた苦痛に満ちたものかもしれない。
漠然と感じている、更なる光と自由度に満ちた世界にその身を伸ばすまでは、種は我慢を強いられることになるのかもしれない。
我々の世界は・・そんな世界であると言えようか。
多分あなたもそうやって生きていることだろう。
苦と楽の間を振り回されながら、善と悪の間で怯えながらも、
もちろん、そんなことはおくびにも出さず、
今という「時」になんとか根を張りながら、
光に満ちた大気の世界を目指し、
明日という「時」を目指して今も成長しているはずである。
どうして「楽」が少ないのかといぶかりながらも、
どうして「苦」が多いのかと悩みながらも、
どうしていつも何かにせき立てられるのかと、不満を抱きながらも、
「今」という、繰り返し訪れる当り前の可能性のおかげで、
いつの間にかしっかりとその根を広げていることだろう。
・・・・
大地にまかれた種は、
土や泥の中の様々な分子、細胞、微生物の働き、水や養分の流れによってこそ、
自らを維持することが出来るし、
また、様々な軋轢や刺激によってこそ自らを磨くことが出来る。
まさに何でも有りの、泥のような世界であるからこそ、
汚濁に満ちたものを成長の養分に変換することが出来、
その自己内でのいわば、濁⇒清の変換作用によってこそ、
自らの中に内包する無限者の描いた、成長・進化の青写真を具現することが出来るのだ。
厚ぼったく、重い世界であるからこそ、
時間という援けを借りながら、それを撥ねのけるバネが生成され、
光へと、上へと延びる不可思議な意欲を持続醸成され、
土をかきわけ、石をはねのけ、コンクリートをも突き抜け、
陽光輝く大気の世界に躍り出ることが出来るのだ。
世に言う次元上昇とは、
自らでこの世界を意識において突き抜けることを示す。
いつまでも土の中で、自らをとるに足らないものと思いこみ、
あたかもごマメ同士が、お互いの顔を眺めあっていても、何も変わるのではない。
誰かが土を掘り返して、種である「あなた」を救い出すことでもない。
実のところ、
多くの「あなた」である種は、既に、
不自由を感じる重い土の中から、
より自由度の高い光と大気の世界へと、
自らを上昇させるパワーを身につけているのだ。
・・・
パワーとは重いヘビーな物質的エネルギーではなく、
いわば身軽な 空(くう) から生ずるものである。
あなたは今・・そこはかとなくであっても、それに気づいているはずである。
あなたとは、本来は無限の可能性がその属性であるところの、
一見何もない・・空(くう)から生じている、久遠の意識であることを。
・・・
『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ・・・』ということわざがあるように、
何事においても、自分が大事、我が先、おのれが最優先では、救われないということであろう。
ここで言う『救われる』・・とは、
魂としても自らの本来、本意でない在りかたからの「解脱」である。
・・
身を捨てる・・ということは、
何も体を捨てるということでは毛頭なく、
自らが物質であるという極めて重い刷り込み観念を捨てるということだ。
肉体偏重、物質偏重、そしてそこから歪んだ形で定在しているところの、
<我良し>の「重い」観念を捨てるということである。
我良しの「重い」観念とは、わが身の安穏、わが身の快楽のみを追求するという固まった「考え」を意味する。
それは一般に言う「自己中」であり、さらに深い意味での<身体=自己>の虚妄の観念で固まった有様を言う。
あるいはそれは、今の世相の下に流れている生き方、
人生において、意識的・無意識的に、自己の身体、肉体維持の為にのみに特化することを意味している。
それは簡単に言えば、巧妙な利己主義であり、
それはまた、
とりあえずの刹那の肉体保身への観念に根ざしている。
世界は今、
このような刹那的な自己中心観念の飽和とそして崩壊の淵にある。
原発の汚職や汚染の伝搬、政治の愚かさ幼さの露呈、
ましてや国家の破産が囁かれる時代は誰も予想していなかっただろう。
しかしどうしてそうなってしまったのかは既に理解しているかもしれない。
人類の世界のあらゆる現象の背後にあるのは「想念」であり、
そこから発する行動であり、
繰り返しに終始する不幸の拡大再生産は、
その想念の歪みの、当然の現象化でしかないのだ。
世界のことを改革だとか、革命だとか、これを何とかしようという高邁な想念自体も、
ことここに及んで、自らのことを忘れている誤りに気づいていない。
自らの想念自体に「気づいて」いなければ、
他者の想念、思い、そして行動を予測することなど出来はしないし、
社会や世界の改革など出来るわけもないのだ。
外の何か、外の誰かを観ている限り、
土の中の種のままで不満をかこつしかないだろう。
逆に、
自らを開墾し、自らの中の無限性を再発見することでしか、
土の中からより、大いなる大気の世界へ突き抜けることは出来ないだろう。
いまそれぞれの、その意識的方向性が明確に分かれるところまで、
我々の外の世界は飽和してきたということである。
そして内なる世界もまさにそうである。
あなた・・・は何なのか?
わたしは・・何なのか?
世界というスクリーンを観ている<当のわたし>に、自らが気づく時である。
(つづく)
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。