気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

人は「鏡」

2009-09-13 16:38:25 | 心の科学分野

我々のいるこの世界には、肉親、兄弟、周囲の身近な人から、その他全く知らないあかの他人まで、それこそ多くの「自分以外の人々」がひしめいている。 誰しも生まれてから、各人各人、夫々の時代を通して、様々な人々と様々な関わり合いを経験しながら「今」ここにいる。

好きな人、嫌いな人、二度と会いたくないような人、お世話になったと感じる人、馬鹿としか思えないような人、こころの傷になったと感じる人、暴力的な人、お金や地位にしがみついていると感じる人、狡猾でずるいと思う人、信じられないほど純粋な人、かわいそうと感じる人・・

気づけば多分、そのような様々な人との邂逅を多かれ少なかれ体験しているはずだ。あなたや私達が、若年であっても、また年配者であっても、その時間量によらずそうであるに違いない。まさに、今ここにこうして様々な人々の中に生きているのだ。

人と人との関わり合いの1つが「家族」であり、更に大きな「社会」であり、「国家」であり、「人類」なのだ。そういう意味では、我々は人類という共同体を構成してるという言い方は誰しも否定しないことだろう。しかしそうは言っても、地球の人類全てと直接関わりをもっているわけではない・・と思いがちだが、実はそうではないのかも知れない。 我々の視覚によって、地球の裏側の何処かの不特定の誰かを見ることは出来ないとしても、身近にその声に接することは無いとしても、我々は、創造宇宙のなかの、小さな地球の中の数多ある命として、意識ある存在として、ここに今こうして皆々共に生きているのが事実なのだ。

遠い・近い、多い、少ないという物量的な観念を外してこの事実を観る必要があるだろう。 地球の裏側の何処かの赤の他人は、赤の他人ではなく、我々のこの地上の「命」の仲間であるという事実に気づけるだろうか。我々に身近な縁者も、すれ違う他人も、それこそ知らない遠い地にいる人達も、まさに同じ「今」を生きている「兄弟・姉妹」なのだ。

無限の中にある、特異な創造点とも言える、無数のわたし達の「今」には、同じく無数の特異な創造点とも言える大勢の人々の「今」が有る。「今生きて在る」という共通の有り方から言えば、無限に展開される命の舞台のなかの、今この瞬間を共有している兄弟・姉妹とも言えよう。

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以前にこのブログにコメントして頂いた方から「ホ・オポノポノ」を教えて頂いた。これは400年前からハワイの人たちに伝わる問題解決の方法と言われている。400年だろうが1万年だろうが、時の量に関係なく、このホ・オポノポノにも、古代から綿々と伝わる人類の真の叡智が燦然と輝いている。自分が感じるに、これはいわば最もわかりやすい究極の救いともいえるだろう。救いといえば念仏のような連想もあり、誤解もあるかもしれないが、誰にも今すぐ出来るこころの浄化法と考えても良いと思われる。

ホ・オポノポノの真髄は、「他者は全き自分の鏡」とする捉え方だろう。そこでは、他者は赤の他人・別個の存在ではなく、自分の内面の投影であるとする。自己の内面を癒すことで否応無く、鏡たる他者が変化してゆくさまは奇跡と捉えられているが、これはある意味で、理路整然とした意識レベルでの確実な法則なのだ。あなたやわたし達の認識する「他者」は、あなたや私達の反映であるということだ。他者から見れば我々は反映であるが、それは、それぞれが皆根源たる一なるものの多面性を現しているからだ。それはまさに、一は即ち多である所以なのだ。

物量・分裂・測量的な考え方に染まっている我々にとって、他人は他人、自分は自分であり、他人がどうだろうと自分には関係が無い。極端に言えば、他者の存在意味としては、自己存続に利用できるか出来ないかの違いと考えてしまいがちだろうか。

ホ・オポノポノの真髄は、以下の4つの言葉に全て表れている。

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「みんなが幸せになる ホ・オポノポノ」 イハレアカラ・ヒューレン (徳間書店)より抜粋

 

 ごめんなさい。(I’m sorry.)

 許してください。(Please forgive me.)

 愛しています。(I love you.)

 ありがとう。(Thank you.)

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あなたは、この言葉を周りの人達に自然に言えるだろうか。

「どうして人に謝るのか?どうして感謝しなければならないのか?どうして愛しています・・などという小恥ずかしいことを言う必要があるのか・・?」 多分そのように感じるかもしれない。こんな言葉のどこに、一体何の効果があるというのか・・理知的で論理的な考え方からすればそのような感じもあるだろう。実際に言葉に出してみれば、様々な思いがこれらの言葉の周辺に表れてくるのがわかるかもしれない。極めてシンプルな、それでいてあらゆる次元を通じたような言葉には、確実なパワーがあるのだとも感じる。

ホ・オポノポノに関しても奇跡的な出来事が沢山あるようだ。まさに奇跡は法則であるという証でもある。

4つと言わず1つでも2つでも良いかもしれない。どのような人に対しても、これらの言葉をこころのなかで言えるようであれば、次第にこころが清水のように透き通ってくるはずだ。

その前に、こころの底に沈殿していた有象無象の濁りが感情となって現れてくるかもしれない。その貴重な経験達に、それに執着せず、屁理屈つけず、勝手なイメージで遊ばず、黙ってやり過ごしてあげることが出来るだろうか。それを、あなたや私達のこころの暗い底から、光あふれる大きな世界へ開放してあげることが出来るだろうか。あなたを一生懸命育ててきた「経験」や「記憶」達に、「ありがとう」と言ってあげられるだろうか。

 

自己の多生に渡る様々な体験は、自己の成長の為のものであり、それを考えてみれば大勢の他者のお陰であろう。それが様々な経験や気づきという宝を得るためのものであったと知るならば、他者や自己の幼さゆえに味わったかもしれない、疲れきった記憶や、怖い怖い思い出や、執着の悔恨は、黙って浮かび上がらせてあげて、昇華してあげたいと思わないだろうか。

我々と同時に生きている多くの人々に対して、またその都度自分の世界に現れる人々に対して、我々が持つべき1つの最高水準の「思い」がホ・オポノポノの言葉に凝縮されている。

この言葉は、相手に対して投げかける言葉ではなく、自分の内面で宣言する言葉であることに注意しなければならない。相手にそうなって欲しいとか、変わって欲しいとか、よくなって欲しいということではなく、すでにそこにある「わたし」の鏡像としての「他人」に対して、自分の中に在る観念を癒すということだ。 他人を癒すのではなく、他人を見ているところの自分の観念を、勇気をもって癒すのだ。癒すべきは、親でも、子でもなく、ましてや世界でも、どこかの国でも、愚かなピエロ的指導者でも、自分に対峙する敵でもなく、自分のこころ、観念なのだ。

我々にとって、他人とは、天地万物の創り、今という世界の有り様の中の、無限の各所に在るそれぞれの「わたし」の無数の鏡像ともいえる。 自己という鏡を通して現れる他人との関わり、人間関係は、その様々な体験を通して創造される「感動」を育む為のものだ。大勢の他者とは、より深く広い慈しみというさらなる感動を、あちらこちらで花咲かせようとしている、この悠久無限世界を現し続けるところの根源意識から遣わされた者達である・・ということに気づけるだろうか。

我々のそれぞれの周り、近い遠いに関わらず、この地で「今」を共有している無数の他人とは、例えて言えば「天使」とも言えよう。他人とは、知らない振りして実に厳しく優しく、確実に全ての存在の魂の輝きに磨きを掛けてくれる天使なのだ。気付きや救いや愛は、何処かの誰かがもたらすものではなく、今のわたしやあなたたちの中から湧き出すものだろう。

我々が今なすべきことは、今まで様々な体験を通して培った記憶・イメージを、自ら拠り分け整理することだろう。あなたも私たちも、歩くのはいつもそれぞれの「わたし」であるが、その周りに万華鏡のごとく、あなたやわたし達の鏡である、大勢の愛ある他人が見守っているのだ。

我々の生きている命題・課題・テーマが有るとするならば、それはいつもすぐ目の前にあると考えられないだろうか。鏡に映るのはいつも自分であることに深い意味があるのかも知れない。

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 ごめんなさい。 (I’m sorry.)

 許してください。 (Please forgive me.)

 愛しています。 (I love you.)

 ありがとう。 (Thank you.)

・・・・・・・・・

あなたは、はたしてこの簡単な言葉を、あなたの鏡像である、親や子供や周囲の人を含むさらに大勢の他人達に対して、心の底で言える勇気をもてるだろうか。

いいや、間違いなく言えるだろう。

  

 

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場 ルノワール 1894

Moulin1

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


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