気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

原初の光

2009-09-19 19:38:23 | 宇宙的気付き

●第一義的原因 「私は有る」

我々の生きてある時空、また遥かに思い描くことが出来るこの悠久の可能性の世界のなかには第一義的なことがある。

それは何だろうか。

それは宇宙開闢の原初の「意志」であり「意図」ではないのか。宇宙を現し続けるものが、最初の最初に決めたことは、いつもあなたやわたし達の中に在る意図であろう。

それは、・・「今有る」という気づきを通して、目覚めることなのだ。それに終わりなどないところの、その者である「あなた」に今気づけるだろうか。

森羅万象、あるいは宇宙という、この創造の只中で、我々が「今」「ここ」に有るということは、我々自身が、全ての元の元の源泉であるところの、根源の意図を保持しているということに違いないとは思えないだろうか。

原因なくして結果はない。

原因と結果の法則は誰しも理解可能だろうか。 例えば、物体の作用とその反作用でもあり、観察している意識と物質を構成する素粒子、量子との関係でもあり、また人間それぞれのこころのパターンとその反映である経験・体験との因果関係でもあり、様々な生命と生命との生態系での共存関係・因果関係でもあるだろう。

第一義の意図・因が、いつも「今有る」がゆえにこそ、我々を含んだ大勢の命の「今」がある。

「私はある」という、その第一義的ともいうべき「意図」こそ、瞬間・瞬間に生まれ続けている様々な世界、時空・諸現象の元の元の因であるのだ。それを古来から直感的に言い表そうとしてきたのが、創造主・神・仏などという概念だろうか。

「わたし」が今有るからこそ、「わたし」の周りの世界がある。 同じく、「神仏」の根源の意図という因が今有るからこそ、「神なる仏なる」世界が展開している。

我々を含むあらゆる意識ある存在は、悠久無限という全体の中での「個別の創造」を受け持っている「部分」である、と同時に「全体」でもあるのだ。

これはフラクタル、ホログラフという昨今の科学的な概念からも容易にうかがうことが出来るのだ。

   

●光による世界創造

一なる根源から発せられる、無限」に変化する波動のことを「光」といって良いだろう。我々は、根源から発せられる「光」であるという直感は、まさにそのような意味なのだ。

その自在なる「光」、すなわち「無限に変化する波動」が、命としてあらゆるところに伝播しているのは、その波動を伝播せしめている母なる「無限なる意識」ともいうべき下地があるからこそだろう。そのような、どのような波動も現すことのできる下地の意識、バックグラウンドの意識を「宇宙意識」と呼んでいるのかもしれない。

我々の個々の意識、すなわち各人個別の想念、感情、または身体的な表現は、その宇宙遍満意識という波動の、いわば変調されたものと言えるだろう。

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光あれ」・・

それは、無限なる己を観ようとする為の、切なる、最初の発意・意図であり、無限そのものである自己を観想するための波動を発したことであるとも言えるのだ。あなたは思い出せるだろうか。

光の生じた瞬間、・・・・それを、創造の瞬間というならば、その時というのは、想定されるビッグバンの130億年前の過去ではなく、常に、今の瞬間である。

確かに、「生命」を言葉で言えばまさに「光」なのだ。様々な位相と様々な振動率を無限に有する波動すなわち無限「光」が、我々であるといえる。

個々の「魂」というのは、その様々な相を通じて無限を現し続けるところの、根源意識から発せられる「スペクトラム」といえるかもしれない。

個々の魂は、虹のスペクトルのように、個別化されて見えるが、その振動率と位相の異なるだけの、「一なるもの」の様々な派生・表現形態と言って良いだろう。

 

●ホログラム宇宙

「わたし」「あなた」も、そして「神・仏」も、その有り方は同質である。 それはまさに、「天にあることは地にもある」ということであり、相似象ともいえるだろうか。

それはまさにホログラムであり、またフラクタル構造でもある。

世界の片隅にある微小なものにも、完全なる全体が畳み込まれているのだ。

一なる根源の意図は、あなたや私たちや、木々や、鉱物や、動物や、我々の生存できる世界を提供し続ける、この地球という生命圏にも畳み込まれている。身体の細胞の1つにも、石ころの分子にもそれが畳み込まれている。

どんな物にも、それぞれの意識、意図を通して、様々なスペクトラムが現れている。それぞれが、完全に異なる位相や振動率を現しているが故に、まさに無限に個別で、完全にユニークな個々に満ちている。

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●創造は内から外へ

この現前する宇宙自体、誰か、自分とは異なる不特定多数の神々が創ったものだという感覚があるのならば、それは御門違いというものではないのか。

なぜなら、そこにあくまでも「外の他者」を想定しているからだ。

神や仏と自分を分離しているということが、深遠で遠慮深いと自負するようなある意味での欺瞞は、もうすでに過去のものではないのか。

外に想定する「神」は、実は自己の内面の光によって投影されるものであり、その投影されるものに媚びへつらい、はたまた自縄自縛することは、まさに自分で自分の籠に閉じこもるような行為でもあったのだろう。

閉じられた時空、それが地球という生命圏の有する特色の1つでもあったともいえるのだが、実のところ、無限に優しい本来の神なるものは、あなたの中で、黙って苦笑いしているのかも知れない。

創造主は内に在り、また、それゆえにこそあらゆる被造物を外に観るというのが真相だろう。我々はその共同参加者であるということに、今はもう気づくべきかもしれない。

」なるものであればこそ、無限の「」を現すことができる。我々は、無限の「」の中の「」つであり、その中には「無限」が息づいているのだ。

我々は孤独で淋しいどころの話ではない。

存在諸世界を通して、多くのわたし達が「今」有るように、ここにも、どこにも命が有るように、無限の向こうといえども、微細なミクロの世界といえども、まさに、どこにでも命が溢れているのがホログラフィックな宇宙なのだ。

今までの我々の意識は、一時ながら、本来の自己である全体を忘れてしまい、個別・個別の分離されたほんの先端の有り方だけを信じてきたのかもしれない。

例えれば、海に浮かんだ島を見て、海の底では全ての島がつながっているということをに気づかなかっただけのことだろう。幾星霜の苦渋と喜びも、まさに放蕩息子だけが味わうことが出来る、かけがえの無い、感謝すべき体験に違いない。

そうはいっても、無限という中に生かされていることを忘れてはいけないと思うのだ。そして、その無限の海から命の水を汲み出し、花を咲かせるのはいつも自分であり、「今有る」わたし達なのだ。

無限という可能性、そしてあなたと寸分違う事の無い、愛ともいわれる数多の命の輝きに、もう既に気づいたのだろうか。

 

●「部分」は即ち「全体」である

 

我々は創造の只中にいるのであり、

その只中にいる者はまさに創造主の一部でもある。

宇宙の、あるいは多次元とも言える存在諸世界の、

どこの一部分であろうと、その部分にも全体が畳み込まれている。

その部分部分に、全体が畳み込まれているのがまさにホログラムである。

意識的にどれだけ気づけるかどうか、ただそれだけの違いなのだ。

その気づきと理解の段階が、

いわゆる進化といわれるパフォーマンスなのかも知れない。

あなたや私たちも、皆々分け御霊、

個別・別個でありながらも、且つ、全体と完全につながっている。

全一とは、一なるものから溢れ出た無限という、あらゆる多様性のことであり、

それは、今ここにいる我々と我々をとりまく愛に溢れた世界のことなのだ。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。