気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

探求者ロバート・モンロー(3)

2009-09-06 14:06:14 | 心の科学分野

●意識のシフトは誰でも可能な時代

ロバート・モンローの業績は、我々のいるこの地球という生命圏の多次元構造を、現代人にもわかりやすく、かつ誰にも再生可能な方法で説明したことだろう。へミシンクと呼ばれる方法、左脳と右脳の音響に基づく共鳴作用によって、様々なレベルの「意識」状態を体現できるような再現可能な方法を開発したともいえる。

過去のスエーデンボルグその他の探検者の、霊界などに関する報告や著作も多くあるが、ただ、それがどこか時代がかって、あるいは宗教がかって聞こえる為に、多くの現代人にとってはピンと来ないものだったかもしれない。また特異な能力者だけの体験談であれば、一般人にとっても適応されるものかどうかという疑念もあっただろうか。

●進化の扉は我々の内にある

よく言われる「意識」、その意識自体の多次元性の解明が為されつつあり、今まで通り一遍で扱われていた「こころ、意識」というものが、とんでもない可能性として認知されようとしているのだ。

物質世界の果てに行こうと、何をしようと、現在の自分の意識のあり方以上のものは現れないだろう。まさに孫悟空が、どこまで言ってもお釈迦様の手の内に在る・・という比喩が相応しい。開拓すべきは、何処かの土地でも金鉱でもなく、我々のこころ、意識作用である所以だ。

 

●死を怖れる必要はない

我々の「生」というものが、物質肉体の生存だけの、たった数十年の一過性のものであるという考えかたが今の時代の主流だろうか。 あからさまに断言はしないものの、多くの人が肉体が朽ちればそれで終わりと考えているようだ。そのために、人生において出来るだけ死を回避すべき生存競争と捉え、出来得る範囲でおのれの生を維持するための肉体を守ろうとする。

生誕は歓迎され、死は忌み嫌われるのは、更に大きな生命観というものに未だ気づいていない証拠ではないだろうか。考えてみれば、あらゆる恐怖は、この「生」に対する「死」をどう扱ってよいかわからない人類の意識段階を示しているのかもしれない。 死という否応無く体験すべきプロセスを、怖いがゆえに「そのうち考える」というような、考慮の外に押しやっている偏狭な観念体系にはまっているといえるだろう。その偏狭な刹那的、スポット的な固定観念のお陰で、時代が進もうと変わろうと、科学が進展しようと、真に幸せそうな笑顔が人々の顔に溢れてこないのだと思う。

そのような人々の意識の根底には、肉体生命の死への恐怖があると言って相違ない。

●生と死は相互補完

生が無ければ死はない、また死が無ければ生もない。当たり前ことではあるが、死を敬遠する観念自体が、「生を全うできない原因」とも言えるのだ。そのような片手落ちの文明が今の我々の文明とも言えようか。またそれは、数千年来それほど変わってもいないのかも知れない。生と死もやはり相対的な現象にしかすぎないのだ。

確かに、肉体が全てであれば、何をおいてもそれを死守すべく、他者をも利用または排除する極端な行為も、どこかやむを得ないものとして正当化される傾向にあるだろう。戦争はその最たるものだ。悪いことだと知りつつ繰り返す行為の背後には、自分の肉体維持・強化のために、さらに安楽な環境を作り上げようとする衝動がある。肉体が無くなっては元も子も無いという「恐怖」がその根底にあるといえるだろう。

ある意味で西洋物質文明は、生のための戦いと契約に象徴される文明と言えるかもしれない。

●今、最大の二元性、生と死を超えるべし

実のところ生命の生存形態が肉体のみに依存しているという観念に、閉じ込められているだけのことではないか。、、今、その固まった意識の焦点を、自ら柔軟にして、様々な可能性を受け入れ、生と死という、根本的な命題とも思える現象に、多方面から光を当てる行為が必要なのだ。まさにそれこそが今必要な「意識の一段の進化」といわれるものではないか。

各自が自分の肉体の周りだけに意識のスポットライトを当てているだけでは、自分がどこから来てどこに行くのか、どんな道に乗っているのか等わかろうはずも無い。どこかを歩いているようだが、見えるのが肉体だけであれば、それこそ自分の周りは真っ暗だろう。 またそのようなある意味で自己周囲のことしか見えない人々が、互いに不安と恐怖をもとに集合し、お互いぶつかり合いながら、また喧嘩したりしながら歩いているようなものだろう。

●我々の五感は極めて狭い窓のようなもの

生命の存在形態が、いわゆる物質的なもののみであるという信念に固まっていれば、決してその観点から出ることが出来ないだろう。存在の有り様が、物質的なものだけであるという観念は、多分それも一種の思い込みと考えられる。数式で表現できない、未だ観測機にかからないということだけで、物質形態以外の存在形態があり得ないということにはならないのは、まともに考えればわかるかもしれない。 例えば、我々の五感情報の多くを占める視覚情報は、電磁波のスペクトルのうちで360nm~780nm(ナノメートル)程度の範囲でしかない。

いずれにしても、我々に間違いなく有るこころを、目に見えないものとしておざなりにしてきたのは間違いのないところであり、実はその、こころ、意識作用の中にこそ、無限の可能性があることに、今はもう気づかなくてはならないだろう。

●人間は間違いなく、肉体を超えた存在である

体脱というのは、肉体を超えた高次の自己にとっては当たり前のパフォーマンスと考えられる。肉体五感では感じ得ないものを感じたり、遠距離を超えて情報を収集したり、また過去の記憶を再体験したりできるのは、隠された肉体の機能・・というよりは、肉体を超えた存在形態としての己の機能と考えるほうが自然なのだ。

人間の意識が「体脱」や「離脱」したと思しき状態では、距離やそして時間も越えることが出来るということが、我々自身が実のところ、我々の捉える常識的な物質的世界を超えた存在であることを示している。このような自己のあり方に対して、誰しも当初は違和感を持ち疑念を感じるものだが、いろいろと意識的に探求自助努力すれば理解が出来るようになる。

生と死を含む我々の生命のあり方に関する「未知」が、少しづつ「既知」になってゆくにつれて、我々が肉体そのものでなく、それを含むところの、より大きな生命体であるということに自然に気づくことになるのだ。

 

●地球は多層・多次元構造

モンローの表現によれば、地球の周りには不可視の意識フィールドがあり、それをフォーカスレベルと呼んでいる。フォーカスレベルを、ここで取りあえず「世界」というならば、我々の生きている物理的世界の他に、人が死んだ後に通過する世界(死後世界)、さらにその上には、信念体系という世界(霊界?)があるといわれている。その上には、地球生命圏への出入り口であるフォーカスレベル(天界?)がある。この意識レベルでようやく、ある意味で地球の「すり鉢」の淵に到達するようだ。意識生命体が地球に参入することが出来るポジションだ。

あなたや私たちが、ダーウイン的な観点で、このバーチャルな地球体験フィールドから生じた生命と考えているかもしれないが、それは肉体進化を語るものであり、誰にもある高次の自己・魂は、多分、皆皆ここから降下して地球での生体験を開始しているのかもしれない。

余談だが、昔の洋画で、広大な荒野の中に、ある一定の地域が深く陥没した不思議な土地があり、探検隊がそこへ降りていくアドベンチャー映画があった。その遥か底にある場所では原始とも思えるような植物が繁茂し、恐竜などを含む様々な危険と遭遇しながら、やっとのことで、その陥没したすり鉢世界を抜け出すストーリーだった。1度入るとなかなか抜けられないような波乱万丈なストーリーは、この地球の多層世界のルールを彷彿とする。

Chikyu009

●物理的世界は地球の多層構造の底の世界?

宇宙から撮られた地球の写真等を見たときには、その物理的球体だけが目に入るのだが、それが全てとは言えないのではないか。 なぜなら、その映像はあくまでも物理的周波数帯での撮影であり、多重になった地球の生命圏の、その他の層の有様は当然ながら映し出されないと考えられるからだ。例えば、CAD、CAMのような図面作成でのレイヤ(層)構造を連想すれば良い。1つのレイヤの平面上(次元上)にいる限りでは、他のレイヤが映し出されないようなものなのだ。CADという単なるコンピュータソフトを知らないように、我々の存在しているこの世界の本当の有様もまた、真剣に探求しなければわからないのかもしれない。

自分という無限を理解するには、今あるところの理性と感性、その両方が必要なのだ。それまでは、まどろみを楽しむことになるだろうが、今はもうそのその時ではないかもしれない。

モンローやその他の多くの体脱体験では、意識体という多層に渡る高次の身体が、1つの層である物理的肉体というフェーズを離れることにより、肉眼では到底見えない他の層・世界を見ることができるのだと思われる。比喩的に言えば、単にラジオTVの周波数帯を自分でシフトすることで他チャンネルを受信できるようなものだ。世界の底にある最もわかりやすく御膳立てされた世界が、今の我々のいる物理的世界という事が出来るかもしれない。

我々は皆々、当面の自己を忘れてこの世界に降り来たり、多生に渡る体験・冒険を経て、再び元の次元に戻る真剣な遊びを選択した、アドベンチャーファミリーなのではないだろうか。それを思い出すことが、地球生命圏での様々な体験群のテーマでもあるだろう。

「忘れて思い出すという演劇」 の主人公を演じるには、相当の試練がいるのはもうお分かりかもしれない。

 

●多層世界の理論的側面

この多層構造を直感的に理解するには、その多層の世界の基本となる波動フィールド、昔から指摘されている物理学系で言う「エーテル」や、禅等で言う「空」、または最近ではアービン・ラズロの提唱するAフィールド、あるいはアカシックフィールド、またはモンローの指摘する「M」フィールドを想定せざるを得ないだろう。

その波動フィールドは、多層の周波数帯域を構成できるより微細な?波動で出来ており、それが変調されることで、多次元世界を表わすことが出来る言わば基本の「搬送波」とも言えるだろう。我々の視界を表わす光・電磁波はその1つのフェーズに過ぎないような、更に基本的な波動と考えられる。

肉眼では何も無いように見える空間が、単に物理次元において変調されていないだけのことであり、同じ時空周辺にありながら、異なる周波数帯においてはその周波数帯域での世界が、そこここに同時に存在しているというものだ。

その多層になった地球時空生命圏の周波数帯域が、今の時期、より高い周波数帯に急速に移行しているいう情報もあり、いわゆるそれがアセンションや次元上昇という、言わば周波数ホッピングだと考えられる。例えれば、4チャンネルは5チャンネルに移行する時期だろう。

ある条件で、原子核にエネルギーを照射すれば、その受けたエネルギーによって電子はその軌道をジャンプする。これは似て非なる例かもしれないが、今この地球生命圏にも、何か巨大な目に見えないエネルギーが照射されていると思われる。その影響は生態系、環境、気候、それから人類の意識にも作用しているだろう。物理次元にもその観測データが遅れて現れてくるはずだ。いや、今がまさにそうかもしれない。

 

●同調・共鳴・共感で現れる新しい世界

さらに広範囲の存在形態を表わすであろう上位の多層世界への同調は、我々の意識によって行なわれることになる。我々は常に我々の意識に相応しい世界にいるということだ。今こうして、「ここ」にいることがその証拠だろう。

要は自分のこころ、意識作用の全般を注意深く観ればそれがわかるものだ。今何をおいても重要なのは、大勢の他者の顔色を伺うことでもなく、自己自身である内面意識の適宜なチューニングではないだろうか。気づく気づかないに関わらず、上昇も下降も自由自在、こころのチューニング次第なのだ。

意識的存在である人間にとっては、どこまで行こうと、外はあくまでも内の反映なのだ。内面の光が増せば、それにあわせて次第に外にも明かりが増すような仕組みに、今、気づけるかもしれない。外の世界を無理して切った張ったする前に、その時々で、出来うるだけの「理解」と「愛」を、こころの中に創り上げることこそが、今の時期においてまず第一義的なことではないだろうか。

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北斎 1823~1829 作

Hoku01

本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことにありがとうございました。