現状を幅広く知覚、認識することではじめて、その中に潜む危険性、すなわちそれぞれの自己にとり不都合な現象生起の可能性等にも気づくことが出来る。
また、その対策を出来うる範囲で、大なり小なり行うことで、その危険性というものが、逆に薄められることになるだろう。これは機械制御でもおなじみのフィードバック機能と同様なプロセスとも言えるだろう。フィードバックした情報は、怖れて脚をすくませる為のものではなく、事前に対処しそれを回避する為のものだ。
常に危険の防止策は、意識的であることと、事前に察知することなのだ。
しかしながら、現実に対する認識が偏ったり、無視されたりする場合には、その危険性すらも感知できないことになる。嫌なものは見たくない聞きたくないという、無意識下での逃げの心理が働いている場合がそうかも知れない。
そうした場合には嫌な厭なものが追っかけで現象化してくる。まさに鬼ごっこのようなものだ。
お互いが他人任せの無意識なあり方であれば、その意識的気づきの欠損、断層、ギャップ自体がまさに「サプライズ」に変換され、個々人にとって予想だにしない驚天動地の現象に遭遇することにもなるのではないかと思える。
確かに、知らなかったからこその驚きであるし、解らないからこその恐怖になるものだ。
言葉を変えていうならば、不都合なものに対する予言なども、事前に騒ぐ事で、いつの間にか、大勢の人の意識がその潜在的な可能性に向けられ、その潜在エネルギーの現象化傾向を一部先取りすることにもなり、逆にその方面での現象化は薄まるのかもしれない。
そうは言っても、我々は平和であってもボケてはいけないのだと思う。ボケると目覚し時計が強制的にでも鳴り響くようなものかも知れない。また、目覚まし時計を憎んでも、それは筋違いというものではないのか。目覚めてしまえばうるさいベルを止めることが出来るのだから。
要は、警鐘や不都合と思われる予言や予知についても、それが、何がしかの情報であることを認識すべきだろう。そんな馬鹿な・・等と根拠無く笑ってみたり、また逆に、全てを鵜呑みにして、恐怖で凍りつくようなことなどは、まさしく現状認識努力からの安易な逃避かもしれないのだ。
要は、まず、実はそれがよく解らないのだと認識すべきであり、次に、自分の知性・感性で判断する以外には妥当な策はないだろう。
一つには何はともあれ、自己で可能な範囲で対処しておくのが当たり前の、いわゆる転ばぬ先の杖というものだ。それで安心が得られるならば、それこそが恐怖からの開放にもつながるものだ。
とはいえ、有象無象の情報の氾濫する世界の中にあっては、認識眼または直観力が必要なことも事実ではある。人々の現実の背後にあるのは、人々の潜在的なこころ、意識作用であると考えれば、例えばジョセリーノ予言等も、有名になるにつれて次第に予言が外れる?ようになることも理解しやすいだろうか。
理屈を言うならば、こういうことかも知れない。
不都合で危機的な予言を事前に知ることで、大勢人々の意識が、否応無くその潜在的な歪みや可能性にアクセスしてしまう為、本来ならば大きいはずの潜在エネルギーギャップに対して干渉することになり、その原因となる潜在エネルギー自体が、どこかで変質してしまうのかもしれない。
一挙に生起するはずの?危機感や恐怖という現象が、部分的に先取り体験され、漏洩してしまうからだとも考えられる。例え現象が起きたとしても、事前にどこか既知であれば、無知と既知の間のギャップからくる驚きや衝撃は少なくなるものだ。
隠されたものは現れる。現れたものは消え去ってゆく。
潜在はいつか必ず顕在となり、未知が既知になれば怖れも露と消える定めだ。
おのれの心の影にある怖れは、おのれで引きずり出して、日の光にさらすべき時なのではないのか。
予知や予言、警告の恐怖に同調することで、それを増幅してしまうことも有りそうだが、まず、人々がその潜在的な可能性を知ること自体において、原因側の変質が起きるものだと考えられる。
それを増幅するか変質させるか、打ち消すかは、いつもいつも我々の周りの舞台を現すところの、心のパターンによるのだ。逃げずに向き合うこと、驚天動地の現象であっても、またはナチュラルな変化であっても、またはどうということでもなくても、いさぎよく、今の自分の中においてこそ、それに対峙することが、まずもって肝要なことだと思えないだろうか。
これは物質の要素である素粒子と、それを見ようとする観察者の相互作用にも比すことが出来そうである。実のところ、「知る」という意識的な行為自体が、物質的な「現象化」への干渉作用をもたらすといえるのだ。
狼少年の逸話のように、村人に対する「狼が来るぞ~」という警告に耳を傾けている限り狼は現れず、それを忘れ去った時にこそ狼が来るようなものかもしれない。
逸話における村人の過ちは、危険という客観的な可能性から目がそれてしまい、「狼が来るぞ~」という少年の、当たり外れのほうに意識が行ってしまうことである。少年の挙動のみに集中していたことが村人の過ちであるとも言えるだろうか。
要は、個々人が常に意識的であることが必要なのだろう。
余談として、この世界には、さらに高次ともいえる理解を得ている人たちがいる。人類自らが、自らに不都合な潜在面のエネルギーの歪みを、無意識に創り上げてしまう行為に対して、祈りなどを通じて積極的に変質させることを引き受けている人たちもいるようだ。
それは、我々のような一般人の危なげな「制御されない、潜在エネルギーへの干渉」と違い、立派に制御された意識的干渉であり、まさに大人の所作ともいえる。人類にもいわゆる親と子供の役割付与があるようなものだろうか。
恐怖という、自ら創るところの「観念」自体が、自らのその恐怖の「原因」となる。
意識的・無意識的に念じてしまうこと、引き寄せる作用自体は、自分のこころにあるのだという事実に、常に気づいている必要があるのではないか。
眠れる人には目覚しの合図がラッパのごとく次から次へ鳴る時代かも知れない。巨大な音で失神する前に、早めに目覚めるに越したことは無いではないだろうか。
我々の体験・経験は、他の誰かが決めるものではないという真理ともいうべきものを忘れてはならないだろう。
こころの中で本当にそうだ・・とどこかで信じている通りの体験をするのが我々という意識的存在なのだ。
今は、人間としての叡智の輝きを磨く試練の時であるともいえるかも知れない。
思いのパターンが、行動、現象化の種・原因を創っていることを理解し、恐怖や不安を、いっさいがっさい、きれいさっぱり投げ出して、希望と信念と、そして本当の豊かさをまず自分の心の中に創り出す時なのだ。
ゆくべき道を決めるのは、いつもいつもわたし達の、意識的な「選択」をおいて他にあろうはずもない。
我々は、今、物質~エネルギー、そして、ようやく、その因である「意識」に気づく時代に来ている。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。
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話は逸れますが、玉蔵さんのサイトから警鐘が出ています。ご存知ない方は一読をお勧めします。今までにそうそう無い情報発信内容ですが、時々閲覧させていただいている彼のブログゆえ貼り付けさせて頂きます。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-442.html
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私、初めての海づりに昨日から行って、さっき戻ってきました。
楽しいですね 釣りって!
何にも釣れませんでしたが、楽しかった。
透き通った海だったので、餌をつつきに来る小あじや小さいふぐやかわはぎなんかが見えるんですが(きっとあちらも見えているんでしょう) かわいくて。
気が短い私なのに、ぼ~~~っと何時間でも座っていられました、ほとんど絡まった糸をほぐしたりでしたが、それも好きみたい^^
自分発見でした。
福井の小浜(オバマ)の神子ってところで
静かな漁村 平和な雰囲気で のんびりしました。
そうですか、海づりですか。良いですね。夏~秋には、磯では小あじやいわしなんかが回遊してきます。さびきなら、違和感のありそうな餌付け無しで出来るため簡単です。
うちも家族で(やや無理やり)よく出かけました。家に帰るときには日焼けで真っ黒。 ぼうずで帰っても苦にならず、雄大な自然に接するだけでも値千金です。
波や雲やまあるい地平線を眺めつつ、何にもしないで、一時、「ただそこにある」ことが出来ますね。
http://blog.goo.ne.jp/flatheat/e/14809d2d1e3b7e6607f41e287d428d37