気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

自己を許すこと・癒すこと

2009-09-27 12:06:08 | 心の科学分野

●こころを洗う

今、我々のまず為すべき事は何だろうか。

多分・・・、それは我々夫々の「思い」の浄化ではないだろうか。

それは自らが行なえるものであり、また自らしか行なえないものだ。

自分の「こころ」の洗濯である・・・・

ただし、こころの洗濯というのは、こころの中の汚物を洗い流すことということではなく、汚物と感じている様々な感情に意識の光をあて、キラキラ輝く体験・経験という宝物に変質させることなのだ。

●トラウマは夏休みの宿題のようなもの

トラウマやこころのしこりを、それを嫌なものとして捨て去る行為ではなく、それと対峙し、それを観て、その経験意味を悟ることなのだ。悟りとは究極の達成ではなく、1段1段と確実に登る階段にある・・と言うことであり、目からうろこを落とし続ける行為のことであろう。

その為には、自分の感情が訴える、その歪んだエネルギーの中で右往左往してはいけないと思う。感情の訴えは、我々に混乱や忌避を求めているのではなく、そこに、我々の「観るべき」重要なものがあるという意思表示なのだ。

 

●体験と体験する者の違いに気づくべし

我々は体験自体でなく、体験をする者なのだ。人生を演じる芝居の中の役者のようなものであり、役者は役の中で演じるところの二枚目や三枚目、悪役の役どころ、またそれが喜劇、悲劇のストーリーであっても、決して自己を失わないことと同じなのだ。

我々は間違いなく、体験・経験自体ではなく、それを体験している主体である「魂」「意識」という、人生の舞台を超えたところの役者なのだ。あるときは喜劇、あるときは悲劇、あるときは加害者、あるときは被害者として、この地球という独特のフィールド演劇に出演している。

未だ大勢の人間達はそのことに気付かずにいるのかも知れない。演劇の中の自己の役回りが、自分の思いや感情によって創作されていることに気づく段階において始めて、自己の演技、演出、体験を創造している役者である自己に気づくのだろう。他者が我々の人生のシナリオを描くわけではないことに気づく必要があるのだ。

 

●我々は無限に自己演出する役者のようなもの

役者が、単に役の中の体験演技にこだわり、その役どころで進行する時空舞台の演技という流れの中で、トラウマを作り上げることの「可笑しさ」に、今はもう気づくべきかも知れない。プロの役者ならば、気にするべきは、思いや感情によって創られる自らの演技の輝きかたであり、決して単に舞台の中の様々な物語自体ではないだろう。人生のある時は喜劇、ある時は悲劇の様相を呈すものだが、自分が役者であることを知っている者は、その様相自体に己を没入させず、そこにいる自己を、それを大きな視野で観ながら演技する者なのだ。

様々な気付きのレベル、段階において経験するものは、それを経験・体験することでその気づきのレベル、段階を超える為の後押しであろう。たしかに、経験しなければ一体何が解るものだろうか。体験・経験は大きな自己への気づき、理解を深めるためのものなのだ。それを創り上げるのは、自己の思いであり感情である。

 

●外は内の反映でしかない

目の前の机を、縦にしようと横にしようと、我々の魂の発露であるところの本質的な「思い」は何も変わるものではない。洋服を変えようと着飾ろうと、我々の内面は変わりようがないのだ。ゴッタ煮のような情報群を百科事典のように集積するだけでは、知恵や力には変わりようがない。

世界の多くの人々が外に向かって、いかに夫々の自己主張を行なうか、いかに相手に理解してもらうかに腐心している。それはベクトルが違うのだ。自らを理解するのは自らであり、それを他者に求めるのはまさに筋が違う。

外なる世界の諸物を、ここあちらと切り刻んでも、また統合しても、それはごまかしやお遊びでしかない。その前に、自らの存在として拠って立つところの、魂の発露である「思い」に対峙すべきではないだろうか。地球という、愛溢れる大舞台を維持する者は、役者としての人類の目覚めと感動的な演技、それを待っているのだ。地球という大舞台をここかしこ切り刻んで遊ぶような幼年期はもう終りかけている。

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●こころは体験の動的フィルター

自己の周りの世界を認識するのは、我々の「思い」と「感情」という内面の働きである。世界をあるがままに見るには、我々の中にある、こころの歪を探り出し、思い出し、それが単に経験と感情であることを認めるのだ。そうして、そこにあるかも知れない、怖さ、恥ずかしさ、憤りなど、内面の歪となっている感情を勇気と根気で解きほぐし、その噴出をそのまま開放するのだ。

こころは各人各人の体験のフィルターであり、我々の行なうべきことはそのフィルターを掃除することだろう。トラウマはフィルターに映る影であり、その影の原因である歪んだ思いと感情を、自ら癒すべきなのだ。

そうしたあかつきに、我々の目の前に映し出される世界・地球は、実に調和に満ちた世界でありながら、様々な生命たちの、かけがえのない体験と学びの場であることが理解されるだろう。

以前の記事の繰り返しになりそうだが、ホ・オポノポノの言葉は、実に簡単でありながら、広大な生命の海ともいえるこの諸世界の根源とつながる響きをもっている。

・・・

ごめんなさい

 許してください

  愛しています

    ありがとう

・・・

この言葉は、自己を癒し、自己の鏡である他者を癒し、全てのものが、全ての為にこそ存在している真相を表わしていると感じないだろうか。癒しは体験を、感謝すべき知恵に変質させるためのものだ。

実のところ、ここにも、どこにも、かしこにも、「許し」と「愛」と「感謝」に満ち満ちているのが真相なのだ。まさに宇宙全体は未知から既知へ、嬉しく楽しい実のある体験を続けている。

Nature1008

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。