気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今ある・無条件の愛

2009-01-08 08:13:28 | 宇宙的気付き

 昨今は「愛」という言葉が世界に次第に浸透するようになってきたような気がします。その「愛」という言葉そのものにたいする感覚にも、やはり一般通念上の歪みが付着しているかもしれません。これも洗い出す必要がありそうです。愛ほど難しいものはないと言われますが、それは人間の情感のみにイメージを限定しているせいかも知れません。なるほど確かに、人間の想念・感情は、無限の様々な色合いを呈するものです。そうなれば難しくてわけが解らなくなりそうです。

愛というものの1つの側面、単なる見解として、参考にして頂ければ幸いです。

 

●愛のイメージ

 まず感じるのは「男女の愛」というものがあります。一例ですが、戦後日本にも入ってきた、欧米流のわかりやすい男女間のloveの言葉から受ける感傷的な?イメージにも現われているかも知れません。 洋画などの最後のシーンに多くみられる、ハッピーエンド、男女、接吻、愛する、永遠・・・・このような映像イメージも、どこか無意識に刷り込まれている感じがして、どうも違和感がある(古い?)人も多いのではないでしょうか。

 性愛が愛の代表であるような宣伝?と捉えるのも、少し無理があるようですが、やはりどこかになにか違和感があります。

 男女間の愛のベースは、異性を結びつける身体レベルのエネルギーを基本とした、自然界にある一種の「親和力」ともいえます。男女間の愛は、家族を作り子育てをするという方向を、暗黙のうちに内包しており、人類種の保存、維持という、大きな枠組みの中にある、もっともわかりやすい形態の「愛」でもありそうです。異性であるからこその親和力です。

 相互に引き付けあい、そのフォースの中で様々な回転、展開をする天体間の引力と質的には同じようなものかもしれません。また静電気のプラス・マイナス、磁場の極性なども質的には同じものから湧出された「別表現形態」ではないでしょうか。しかしながら、自然界で身体を維持している、種としてのルール上にある愛ではあるものの、その在り様の中には、確かに理屈では説明が出来ないものがあるようです。

 

●家族の愛

 家族愛も、同じ血を分けた同族同士の、やはり身体レベルの関係を元に繋がっています。親子の愛といわれるものは、肉体を含む、家族という時間・空間を長く共有しているという連帯感も多分に含んでいます。

 ただ、家族の在り様の中には、共にすごす時間・空間による連帯感と共に、育てる、与えるという行為から来る「無償の愛」が多かれ少なかれ存在しています。また逆に、育てられる、与えられるという貴重な経験に、やがて気づくことになる、感謝に気付かせる「深遠なるポテンシャル」 をも秘めています。

 

●地域・国への愛

 いわゆる愛国心はどうでしょうか。本来ならば、やはり、これは異性間、家族間に共通した、肉体を含む、多くの家族集団とそれをとりまく環境に馴染んできた愛着や、同じ時間空間を共有しているという連帯感といえるかも知れません。  しかしながら、身近な者同士にある連帯感や記憶、育てる、育てられる、与える、与えられるという共感体験なくして「愛国心」など出てくるはずもありません。  過去の人類の歴史において、この愛国心が、どうしてか、排他心として宣伝され、煽られ、利用されてきたこともあり、その明確な違い自体に認識も出来ず、流されてきた集団の愚かさにも気づく必要があるのです。

 

●人類愛

 人類愛というのはどうでしょうか。やはりそれらを総合したものだと考えられます。観念の範囲が広いだけ連帯感が薄い感じがするものです。なぜなら自分に身近な身体レベルでの絆から遠く、地球上の各地域の文化や価値感の違いがあり、ましてや共有する時間空間は相当に薄いものと感ぜられるからです。漠然とした共感というものかもしれません。

 

●人類は今、「条件付きの愛」を経験している途中

 身近に感じる「愛」というもの、異性であるから愛せる。家族であるからこそ愛せる。国が同じであるからこそ愛せる。人類同種と考えるから愛せる。条件があっての愛ではないでしょうか。

 このように、社会一般的に言う「愛」は、条件付きの環境の中にあると考えられます。 これら人間社会で「築き上げるべき愛」 は、たしかに相互に調和と平和をもたらそうとする相互意識の現われでもあります。社会の中で、あらかじめそのような条件、関連付けがあるからこそ「愛」せるのです。

 このように、人に関わる「愛」というものは、人間関係の中での様々な刺激、体験、経験を通して、次第に意識的に気付いてゆくものですが、その段階においては、未だ、愛というものが、「人間の観念」であるとどこか勘違いしている段階であろうと思われるのです。

 愛が感情的だという歪み、愛は相互的なものだと言う誤解、愛は変るものだと言う利口そうなアナウンス、愛は所詮悠久の彼方にしかないというニヒリズム的逃避等。それら全てが、愛とは「人間の観念だ」と考えているからかも知れません。

 人間の観念はいつも揺れ動き、いつも変化し、いつも多彩であれば、なるほど「愛」など難しくて解らないものに感じるのも無理はないでしょう。 しかしながら、多分それは、全くの見当違いであると言えるのです。

 人間社会での「愛」は、異性、家族、社会、国家、人類という世界にあって、与えられた「生命」という仕組み、時空の舞台設定の中で、様々な人間模様を通して学ぶ事が出来る「恩寵」ともいえるでしょう。

 それらは、与えられた生命の関わりの中で味わえる恩寵であり、「愛」の形態ではあるものの、「無条件の愛」というものではなさそうです。相手の出方、人の価値観の違い、民族性の違い、国家のイデオロギー等によってコロコロ変るものは、本来の「愛」とは言えないからです。

 大げさに言ってしまえば、一般的には、人間社会での「愛」なるものは、「愛」であっても、「条件付きの愛」と言えるものかもしれません。

 

●無条件の愛はいつもそこにあるもの

 目の前にある「無条件の愛」に気づけるでしょうか。人間社会の「愛」を含む、「大いなる愛」といってもいいかも知れません。 今、生きてここに、在るという「当たり前」の「愛」に気づけるでしょうか。

 我々は、今この瞬間に在ること、存在していること自体が「無条件の愛」の賜物であると感じないでしょうか。人間の社会を含む、雄大な自然の中にある 「大いなる愛」 をなかなか気付けないでいるのかも知れません。

 (普通のこと)

太陽が、毎日昇ります。我々の生命全てに光や熱のエネルギーを与えてくれます。

空気のおかげで、息をすることが出来ます。

世界の人々は、喋り、怒り、笑います。仲間が大勢いてくれています。

町で擦れ違う多くの他人達は、何を言うでもなく、同じこの時空に存在してくれています。

木々には、時折鳥がやってきてはさえずります。そう、いつも異なる自然の音楽を聞かせてくれます。

青空は、抜けるように紫色に近く思えて、その無限につづく姿を見せてくれています。

水は、いつもほどよく冷たく、暖かく、身体の組織を循環してくれています。身体の7割は水です。

大地は、重苦しいアスファルトの下にもしっかりと存在し、いつも変らず我々を支えてくれています。

山は、我々以上の寿命を経ている木々が無数に生息し、何も言わずに地球全体に空気を提供してくれています。

海は、様々な生命体をその水面下に育ててくれています。

 

●愛は、確かに、無条件に与えること

 これらの当たり前のことの、どこが「愛」なのか?・・という感覚があるでしょう。愛は人為的なものという、我々の「固定観念」のゆえに、我々自身の目の前の真実を覆い隠しているようです。いつも見ていて、実は、何も見えていない真実とも言えるでしょう。

 それらの自然界の要素の、例えば、1つが無いとするならば、我々の生存自体があり得ないのです。それら自然を構成する要素の1つ1つが、自らの存在をそこに表し、自らの存在を我々に与え続けているからこそ、我々が生存し、成長してゆけるのです。

まず目の前にある「無条件の愛」に気付くことなく、それを「さも当然の普通のこと」 としている大いなる?勘違いに気付くことは可能でしょうか。

 

●愛は人為的だという誤解

 このような与えられ過ぎている程の大自然の中にありながら、一体何が不満で、不足で、面白くないのでしょうか。何を捜し求めて、何を獲得したいのでしょうか。なぜ人を恐れ、逃げ惑い、または仲間同士攻撃し、どんな理由で争うのでしょうか。

  多くの人間が盛んに作り上げようともがいてきた、人為的な「愛」は、愛という1形態ではあるものの、第2義的な条件付の愛であることに気づくべきでしょうか。それらは、宇宙、自然、生命という、与えられた「無条件の愛」の中にこそ存在出来ることに気づくべきなのです。

 

●愛は全てを1つと知っている根源意識

 我々を取り巻く自然界は、誰にもある親兄弟、肉親、恋人と同じ、いや、それ以上の「愛」を差し出していると感じることが出来るでしょうか? 我々の周りの全て、無限に続く時空の果てまでも、その1つ1つの要素が1つでも無ければ、今の「わたし」や「ここ」は存在し得ないということは、数学の証明など不要の「事実」なのです。

 人間社会における「愛」、恋人、友人、親子、社会にある「愛」、やはり与えることの中にこそ、その姿を垣間見ることが出来るのです。 

 今・わたしが在ることが出来るのは、全てが今・在るからこそであり、1部分1部分が全体の中のかけがえの無い、絶対にかけがえの無いものであるという理解こそ、「統合意識」というものであると考えられます。

 人類は、これまでは「他、多」の中に埋没し、その多様性の中で無限小まで自身を降下させてきたようです。実は「一 即 多」の多の面の部分・部分を探求してきました。枝葉の先のその枝葉までゆくのが降下ともいえるでしょう。そうして「多」の因である「一」に真に気付いてきたのです。

一即多、「無限の多様性」は、すなわち、「一なるもの」からの派生であることを示します。全ては大いなる自分自身であること、「愛」なくして「無限個の自分」が創造される事もないでしょう。森羅万象も、他人も、つまるところは、全て別の「自己」と言ってもいいのです。

あらゆるものが、自分、親友、恋人、親、兄弟よりも無限に近い存在である・・と言ったら言い過ぎでしょうか。実は、「全て」が「一」であること、多様性のすべてを繋いでいるものが「愛」というものでしょうか。

 

●今生きている目的?

 今、ここに生きて在ることに、心から感謝の念を発することができるのは、それこそ実に誰にも単純なことではないでしょうか。考えてみれば、いつでも、誰でも、何処でも出来ることでした。それが最も難しいことのように思う観念が歪んでいるだけのことでしょう。確かに、誰かがやれば真似ができるような集団行為のものでもありません。

 その簡単な、当たり前の、今も、そしていつもここに在ること自体の「愛」に気づくこと、実はこれがこの世界に在る理由でもあるようです。確かに、まさにそのとおりです。

 様々な人々の社会的生存プロセスの中にはあっても、各人の通する目的は、このいつもそこにある、すでにある「無条件の愛」に気付くことでしょう。 我々皆に共通する問いかけである・・・生きている理由??とは、そのものずばり、全てのおかげで、「今」生きて在ることを知り、心から感謝出来ること。・それがその「理由」だと思います。 

 多くの無条件の愛に囲まれてあることを知る。今ここにいる、多くの我々の「魂の学ぶべきこと」なのではないでしょうか。無条件の愛」がすでに与えられていることに気付く事。 これが今生きて在る目的の1つだと考えられるのです。

 Nature1014

本日もまことに拙い記事をお読み頂き、ありがとうございました。