気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

アセンションとは?(2)意識進化の通過点

2009-01-04 12:17:36 | 宇宙的気付き

 アセンションとは?それが何なのか?という理解を得るために、行なうべき必要な認識のプロセスの1つと考えていただければ幸いに思います。

 

●世界は波動で構成されている

 いわゆる科学的解釈といわれるものは、現象の観察とその法則化というプロセスを行なうものであり、自然界の理解の方法の1つでもあります。デカルト以降の物質と思索を明確に切り離す作業をもとに、純粋?的な物質科学が今まで進展したものです。しかしながら原子の微細構造までたどり着き、それから先の観測・観察が不可能なレベルまで至っています。

 観測する為には光、電磁波を当てて、その反射映像を見ることが必要ですが、微細な素粒子なるものは、光を当てられてしまえば、本来の姿、運動自体が変質してしまう為、素の状態の観察が出来ないということです。

 これは簡単に言ってしまえば、全ては波動形態であり、波動と波動の相互干渉により全てが生じていると考えるしかなく、丸い硬い物質なるものは本来無く、あるのは波動の変幻自在な性質のみがあるということなのです。

 全てが波動であれば、必ずサイクル・周波数や波長というものをもっており、よく目にする交流・サインカーブもそうです。上がっては下がり、右に行っては左に行くように見える「サイクル」が本質といっても良いだろうと思います。

 

●1プラトン年の終端時期

 地球の持つ最も大きいサイクル プラトン年とも言われる約25,800年の周期は、地球自身の歳差運動によるものであり、星座との関連で言えば、黄道12宮を一周するサイクルでもあります。誰しも見たことのあるコマの首ふり運動がその相似現象とも言えるでしょう。

 それは地球の自転と、太陽、月、太陽系の諸惑星の引力場、電磁場等の諸要素で起きているものでしょうが、自転周期、公転周期、そして全宇宙との位置関係を変えて行く歳差周期は、おそらく、地球自身が持つ属性としての最も大きなサイクル(周期)ではないかと思われます。  

 通常の解釈では、単に1つの天体現象による単なるサイクルではないか?と片付けてしまうのですが、意識進化という観点からこれを見た場合には、ある意味、進化のための重要な1サイクルでもあるだろうと考えられます。

 宇宙、天体、物質という現象化されたものの裏に在る意識的な意味合いを感じようとした場合には、地球という現象ステージ・舞台の為の設定のようであり、また、あたかもどんな物語の流れにもある「起承転結」のような1回りを表すような気もします。

 

●雄大なる地球圏の意識進化サイクル

 この地球の歳差運動は、この地球自身の持つ最も大きなサイクルであり、また宇宙に於ける地球独自のアイデンティティーを表すものだろうと言うことです。

 なぜかこれらの周期が、いわゆるアセンション、シフト、変移、上昇などとリンクしているようです。1周期、1次元、1時限、1サイクル、第1密度、第2密度、第3密度、第4密度、第5密度・・・これらは悠久の時間という形式に展開した、地球の絵巻物のストーリーを解き明かすヒントでもあるでしょう。

 あまりにも大きすぎると感じる、この歳差周期は、地球のステージの変わり目に関わっているようです。アセンションやそのシフトの「時期」といわれるものが、なぜこうもいわゆる2012年前後なのかは不明としても、確かに昨今は何らかの今までと異なったエネルギーが地球圏全体をとりまくフィールドにも現われてきているようであり、物理科学のレベルからも、異常な宇宙線の観測や太陽活動の変則的な挙動が注目されてきています。それ以上に激変しているのは、人類のアンダーグラウンドの意識とその顕現である社会の在り様であり、あなたやわたし達のこころの在り様ではないでしょうか。

 

●地球という惑星生命学園

 我々は学校教育を経てから社会に出てくることで、もうそのような規則的な学習は終ったものと思っています。社会にでてからは、仕事や自身の興味にしたがって、ある人はさらに知識を深め、人生での体験や経験によって様々な事柄を学んでゆきます。

 そうして、人によって千差万別ではあるものの、次第に意識作用(思い・感情・行為)を広げ、深めてゆきます。今の経済中心の時代には、魂の成長なるものへの意識は少なくなり、目先の生活にその注意が奪われているということはあっても、毎日、毎年の繰り返し(サイクル)の中で、結果、確実に蓄積されるのは、意識の経験知ともいえるものです。

 お金や物は現われては消える相対的で、不確かな物であることはもう十分理解しています。借り物である身体も、次第に衰退し、露と消えるときが来るのです。

 

●生死を越えた生命の在り様に気づく

 「生まれる前と死んだ後」のことは、科学的な証明不可能ということで、想定外のカテゴリーに打ち捨てられていましたが、それも終りそうです。

 前世を記憶する多く人々・子供達の証言とその追証が、アカデミックな分野からも出てきています。物質・粒子のイメージに固定された考えかたにこだわる人々は、たかが物理・化学などの小さなツールが、宇宙全てを理解できるものであると言う「誤謬」に陥っています。いわゆる無知の知への、観の転換が未だ出来ない状態でしょうか。

 

●物質は意識の表現形態

 全て物質に依存しているという考えかたは、最もわかりやすいものですが、我々が想念を発しているという事が理解出来るならば、それらが眼に見えない不確かなものであるという考えは妥当でないことに気づくでしょう。

 想念も意識の形態であり、物質レベルの何物をもっても壊す事等できない代物?であるということに気づけるでしょうか。思考自体を「剣」で切ることは出来ません。意識作用である思考が、「剣」を研ぎ、「剣」に仕上げるのです。

 

●「思い」すなわち「物質」表現

 このように、物質・頭脳があるからこそ、その中での意識作用ができるのだという思考は、多分に短絡した考えかたであり、丁度そのような意識というものが在るからこそ、同時に、そのような物質や頭脳がそこに在るということなのです。

 ニワトリが先か卵が先かという無限ループ的な議論にはまり込む事はないのです。思いが現象化するということが、実生活の体験などで気づける人々はよく理解が出来るかもしれません。時間というものは、その理解の程度に応じて早くも遅くも流れるものです。

 

●木を見て、かつ森を観るべし

 いわゆる唯物論者は、例えば「読書」を楽しめない状態とも言えるかもしれません。本などに興味は無く、外側の本の材質、紙の種類、重さ、金額のみを見ているようなものであり、本の中のストーリーや展開を楽しみ、ましてや作者の意図や創意など感じる余裕にまで至っていないということかも知れません。

 読書は文章を通じて、眼に見えないものを感じ、感動し、思い巡らす行為である訳ですが、ある人にとっては、外側の明らかに見える物だけが観察対象であり、その内面の観察にまで至っていないようなものです。人生においても、その外側の在り様だけに目がゆき、その因であり、それを体験・観察している「わたし」というところに意識が座っていないようなものです。

 

●第3(霊性)密度とは

 スピ系情報でよく出る第3霊性密度というレベルは、確かにそういう状態であろうと思われます。「わたし」という自己認識、人間であるという認識はあり、自他との違いに気づき、環境、社会を観察しているのですが、

 観察主体である、その「わたし」自身に十分気づいていない状態とも言えるでしょうか。

意識対象が、人生・環境という、目の前のスクリーンのみに釘付けにされ、無力感を持ちながら一喜一憂しており、それを見ている「観察者」である本来の「わたし」が、まだ十分立ち現れていないとも言えるでしょう。

 3次元的な個体・個別・分離意識レベルとも言えます。外に依存しているだけの小さな物質的存在であるという意識状態です。「わたし」は誰でしょう・状態まで至らぬ意識とも言えるかもしれません。

 

なるほど、あのマハラジが、繰り返し言う 「わたしは在る」 は、極めて重要なメッセージということが理解されます。

 

●宇宙の自己認識の進化(一即多の展開)

 壮大で無限な大いなる意識は、宇宙という1つ1つの時空舞台の中で、それこそ、そこここで、鉱物、植物、動物などの生命表現として、無限の個・自分自身として立ち現れていいます。

 そして、その生命段階を経ることで、次第に、自分自身で在ることに目覚めてゆくプロセスを経験しているわけです。この気づき、「わたし」の発見は、おおげさに言えば、物質の海の中から上がってくるような転換でもあり、またおのれ自らが目覚めるようなものでもあり、確かに1つの意識進化の「転移ポイント」であると考えられます。

 人間が自分自身を無意識に意識しているような、漠然とした自己認識レベルから、無限の可能性を背景にした自分自身であることを意識し・理解する段階への飛躍といっても良いかもしれません。

 「わたし」というものが、単に大勢の人類の中の種の1つの個体である、有機物質的な存在であるという観点から抜けだし、「意識」(魂・霊)という無限性を持つ存在であるということに気づくことを、「覚醒」といっても良いでしょうか。

 全てが全部解った、真っ白で完全な夢のような状態というものではなく、単に、「意識的」な自己認識をし始める段階のことです。誰かに言われたからそう思うような、他者依存的思考ではなく、どうしようもなく自分自身でそうである!という思考と実感を伴う知識を有した段階とも言えるでしょう。

 この世界の様々な体験は、そのための肥やしのようなものであると言っても過言ではありません。 鉱物・植物・動物・人間という生命進化のプロセスは、それこそ無限の「あちら、こちら」で、おのれ自身への目覚めのプロセスが行なわれていることを示しているということができるでしょう。 それぞれの生命表現の形態は、その意識進化レベルの多様性として、あの光の七色のスペクトルと同じように枠組みがありそうです。

 あらゆる生命には明確な成長の意思があるために、それらを体現する存在達の意識の在りかた、気づきの程度によって、その体験フィールド(世界)にも、やはり向上を促す階段・ステップのようなものもあるに違いありません。

 

●神はおのれを無限に知っている

 「おのれ自身を知れ」という言葉は、そのおのれ自身を知ってゆく経過で、次第に自己認識の範囲が広く、深くなるような、いわゆる神の自己想起のプロセスでもあるでしょう。無限を無限に表現することが、神の「自己想起」といわれるものです。無限の自分自身を知るからこそ、常なる進化、変化はそのための必然的な属性ともいえます。

 

●アセンションは意識進化プロセス上の1つの通過点

 この、無意識に近い集団的自己認識レベル(浅い神の自己想起レベル)から、その自己意識の無限性に気づくという段階 (より深い神の自己想起レベル)に、なることが、実はアセンションという言葉に込められているのです。あわせて、数万年といわれる、一定のサイクルで何か行事のようなイベント等という地球・宇宙規模の様相をも覗わせるのは、それが宇宙の進化への明確な意思でもあるからだと感ぜられます。雄大な時という流れでまどろむことも自分を見失う事も含め、ゆっくりと確実に自分自身であろうとする「大いなる意識」を感じるはずです。

 

●進級・進学と相似なイベント?

 小学校などでも色々なカリキュラムを経て、次第に知識が増え、自己認識、自己アイデンティティを深めていきます。内容の事はさておいて、そのような仕組みがあるのは、学生の成長を促すのが目的であるのは火を見るよりあきらかです。そこには社会人となるための意図があるものです。無軌道に学校等があるわけもありません。 それは、単に、いわゆる第3霊性密度から第4、第5霊性密度といわれる「学級」へのシフトなのでしょうか。しかし進級するのに何の問題もないものです。問題があるとすれば、当然我々のこころに単に宿題を隠し持っているだけ(笑)のことでしょうか。

 

●しかし、なぜ今、そうなのか?

 しかしそのような大きなシフトが、なぜ今?なのか、という問いかけは、自分自身の潜在意識では理解できるだろうと思います。「今」がいつもその時なのですから、その「今」にある「わたし」・・が明瞭になる分だけ、その状態に近づいているといえます。大いなる自己の無限性に「はっ」と気づき、今までの苔むした概念群を記憶というオモチャ箱にしまい、身体レベルの固形想念・情念をも含めて開放し、少しづつ浄化する方向に進む事、・・・これがアセンションの基本プロセスであり、転移であり、グレートシフトといわれるものであろうと考えます。

 

●両極性の統合  

 人生で得られるものは、経験、体験とそれらによる気付きの数々であり、それら自体が貴重なものであると言えるでしょう。実際、内容がネガティブであろうとポジティブであろうと、体験や経験と、それらに対する意識作用(こころの反応)、それなくして何がネガティブなのか、何がポジティブなのか「真の知識」は得られないものです。真の知識は消えることがないのです。

 人間を演じている「意識」(または魂・霊)があるからこそ、丁度そのような肉体や、環境、人生が在るのだということに気づけるでしょうか。このような考えかたにはなかなか馴染めないかもしれませんが、よくよく調べてみると、物質をこね回すだけで進化があるものだという信念体系の中に居ることに愕然とする時が来るでしょう。

 そういう意味においては、ネガティブやポジティブという両極性も、同質のものであることがわかります。結局は、等しく有意義な体験、経験でもあるのです。色んなことも全てがありがたい経験であるということが出来れば、束縛から外れ、そこではじめて自由な選択が可能ということでしょう。

 執着・恐怖・こだわり・偏愛等は「葛藤」というものになり、そこに自分自らを自縄自縛してしまうのでしょう。波動的に言えば、いわば定在波になり身動きが取れなくなるものです。両極性の間で揺れる定在波であれば、そこに自分自身を固定する事になるようです。

 

●もう葛藤を外す時期という意味

 シフト間際のエネルギーの圧縮された時間空間では、この「葛藤」という歪に注意をすることが絶対に必要とも言われます。「光の12日間」(ゲリー・ボーネル)を読んだ方はご存知かもしれませんが、そこには、「葛藤」の解消、それだけがアセンションというプロセスに於ける「振るい」を通り抜けるものだという事が書かれていました。私自身も、これは頷けるものであろうと思います。葛藤は闘いであり、闘争であり、苦しいストレスであり、自己嫌悪であり、他者憎悪であり、優越意識でもあるようです。

思うにこれは、「自分自身同士の葛藤・闘争教訓はもう十分だろ~」 という、大いなる宇宙からの意思表明であり、その中に不可思議で雄大な「愛」や「思いやり」を感じたとしてもおかしくないのではないでしょうか。

 

●アセンションは同時期の、悟りへの促し

 「悟り」は単に、そぎ落とす意識的行為であり、元々もっていない架空の価値観を捨て去ることなのです。ある意味、絢爛豪華たる待遇や、はたまた阿鼻叫喚の騒ぎなど元々持っていなかった自分の事実を思い出すことでもあります。様々な体験・経験は全て良しと感じながら、無限の愛である我々自身を思い起こしてゆきます。

確かに、あれもこれも、それはそれで、今は、全て「よし」なのです。

 

●アセンションの時期

 ある意味、地球、動物、植物それらの全てが、ある一定の自己変容を促されているようです。促しは自身の内部からのものですが、同時に外からも来るように見えるものです。

 地球レベルでいえば、地球のガイアからの成長変容意図と呼応するような、無限なる宇宙からの途方も無い、静かな波動、具体的な地球外部からの存在の援助もあるでしょう。

 また個人レベルで言えば、個人の意識表面での向上意欲と、内面の真自我(ハイアーセルフ)からの援助も確実にあるでしょう。

 それら多くの援助や愛、思いやりに真に気づいたとき、丁度、「今」がその時期であったのだということが、実感、理解されるのではないかと思います。   (了)

081204

 

本日も拙い記事をお読み頂き、誠にありがとうございました。