気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

時空は意識の1形態

2009-01-18 14:59:15 | 夢及び半覚醒時の体験記録

 数年前から、当初は何か画期的なアイデアや事前予知のような情報が得られないかな?程度の気持ちで、夢を憶えておこうと意識しました。それがいい加減な気持ちではない事を行動で示す為に、枕元にノートと鉛筆を用意しました。実は、このようなことをされる人は結構多いようです。また、斬新なアイデアや難しい状況の打開策などは結構このような形で出てくるようです。

 ちょっと極端とも思える意識体験のほんの一例として、体外離脱を経た宇宙探索のようなものをご紹介します。顕在意識から感じる時間としては、ほんの数秒ですが、相当な時空を移行した感覚があります。宇宙空間に関する、夢・半覚醒時の意識体験は他にも多くありますが、自分にとって何か重大な疑問等?がある場合に、ふとある時に、それに関連する映像等を見るような事でもあるかなという感じもます。ある意味、質疑・応答のような、そんなものかも知れません。その情報アクセスともいえるものは、内面意識を通してのものですが。

 ちなみに下記の文章の「遷移」とは、現実とは異なる意識体験モードに入ることを示します。例えていえば、意識周波数、チャンネル上の変調のようなものという意味です。これらは意識的な体験談というべきものであり、何かの功利性や利益や、また、そのための証明をするものではないことに注意をしておく必要があります。他者への弁解めいた物的証拠提示は難しく、そこには、それら似たような経験した人だけにわかる事実というものもあるのです。

●意識体験例1

 「宇宙への飛び出し経験?・体外離脱?」 2年程前

フェーズ① (初期状態)

 ある朝、うとうとしている状態から、次第に目覚つつある状態に気付いてきました。体は布団の中で仰向けに寝ています。目を瞑った瞼の中の映像はいつものように、薄暗く、外界の薄い光などがウッスラと滲みこんでいるようなものでした。

フェーズ② (体脱的遷移)

 そのとき、不思議なことに、顔、頭の部分、つまり、いつも自分の意識がありそうな感じの部位が、なにか小刻みに振動している感じがして、その自分の意識がある?といつも感じている視覚のある顔・頭部?の辺りが、「ずぼっ」「ズバっ」と言う、音のような音でないような衝撃波的波動を伴って、上の方に抜け出てしまいました。

 R・モンローの記述やへミシンク等でよくあるように、順次にフォーカスレベルを経るような、ゆっくりとした離脱ではなく、もういきなり「ズボッ」という体脱体感であり、へミシンク的に言えば、直接的なフォーカスレベルのジャンプのようでもありました。

(ただ、その移行プロセスを憶えていないのかも知れないし、なにかの強力な援助があって為されたものかも知れません。)

フェーズ③ (遷移後) 

 これにはビックリする暇もありません。気付けば、一気に地球の大気圏の上に出ているようでした。ただ、周りは天体写真のような鮮やかさはなく、間違いなくそうであるとわかるものの、かなり薄暗い映像を見るようなそんな感じです。

フェーズ④ (意識的選択)

 その時には好奇心のみがあったようであり、不思議なことに全然怖くも何ともなく、「よし、ここが宇宙空間ならば「月」にいってみよう」と思ったようです(笑)。そうすると、ちょっと移動しているような感覚の後、相変らず薄暗い映像ではあるものの、クレーターを伴った丸い巨大なものが見えてきました。視野は暗いのですが、すぐに月だと判断できます。「自分の視点」はその月のかなり上空を北極辺りからやや斜め切りのように一回りしたようです。

 よくある観測衛星のような近距離ではなく、丸い月の輪郭が視野の中に常に留まるようなそんな離れた距離感です。視野映像は、残念ながら観測衛星のハイビジョンのような高解像度ではありません。昨年のあの「かぐや」の周回の、もっと上空からであり、自分の場合、色の鮮明さや解像度、コントラストが未調整のような、ぼんやりしているような映像のようでした。

  その後に探索を思いついたのが、地球から見て2番目に近い天体でした。(火星か?金星か?残念ながら憶えていません)・・今度はそれが一挙に近づいてきました。移動しながら?見ている映像は、やはり白黒のようなそれもコントラストがぼんやりしている感じです。これは何か白っぽい天体に見えましたが、ぼんやりで特定はできません。

フェーズ⑤ (遷移への乖離感の増大)

・・という間に、「事の異常さ」に気付いて来たようです。「これは普通の夢ではない!・・」と言う感覚が急に込み上げて来たのです。こ、これは、まずいかも!?、「ちょっと怖いな!」「戻れるのか?」みたいな、怖い感じになってきました。

フェーズ⑥ (遷移からの帰還)

・・・・と気がつくと、あっという間に、急に重力に貼り付けられたような重量感覚を伴って、布団の上に意識が戻ってきました。身体の重量感を普通以上に感じます。

フェーズ⑦ (現実感覚への復帰)

・・・あ~っ、夢だったのか?という感覚はいつもの夢から覚めるものと同じですが、普通の夢でないのは分かっています。朝目覚めた後であり、体が動き始める前の、意識だけがハッキリした状態であるのは間違いのないところです。

 

分析と所感>

・身体は寝ているが、意識はハッキリしている状態であるため、普通の夢とは違うのです。

・体外離脱など意識していなかったが、そのような現象が起きたこと、これは無意識レベルでの選択であったようです。または高次の援助か何かあったかも知れません。

・かなり強烈に離脱した感じであり、衝撃波ほどではないが、何か殻が上の方から破れたような、またピーナッツの殻に穴が開いたようなそんな感覚でした。

・普通の日常の意識(習慣化された顕在意識)では到底、そんなことをやろうとも、出来る事とも思っていないわけです。昔から宇宙には親しみがあるものの、日常の観念では、そこに飛び出そうななどと考えること自体があるわけもないのです。

・なんと大気圏を抜けた?と知ったときにも、恐怖がなかったのが不思議です。普通の夢であっても、ビックリするような事は時々ある訳で、そのような時は通常は怖い夢として一気に目が覚めてしまうものです。

・視野に展開したのは白黒的な映像のようであり、霊視・内観視のような感じです。要は、それを確実に知覚・認識しているが、あたかもはっきりした光が当たっていなくて暗がりで見ているような、そんな知覚。・・慣れていないせいだろうかとも思えるものです。

・そのような意識体験中、時間が経過するにつれ(ほんの数秒感覚ですが)、非常識ともいえる目の前の映像に気付き始め、「怖い」という感覚が現われてしまい、その瞬間に一挙に戻ってきたのは、多分、朝の寝起きから、意識に次いで、肉体機能も次第に活動を始めてきたせいだと思われます。いつもの肉体感覚主体の顕在意識がめざめてきたからでしょう。

そのフェーズの移行の意識感覚かなり微妙であり、前半と後半の違いは、途中で急に「怖い」という感覚が出てきたことではないかと類推されます。

まとめ>

 意識が目覚めた状態での視覚映像、体感であり、決して普通の夢ではないのは自明です。また日常の物理レベルの五感によるものでもない。あたかも「リモートビューイング」のような「遠隔知覚」に近いものです。単なる映像だけではなく、初期にあった強烈な「体脱」感覚も付随しているのは、なにか自分の高次のボディ?と関連していると考えられます。また体験した内容には時間という経過があって無きがごとくに感じられます。月や火星?をビューイングするのに、寝起きの布団の中では数秒の経過しかありませんでした。

・・・・・・・・・・・・・・・

 

●日常体験も夢も、同じく自己内面への知覚作用

 前回は夢とハイアーセルフというテーマの記事でしたが、現実生活体験も夢体験も、自分が体験しているということには変わりがありませんが、我々の体験の多くが日常の五感に馴染んだものであり、それ以外は存在しないという、短絡的な無意識の思い込みが根底にあるものです。

 夢の中で見るものは、肉眼視覚でのセンシングに基づくものではありませんが、それが確かに見えているという自覚は、 結局は、日常の五感刺激を元にした体験と本質的には変わりがないという事です。夢を見ているときも、その内容を内面の視覚映像や音声等ととして捉えているという事自体は変わりがないからです。

●五感の知覚は「小さな窓」からのぞくようなもの

 普段の五感のセンサーによる一般的体験か、それをバイパスした(ジャンプした)体験かの違いであり、何らかの情報を「わたし」が得ていることには変わりがないとも言えます。五感による体験が全てだと考えるならば、五感の眼に感じる可視光の波長域や、音の波長域や、皮膚振動の感受波長域が、極めて限られている現状をどう考えるのでしょうか。

 我々の五感のセンシングは、光、音、振動などの全波長域のほんの1部しか対象としていないことは、あたかも、五感自体が極めて限定された「小さな窓」のようなものであることを示しています。そんな小さな五感の窓だけを「全て」として、無意識に決め付けることは、多分に自らを局限した思い込みとしか考えられないのです。

●五感の小窓は開け閉めできる

 日常の世間的な生活の時には、知覚の窓は小さな窓のようですが、顕在意識による先入観が少ない状態では (眠っている時など)、その知覚の窓が大きく開くようです。

 言葉を変えれば、普段の意識状態でない「変性意識」状態ではその条件が整うようです。変性意識と言っても、そのままの身体状態で、五感の刺激から意識の焦点を、ゆったりと内面に向ける状態で得られる意識であって、決して酒や薬物その他の作用での意識変異状態ではありません。

 具体的にそのような条件が整う状態は、瞑想状態や睡眠中などがあります。普段の状態でも意識の焦点が外界の刺激に惑わされなくなれば、いつでも内面からの知覚が可能なのですが、如何せん現実の社会生活の中は刺激に満ち、あまりに慌しいものため、そのような「知覚が広がった意識状態」を維持することは、なかなか難しいのが現状です。

●肉体・物理次元を超えた「素の意識」

 寝起きの状態とは 「身体は相変らず眠っているが、意識が起きてきている」状態のことです。 多くの人は、毎朝の、この目覚めるプロセスを無為に通過しますが、何かに意識的になると、その短い移行期の意識状態においては、その答えというか情報というか、そのようなものが、「映像」や「音声」または「明確な感覚」等としてこころの内面に現われてくるようです。

 この寝起きの状態は、普段の肉体五感を主体にした習慣的な意識に今だ戻っていない、今だ覚めやらぬ状態、「素の意識」が出ている状態の1形態とも言えます。そらは、先般の記事では、高次の自分(ハイアーセルフ)の一端という表現をしました。

 「あれは出来ない、これは無理だ、これは経験がない、こんなこと出来っこない・・・」等という肉体経験に元づいた常識的習慣的な意識 (五感を主体とする顕在意識) が眠っている状態では、多くの可能性を拒絶しない、広い意識状態になるものです。

●意識と物理空間・主観と客観

 このような体験は意識体験といわれ、主観的なものとされており、一般の科学では今だその範囲外にあります。しかしながら、物理常識的な観念から逸脱するような現象が、最近は増加しており、それは「意識」と「物質」との相関を示すものです。

 新しい時代・ステージでは、このような「こころ」「意識作用」と、今まで慣れ親しんだ「物理的 時間・空間」の相関が明確になると考えられます。 例えば、あのセロ・マジックに伺える不思議なパフォーマンスは、手品というカテゴリーを遙かに越えている為、今の時点では、笑って楽しむしか?対処の方法がありません・・。

●いつも有るのに見逃してきた「意識」という要因

 何か妙にシンクロする。偶然としては出来すぎている。思ったことがそのとおりになった。予感が当たった。相手の気持ちがわかる。こころを入れ替えれば環境条件が変った。古い観念が脱落する大きい出来事があった。夢で人にあったら、その後現実に起きた。

・・・等等、このようなことは我々の日常生活でもよくあることですが、今までは「偶然」というゴミ箱に捨ててきたようです。それに意味を見出せない、また意識していない状態でもあったのでしょう。夢や変性意識での体験、直感知、いわゆる超感覚的知覚、テレパシー、予知、遠隔認識なども、全て、人間の意識作用、知覚作用に関連したものです。

これらを説明するためには「高次の意識」、高次元からの俯瞰認知などというものが想定されざるを得ず、これら高次ともいえる意識が自分たちのこの生活空間に滲み出していることを示すものです。肝心なところは、「気付き」「認めなければ」現われないということです。

●結果のみの世界から因を扱える世界へ

 単に物質のみの時間空間認識から、意識という「因」側の要素が、明確に現われてきたものでしょう。それを単なる心理的な偶然として無視すれば、今までの物理次元に囲われたままとなるわけです。また意識的な要素に気付き、その責任と無限に開かれた可能性に対して恐れをなさず、先に進んでゆく勇気があれば、さらにいわゆる高次元ともいわれる展開への道に乗っていると言うことだろうと思われます。

●先端科学も意識を発見しつつある

 しかしながら、素粒子、宇宙論などを含む、ここ数年の科学の最先端からも、宇宙そのものが部分部分と絶対に不可分の調和をもって展開しているという見解がなされつつあるようです。原子・分子に分解してきたその先にある、それらを含む宇宙・存在界全体の調和や同時性の発見です。まさに壮大な「意識的宇宙像」が現われつつあるようです。

 あたかも、美術絵画を鑑賞するために、バラバラの個別の素材の分析(分離)から始め、やっとのことで、その絵画の全体を眺めて感動できる段階(統合)になってきたようでもあります。

●精神の復古

 お金や地位や名誉などは、それを経験したい段階の人間達にとっての、その得がたい経験知としての意味しかありえません。逆に、精神修養、人徳、思いやり、等の人間の質の向上がとんでもなく重要であるという、古代から細々ながらも延々と続いてきたメッセージは、やっとその証拠を含めてクローズアップされてきたようです。

●人間は肉体だという文明の行き着く先

 わたし達は主として肉体感覚をもとに毎日の生活を送っているわけですが、わたし達というものが肉体だけの存在であるという短絡した観念体系が、社会を覆いつくしているようです。こころの清らかさや大らかさ、感受性や気高さ等といった高度の意識的な要素は、得にならないものとして、2次的3次的な扱いをされていたのです。要するに「物質偏重」文明であったわけです。今の世相は、まさにそのように現われているのです。

 肉体だけであれば、皆バラバラの個体であり、どうせならその中で知恵を使って、自分だけいい思いをしても、何も問題ないと考えるものです。どうせ死んで終わりならば、人が気付かなければ、好きな事やるほうが良いと考えるのも無理はないことでしょう。またわけがわからず生きていることや、隙あらば何をするかわからない人々の中では、「不信」と「恐怖」が蔓延することになるかもしれません。かろうじて法律というもので「律する」ことを除けば、頼りになるものはないと考えるでしょう。

●人間は身体・こころ・霊の統合存在である

 人間存在は、肉体だけがポカーンとそこにあるような「偶然の産物」ではありません。また精巧な有機的機械でもありません。人間は無限に意識的な存在であり、「身体・こころ・霊複合体」としての存在です

 「今ここにある」あなたやわたし達にとって、最も大切なこと、人間の本質は、こころ(意識作用)の拡大・昇華・進化にあることは明白ではないかと思います。その根本に在るのは、「今生きている」という事実であり、「」という瞬間であり、全てがというものでつながっている、この「調和に満ちた溢れた宇宙の真実なのです。

 自然や社会、身の周りにあるあらゆる現象の中に、そして、そこに現われている「愛」や「慈しみ」を感じることが出来るかどうかが、文字通り「目の前」にある喫急の課題またはテーマともいえるでしょうか。

汝が信じるごとく汝になる」という過去の聖者の言葉は、主観と客観を超えた真実を表しているようです。

・・・

 (つづく)

 Nature1006

 

本日も拙い記事をご覧頂きまして誠にありがとうございました。