十牛図の最後は、入テン垂手(ニッテンスイシュ)。
”テン”はJIS漢字第一水準にないのでカナ表記だが、古語で「市場」の意味。
入テン垂手・・「手をだらりと下げて、市場に入る。」の意。
気楽に、のほほんと・・そのまんまで・・巷(ちまた)にいるようなものだ。(笑)
何が良いも悪いもない、ただ在るがままにすべてが起きている。
またそれが怖いことだという事はない。
あれこれ評価して、どこか自己利益ではじく「そろばん」も持っていない。
計算高い人は、人生での「そろばん勘定」が、いつも合わないので悩んでいる・・(笑)
そうではないか?
そう、本来何も持っていないのに、そろばんも必要はなかったのだ。
片意地張って「俺に逆らうなよ~!」も必要はなかったのだ。
すこしづつであっても、確実に、
あらゆる全ての元にあるマインド・こころが浄化され、
あれこれ、あちこち、恐怖を伴うがゆえのマインドの迷走が消えてゆき、、
生きて<今>在る・・体験そのものが、シンプルに、かつ趣深くなる。
意識でフォーカスするのは、様々なコロコロ変わる迷妄観念でなく、
今在ること・・への驚愕の事実。
その生きて在る・・ことの、真髄の中に留まること。
そう、そこで起きているのが存在、宇宙という奇跡なのだ。
OH、MY GOD!
・・・
その中では、わたしもあなたも全く・・在る・・存在・・として、
ひとつであることがわかっている。
わかっている・・とは、
それは思考ではなく、・・感じるというか、それしかないというか、
ダイレクトな直覚というか、そう・・、悟る・・というか、
理由なき突然の気づき・・というか、
言葉では表わせない・・ので、<在る>という表現になるだろう。
わたしもあなたも全く・・在る・・存在・・として、
ひとつであること、
ひとつとは、1個2個のカウントでなく、・・ひとつ・・
重なって融合して、一体ということでなく、・・ひとつ・・
システム全体、宇宙全体、あらゆる全てが・・ひとつ・・
あなたもわたしも、それ・・ひとつ・・
例え「相手個人」は分からずとも、
「こちら」が分かっているということだ。
それで十分なのである。
なぜなら、わたしの世界には<わたし>しかいないからである。
ここは、・・・本当に・・魂の中から・・把握すべきことである。
あなたも、誰もみな・・そう。
おい、おい、究極の個人主義か~?(笑)
これはパラドックスのように聞こえるが、
ひとつは無限であるということ。
多はひとつであり、一つは多であるということ。
相手に期待するのは、相手個人に何か、望みを託しているという事であり、
まだ<わたし>は、わたしのことを、本当には分かっていないということである。
なぜなら「ねー、私のように、分かってください・」
と求めているからである。
<わたし>しかいない世界に、どうして他者を求めるのか?
世界には<わたし>しかいない、私も、貴方も、誰もみな・・
<わたし>なのである。
宇宙の中のどんな小さなものも、宇宙全体が無ければ存在しない。
そして、逆も真、
宇宙の全体も、小さなものたった1つが無ければ存在しえない。
わたしとは、私個人ではなく、貴方個人ではなく、
決して宗教的誤解を含まないで謂うところの、・・「かみ」である。
人として現れている、今・それ、単純に「神人」だ。
あなたはそれだ。
これがきれいごとのように聞こえるのは、
単に・・、古い思考、マインドの曇りのせいだと思えないか?
入テン垂手・・「手をだらりと下げて、市場に入る。」
余計なマインドは決して留まらない。
マインドは現れては消える雲のよう。
何が良いも悪いもない、ただ在るがままに、宇宙は在り続ける。