悟りの道しるべの7番目は「忘牛存人」。
6番目では、牛の背に乗って悠々と家路を進む牧童であったが、
7番目にはは牛が描かれていない。
「あれ?牛はどこに行った?」
騎牛帰家・・、
魂(霊)とマインドの間に一体性と調和がありながら、
未だその間に・・どこか違和感、分離感があるのだが、
忘牛存人・・
こころを発見し、それを調律し、
牛との調和を見出した者は、その調和の中で一体となる。
当たらずともきわめて遠からず、
波動的な解釈が分かりやすいだろうか・・、
存在するすべては波動である、
粒子という物質性も、エネルギー波動の局所化したものであり、
もとはすべて・・波動エネルギーであるということ。
木も草も、コンクリートも石も鉄も、すべては原子で出来ているわけだし、
その原子レベルでは、電子や素粒子(エネルギー)は、
粒子性と波動性を同時に持つとされている。
電子などもある条件では粒子であり、
また別の条件では波動であることが知られている。
条件・・、つまり観察方法によっているということだ。
私: 「おーい、波か粒(つぶ)か、一体どっちなんじゃい?」(笑)
と、言いたいところだが、そいつは、多分こう言い返すだろうか・・。
それ: 「えー?わてのことでっか?・・そうでんな~、
ある時は粒で、ある時は波である・・って、これはダメなん?」
・・・
私: 「ったく・・だから、どっちなんじゃい!」
それ: 「あほかいな、どういう形にしたいか・・あんた次第なんやで!」
私:「・・・?」(意味わかんねっ・・)(笑)
それはつまり、観察者の意識の在り方によっているということだ。
量子論では観察者効果などと言っている。
観察とは・・それ、人の<意識の働き>のことだ。
例えばあなたが映画を見ているとして・・、
それは、あなたの「目が」見ているのではなく、
あなたの意識・・がそれを捉えているのである。
あなたは映画鑑賞者ならぬ、様々な存在形の・・その観照者とも言えるのだ。
そうではないか?
その意識の・・観照が起きて、またそれに付随して、
観察結果の「思い」が色々と生じるのである。
それがマインド、心の働き。
様々な出来事に応じて様々なイメージ思いが起きる。
これつまり、創造への参画者である証拠だ。
魂(霊)という・・根源からの波動光・・の中では、
身体も、こころ・マインドも、単にその多次元的な派生波動でしかない。
魂(霊) >マインド・精神 >肉体ボディ--の順に荒い波動を構成している。
微細な波動でなければ、より大きな波長の波動は生じない。
至極単純である。
身体もマインドも、
最も根源的、微細で精妙、精緻な波動、すなわち、
魂・霊という根源波動の中に<すべて>含まれているのだ。
わたし・・の本質は、あるいは、魂、霊、真我においては、
身体もマインドもすべて含まれて・・様々に活きており、
また、それらがひとつであることを識(し)っているということだ。
忘牛存人・・、ただ在ること・・being、
いわば真我の次元では、
マインド、つまり牛は存在していないわけではなく、
一体となって在ることを示している。
あらゆる全てがそこにある。
それを・・充満せる空(くう)とも言えようか。
あるいは七色すべて含む白色光とも言えようか。
最も外側の波動帯である肉体ボディ、
例えれば、色々衣服を着たり、脱ぎ捨てるたりすることだが、
それを生まれるとか、死ぬとか言っているのだ。
悟りとは、最も荒い波動帯域から根源波動へと帰還する壮大なプロセスとも言えよう。
ここ、地球は既に根源への帰還へと反転したということだ。
物質的な荒削りの文明は、もう十分に過ぎたのである。
勝った、負けた、大きい、小さい、偉い、惨め、・・
ドカンっ・・ばこーん、ドスン・バタン! そんな粗削り表現はおしまいである。
嗚呼朋よ、お互い、なんとまー、よくここまで来たもんだ!
6番目では、牛の背に乗って悠々と家路を進む牧童であったが、
7番目にはは牛が描かれていない。
「あれ?牛はどこに行った?」
騎牛帰家・・、
魂(霊)とマインドの間に一体性と調和がありながら、
未だその間に・・どこか違和感、分離感があるのだが、
忘牛存人・・
こころを発見し、それを調律し、
牛との調和を見出した者は、その調和の中で一体となる。
当たらずともきわめて遠からず、
波動的な解釈が分かりやすいだろうか・・、
存在するすべては波動である、
粒子という物質性も、エネルギー波動の局所化したものであり、
もとはすべて・・波動エネルギーであるということ。
木も草も、コンクリートも石も鉄も、すべては原子で出来ているわけだし、
その原子レベルでは、電子や素粒子(エネルギー)は、
粒子性と波動性を同時に持つとされている。
電子などもある条件では粒子であり、
また別の条件では波動であることが知られている。
条件・・、つまり観察方法によっているということだ。
私: 「おーい、波か粒(つぶ)か、一体どっちなんじゃい?」(笑)
と、言いたいところだが、そいつは、多分こう言い返すだろうか・・。
それ: 「えー?わてのことでっか?・・そうでんな~、
ある時は粒で、ある時は波である・・って、これはダメなん?」
・・・
私: 「ったく・・だから、どっちなんじゃい!」
それ: 「あほかいな、どういう形にしたいか・・あんた次第なんやで!」
私:「・・・?」(意味わかんねっ・・)(笑)
それはつまり、観察者の意識の在り方によっているということだ。
量子論では観察者効果などと言っている。
観察とは・・それ、人の<意識の働き>のことだ。
例えばあなたが映画を見ているとして・・、
それは、あなたの「目が」見ているのではなく、
あなたの意識・・がそれを捉えているのである。
あなたは映画鑑賞者ならぬ、様々な存在形の・・その観照者とも言えるのだ。
そうではないか?
その意識の・・観照が起きて、またそれに付随して、
観察結果の「思い」が色々と生じるのである。
それがマインド、心の働き。
様々な出来事に応じて様々なイメージ思いが起きる。
これつまり、創造への参画者である証拠だ。
魂(霊)という・・根源からの波動光・・の中では、
身体も、こころ・マインドも、単にその多次元的な派生波動でしかない。
魂(霊) >マインド・精神 >肉体ボディ--の順に荒い波動を構成している。
微細な波動でなければ、より大きな波長の波動は生じない。
至極単純である。
身体もマインドも、
最も根源的、微細で精妙、精緻な波動、すなわち、
魂・霊という根源波動の中に<すべて>含まれているのだ。
わたし・・の本質は、あるいは、魂、霊、真我においては、
身体もマインドもすべて含まれて・・様々に活きており、
また、それらがひとつであることを識(し)っているということだ。
忘牛存人・・、ただ在ること・・being、
いわば真我の次元では、
マインド、つまり牛は存在していないわけではなく、
一体となって在ることを示している。
あらゆる全てがそこにある。
それを・・充満せる空(くう)とも言えようか。
あるいは七色すべて含む白色光とも言えようか。
最も外側の波動帯である肉体ボディ、
例えれば、色々衣服を着たり、脱ぎ捨てるたりすることだが、
それを生まれるとか、死ぬとか言っているのだ。
悟りとは、最も荒い波動帯域から根源波動へと帰還する壮大なプロセスとも言えよう。
ここ、地球は既に根源への帰還へと反転したということだ。
物質的な荒削りの文明は、もう十分に過ぎたのである。
勝った、負けた、大きい、小さい、偉い、惨め、・・
ドカンっ・・ばこーん、ドスン・バタン! そんな粗削り表現はおしまいである。
嗚呼朋よ、お互い、なんとまー、よくここまで来たもんだ!