悟りの道標8番目は、人牛俱忘。
牛も、牧童も何も描かれていない、一体どこにいった~!
うおっ!牛と私はどこに消えたんだ~(驚)、
こころはまさに・・ここに在らず。
OH MY GOD!
人も牛も、共にうちそろって「忘れ去られた」ということだ。
人、牧牛、身体としての「私」、
牛、思い、マインドつまり「こころ」、
これが同時に忘れ去られた。
「忘れる」とは、禅では無念無想で雑念が沸かないことを意味する。
あるいは、想念は和泉のごとく、川のごとく流れてくるが、
その流れの背後には、それが起きるための・・静寂があることを識っていることだ。
静寂、あるいは空(くう)が無ければ、騒音も物質形態波動も生じない。
人牛俱忘とは・・これを覚悟して(覚え・悟って)いることだ。
覚悟とは、後戻りできない境地・・という表現は当たらずとも遠くないだろう。
魂・意識の中で、
私という肉体を中心とした感覚から醸し出される<個人>
また、そこに生じる様々な思いや思考、感情などの<マインド>
それが消え去る・・ことを示すものだ。
ある意味で、魂は多次元の円相で、経験と知性、感性の昇華に伴い、振動数が上がるプロセスにあるといわれている。
円相とも言われるそれは、全方位に歪やとげがなく、それはまた空(くう)である。
まさに・・色即是空、空即是色のその空(くう)。
空(くう)は<充満>である。
また<円満・調和>である。
三次元的レベル、色々な現象からは、その現象を生起する因のほうはまるで見えない。
あるいは<空っぽ>のように見える、言葉を変えれば、
波動の粗い世界からは、精緻・精妙極まりない世界は見えない。
何もない・・ことが怖いと思うのは、この世的想念の癖である。
多くがほしい、沢山あれば価値がある、100円寄付より夢の1億年のジャンボだ・・(笑)。
培ったエゴを忘れたくない、
それは、
低い次元というか、波動の粗い共同創造世界というか、
より自由度や、楽しさや知見の広い在り方を怖がっているということである。
現状の、色ばかりにこだわり、空(くう)を怖がる。
それは勘違い、観違い、が元にあり、無という「概念」が怖いのである。
しかしながら、無とは、それ・・無いことを意味するのである。
無こそ・・無いのだ・・(笑)
マインドは、個人という自我が幻想であることが「怖い」という、
マインド遊びで・・遊んでいたのだった。
それは・・個個人が、個人バラバラと言われる幻想遊びである。
それがここで何千年も行われてきたのだった。
個人の自由、個人の権利・・当たり前に聞こえるが、、
分岐、分離の徹底が潜む・・一見もっともで、美しく見える思考の轍(わだち)。
今まで、分離の時代だったといわれるわけだ。
分離同士でサバイバルごっこ、命など短く、
例えそれが何個あっても足りないからこそ、
何度も生まれ変わる必要があったわけだろう。
まだやりたい者たちが世界で最後の騒ぎを起こしている。
我々は皆、もともと、この世界にいなかった。(空)
今在る・・、この現象世界から見れば(色)
我々は皆、空(くう)より来たりしものである。
そして今は、ここに存在している(色)
そうではないか?
そう、今でも、いつでもそうなのだが、
人牛俱忘、人、牧童、個人という私、
その私を創るもの・・自分だ!と認識するマインドも、
実は・・・実在してない。
つまり、それは「幻想」、一過性のものであるということだ。
しかしながら、それを生じさせつつ、
また、それをそれと気づいている
全てのバックボーンである何か、それ、神、宇宙意識、根源・・
それ・・・・・は、在る。
牛も、牧童も何も描かれていない、一体どこにいった~!
うおっ!牛と私はどこに消えたんだ~(驚)、
こころはまさに・・ここに在らず。
OH MY GOD!
人も牛も、共にうちそろって「忘れ去られた」ということだ。
人、牧牛、身体としての「私」、
牛、思い、マインドつまり「こころ」、
これが同時に忘れ去られた。
「忘れる」とは、禅では無念無想で雑念が沸かないことを意味する。
あるいは、想念は和泉のごとく、川のごとく流れてくるが、
その流れの背後には、それが起きるための・・静寂があることを識っていることだ。
静寂、あるいは空(くう)が無ければ、騒音も物質形態波動も生じない。
人牛俱忘とは・・これを覚悟して(覚え・悟って)いることだ。
覚悟とは、後戻りできない境地・・という表現は当たらずとも遠くないだろう。
魂・意識の中で、
私という肉体を中心とした感覚から醸し出される<個人>
また、そこに生じる様々な思いや思考、感情などの<マインド>
それが消え去る・・ことを示すものだ。
ある意味で、魂は多次元の円相で、経験と知性、感性の昇華に伴い、振動数が上がるプロセスにあるといわれている。
円相とも言われるそれは、全方位に歪やとげがなく、それはまた空(くう)である。
まさに・・色即是空、空即是色のその空(くう)。
空(くう)は<充満>である。
また<円満・調和>である。
三次元的レベル、色々な現象からは、その現象を生起する因のほうはまるで見えない。
あるいは<空っぽ>のように見える、言葉を変えれば、
波動の粗い世界からは、精緻・精妙極まりない世界は見えない。
何もない・・ことが怖いと思うのは、この世的想念の癖である。
多くがほしい、沢山あれば価値がある、100円寄付より夢の1億年のジャンボだ・・(笑)。
培ったエゴを忘れたくない、
それは、
低い次元というか、波動の粗い共同創造世界というか、
より自由度や、楽しさや知見の広い在り方を怖がっているということである。
現状の、色ばかりにこだわり、空(くう)を怖がる。
それは勘違い、観違い、が元にあり、無という「概念」が怖いのである。
しかしながら、無とは、それ・・無いことを意味するのである。
無こそ・・無いのだ・・(笑)
マインドは、個人という自我が幻想であることが「怖い」という、
マインド遊びで・・遊んでいたのだった。
それは・・個個人が、個人バラバラと言われる幻想遊びである。
それがここで何千年も行われてきたのだった。
個人の自由、個人の権利・・当たり前に聞こえるが、、
分岐、分離の徹底が潜む・・一見もっともで、美しく見える思考の轍(わだち)。
今まで、分離の時代だったといわれるわけだ。
分離同士でサバイバルごっこ、命など短く、
例えそれが何個あっても足りないからこそ、
何度も生まれ変わる必要があったわけだろう。
まだやりたい者たちが世界で最後の騒ぎを起こしている。
我々は皆、もともと、この世界にいなかった。(空)
今在る・・、この現象世界から見れば(色)
我々は皆、空(くう)より来たりしものである。
そして今は、ここに存在している(色)
そうではないか?
そう、今でも、いつでもそうなのだが、
人牛俱忘、人、牧童、個人という私、
その私を創るもの・・自分だ!と認識するマインドも、
実は・・・実在してない。
つまり、それは「幻想」、一過性のものであるということだ。
しかしながら、それを生じさせつつ、
また、それをそれと気づいている
全てのバックボーンである何か、それ、神、宇宙意識、根源・・
それ・・・・・は、在る。