「私とは何か」・・
このシンプル過ぎて、いつも素通りしていた問いかけの、
その答えを求める行為が、すなわち「悟りへの道」である。
それは難しい話ではなく、ある意味でお掃除、清掃のようなものである。
これはいらない、これは捨てよう、これは違う所に仕舞おう・・
普通、そうやって清掃、整理するのだが、
つまり<こころの中の清掃>というのも同じものだ。
さて、こころの中にあるのは、考え方、感情、自分の履歴、様々な記憶なのであるが、
思い、記憶、想念・・・それらはまとめて「思考」の産物といえよう。
人間だけにあるという知力・・それは「思考」である。
「あなたは何か?」・・は、「あなたの<思考>は何だろうか」
それと密接に関連している。
思考と行為、それに伴う感情・・・その記憶が、あなたの個人我認識、「マインド」だ。
その蓄積された思考と記憶が、つまり私個人という認識となっている。
赤ん坊のころ、あなたは私個人・・という意識は無かった。
そうではないか?
そう、<私個人>とは、作られたものなのである。
仮の個人としての・・私・・、元は・・空(くう)だ、
今は在るがゆえに<無>ではなく、空(くう)である。
空(くう)は実際、からっぽではなく、全ての可能性で充満しているのだ。
空(くう)だからこそ、様々な事象事物が現れているのである。
色即是空、空即是色。
本質の<わたし>とは・・空(くう)である、即ち、あらゆるものの充満である。
悟りとは、まさにそれ。
全く自然で、当たり前のこと、・・・在る・・こと。
それだ。
・・・
マインド、こころとは、意識内面空間とそこにある、様ざまな「事物」である。
事物といっても、肉眼で見るものではなく、意識で知覚する「事物」思考、感情、記憶。
悟りとは、何かを新たに得る・・ことではなく、こころの中の数々の事物を取り払う事だ。
・・・
マインド、こころとは、意識内面空間にある、様ざまな「事物」である。
ゴミ箱を整理するのに、そのゴミが見えずして、清掃などできないように、
こころを清掃するということは、
こころの中の様々な想いを「対象物」として観ることが必要だ。
そうではないか?
意識内面にある事物を・・自らで観ることなく、
それを取捨択一など出来るはずもない。
だから古(いにしえ)から瞑想と言われるもの、
内面を観る、想いを観察する、感情を味わう、等という修業が行われてきたのである。
例えば、ヨガや瞑想、只管打座、座禅などはまさじくそれであり、
座禅は、只・・そこに座って、そこに在り、自己内面に生起する様々な事象、
つまり、こころの動き、思考、イメージ、感情、記憶などを「観る」のである。
ポジティブシンキング、良き思いを上塗りしてこころを中和するのではなく、
ウオッチングシンク、つまり「思考を観察」することで内面に意識の光をあて、
それを事物として浮かび上がらせる。
そしてそれらは、事物、対象の類であって、決してわたし自身ではないことを悟るのだ。
わたしとは・・、内面に沸き起こる様々な想念ではなく、
言わば意識内面空間のほうであることを知るのである。
それはつまり空(くう)、あらゆる事象の無限の母体であることを、
・・直接・・知ることである。
さらに、そういう意識的プロセスによって、
意識内面の底に沈んでいる、意識エネルギーの<歪>を浮かび上がらせ、
ある意味で大きなバブルとして静かに破裂させ、
その歪みを解消、昇華することなのである。
これが瞑想や座禅の目的に他ならない。
また内面観察は、夢見によっても行われていることに気付けるだろうか。
ただし夢の場合は、無意識的な思考、感情、記憶の噴出といえるのだが、
実際に意識内面にある歪の昇華に他ならない。
そう、夢見も大切な意識経験なのであるが、
意味なきことととして素通りしていないだろうか。
・・・
生れてからの経験や感情、思考によって密かに所蔵している様々な歪(ひずみ)を、
意識の光、つまり内面の陰に潜んでいる歪(ひずみ)を観る、観察することで、
内面の事象として喚起し、その歪みエネルギーを解き放つのである。
なお、
それをそれとして観察する・・ことは、あからさまな事象となって、
潜在エネルギーを崩壊させて粒子化する(現象化)ことは、
素粒子の挙動を決定するファクターとしての『観察者意識』と同じこと。
実際多くの人々の内面の歪(ひずみ)は、錯綜した極みの現代世界の中において、
相当なレベルにあるわけで、日常でも毎日のように、
内面には様々な不安や衝動を感じるはずで、
また、大自然や国家社会の様々な不都合な出来事も起きて来ており、
これらもまた、この世界のその歪みを一気に解消する過程にあることを示している。
地球という惑星意識、生命領域も、そのプロセスにある。
まったくもって、今は結構、『急がしい時代』のただ中にあるのである。
気付ける人々にとっては、
時間がかかっても、今の日常生活という『修業場』は、それゆえ極めて貴重なのである。
そのために、地球、宇宙は出来るだけゆっくりと見守っているといってもいいだろう。
それぞれの内面を事あるごとに、あるいは事なき時にも、
見つめ続ける、ある段階では苦しい意識的努力の先に、
かならず魂の浄化と昇華があるのだ。
そういう世界に降りてきたのが、あなたやわたし達なのである。
(5につづく)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
このシンプル過ぎて、いつも素通りしていた問いかけの、
その答えを求める行為が、すなわち「悟りへの道」である。
それは難しい話ではなく、ある意味でお掃除、清掃のようなものである。
これはいらない、これは捨てよう、これは違う所に仕舞おう・・
普通、そうやって清掃、整理するのだが、
つまり<こころの中の清掃>というのも同じものだ。
さて、こころの中にあるのは、考え方、感情、自分の履歴、様々な記憶なのであるが、
思い、記憶、想念・・・それらはまとめて「思考」の産物といえよう。
人間だけにあるという知力・・それは「思考」である。
「あなたは何か?」・・は、「あなたの<思考>は何だろうか」
それと密接に関連している。
思考と行為、それに伴う感情・・・その記憶が、あなたの個人我認識、「マインド」だ。
その蓄積された思考と記憶が、つまり私個人という認識となっている。
赤ん坊のころ、あなたは私個人・・という意識は無かった。
そうではないか?
そう、<私個人>とは、作られたものなのである。
仮の個人としての・・私・・、元は・・空(くう)だ、
今は在るがゆえに<無>ではなく、空(くう)である。
空(くう)は実際、からっぽではなく、全ての可能性で充満しているのだ。
空(くう)だからこそ、様々な事象事物が現れているのである。
色即是空、空即是色。
本質の<わたし>とは・・空(くう)である、即ち、あらゆるものの充満である。
悟りとは、まさにそれ。
全く自然で、当たり前のこと、・・・在る・・こと。
それだ。
・・・
マインド、こころとは、意識内面空間とそこにある、様ざまな「事物」である。
事物といっても、肉眼で見るものではなく、意識で知覚する「事物」思考、感情、記憶。
悟りとは、何かを新たに得る・・ことではなく、こころの中の数々の事物を取り払う事だ。
・・・
マインド、こころとは、意識内面空間にある、様ざまな「事物」である。
ゴミ箱を整理するのに、そのゴミが見えずして、清掃などできないように、
こころを清掃するということは、
こころの中の様々な想いを「対象物」として観ることが必要だ。
そうではないか?
意識内面にある事物を・・自らで観ることなく、
それを取捨択一など出来るはずもない。
だから古(いにしえ)から瞑想と言われるもの、
内面を観る、想いを観察する、感情を味わう、等という修業が行われてきたのである。
例えば、ヨガや瞑想、只管打座、座禅などはまさじくそれであり、
座禅は、只・・そこに座って、そこに在り、自己内面に生起する様々な事象、
つまり、こころの動き、思考、イメージ、感情、記憶などを「観る」のである。
ポジティブシンキング、良き思いを上塗りしてこころを中和するのではなく、
ウオッチングシンク、つまり「思考を観察」することで内面に意識の光をあて、
それを事物として浮かび上がらせる。
そしてそれらは、事物、対象の類であって、決してわたし自身ではないことを悟るのだ。
わたしとは・・、内面に沸き起こる様々な想念ではなく、
言わば意識内面空間のほうであることを知るのである。
それはつまり空(くう)、あらゆる事象の無限の母体であることを、
・・直接・・知ることである。
さらに、そういう意識的プロセスによって、
意識内面の底に沈んでいる、意識エネルギーの<歪>を浮かび上がらせ、
ある意味で大きなバブルとして静かに破裂させ、
その歪みを解消、昇華することなのである。
これが瞑想や座禅の目的に他ならない。
また内面観察は、夢見によっても行われていることに気付けるだろうか。
ただし夢の場合は、無意識的な思考、感情、記憶の噴出といえるのだが、
実際に意識内面にある歪の昇華に他ならない。
そう、夢見も大切な意識経験なのであるが、
意味なきことととして素通りしていないだろうか。
・・・
生れてからの経験や感情、思考によって密かに所蔵している様々な歪(ひずみ)を、
意識の光、つまり内面の陰に潜んでいる歪(ひずみ)を観る、観察することで、
内面の事象として喚起し、その歪みエネルギーを解き放つのである。
なお、
それをそれとして観察する・・ことは、あからさまな事象となって、
潜在エネルギーを崩壊させて粒子化する(現象化)ことは、
素粒子の挙動を決定するファクターとしての『観察者意識』と同じこと。
実際多くの人々の内面の歪(ひずみ)は、錯綜した極みの現代世界の中において、
相当なレベルにあるわけで、日常でも毎日のように、
内面には様々な不安や衝動を感じるはずで、
また、大自然や国家社会の様々な不都合な出来事も起きて来ており、
これらもまた、この世界のその歪みを一気に解消する過程にあることを示している。
地球という惑星意識、生命領域も、そのプロセスにある。
まったくもって、今は結構、『急がしい時代』のただ中にあるのである。
気付ける人々にとっては、
時間がかかっても、今の日常生活という『修業場』は、それゆえ極めて貴重なのである。
そのために、地球、宇宙は出来るだけゆっくりと見守っているといってもいいだろう。
それぞれの内面を事あるごとに、あるいは事なき時にも、
見つめ続ける、ある段階では苦しい意識的努力の先に、
かならず魂の浄化と昇華があるのだ。
そういう世界に降りてきたのが、あなたやわたし達なのである。
(5につづく)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。