気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標(3)私個人は事実でなく・・<観念>

2016-05-20 08:15:21 | 人間とは何か


悪意があるとか無いとかは関係なく、世の中は様々な嘘八百観念で満ちており、

「悟る」という事は、つまりそれらの幻想から、根本的に抜けてしまうということである。

別に超越人間に成る・・わけではない。

新たな何かに変身する事ではない。(大笑)

嘘の自分を見破りつつ、様々な<常識となった妄想>の類(たぐい)を

1枚づつ剥がしてゆく、自助努力のことを悟りの道等といっている。


だから昔からそれは『玉ねぎの皮をむいてゆく』ようなものと言われる。

玉ねぎの皮を剥いてゆくと、あとは何も残らず、ただ空(くう)が残る。


これはかなり「怖い」はずだが、その怖いという観念が、

すなわち仮の自我、エゴ、肉体自我の想いなのだ。

「何も無いって?!、あんた・・、そんなのやめてよ!」(笑)


よく言われる例えだが、

空(くう)は映画の何でもないスクリーンのようなものであるがゆえに、

あらゆる映像がそこに映しだされる。

映像そのものは投影像であり、如何にリアルで、粗雑や精妙であっても、

その投影像は移り変わる諸現象であり、つまり「幻想」なのだ。

それをそれ、として観ているものに戻ることを、「目覚める」と言っている。

だから、OH MY GOD!

・・・

私とは何か?・・・真の賢者や覚者が示すように、

あれでもない、これでもない、・・結局・・実は何でもない。

実につまらない??プロセス。

しかしながら、

あらゆる人間は、これを真剣に行なう時期があるもので、

これを行なわない限り、いまここにある・幻想世界の住人を続けることになっている。



「不都合な現実」という独特のマトリクス映画を観続けることになるわけだ。

どうあっても、何があっても気付けない・・のは、今はそれを観続けたいということ。

だって、続けるということは、魂にとってそういう学びが楽しい段階からだ。

それが、1つこの地球と名づけられた次元世界の学習の「仕組み」だったのだ。

・・・だったのだが、

誰でも知っているように、物語や映画は始まりと終わりがあるもので、

今はそういう時期にあることは、世界の様相や大自然の変化などで知ることが可能なのだ。

・・・

世間一般の常識では、肉体が・・『私自身だ』という事になっているだろう。

突き詰めて考えたことが少ない御仁でも、改まって問われると、そういう話になるものだ。

なぜならば、見る・聞く・感じるという五感機能が身体に張り巡らされ、

その情報が神経系統で伝達され、頭脳で処理されているとされており、

身体内部が一つのまとまった生命維持システムになっているからだ。

その1つの個体生命システムのことを<私個人>と言っているのだ。

そのひとまとまりの身体機構システムを<私>だと・して・いる。

自己を肉体であると「思って」いる、「認識」しているということだ!

そうではないか?




つまり、そう思っているという事だ。


身体の生命機構があり、その身体自体が「私」という個人であると、

親や世間の人に教えられ、・・自分もそう「思って」いるのである。


「えーっ?そう思っている?・・というより、そりゃ現実、事実だろうよ!」

という人もいるわけだが、

「そりゃ現実、事実だろうよ!」と<思う>から、そう言えるのである。


そう思っている、信じている、常識だという、そういう観念がある。

私個人はこの肉体だ・・という、動かしようのなさそうな常識も、

つまり「観念」であるということなのだ。

猫が「吾輩は猫である!」とは言わない(笑)



観察とその想い、「観念」によって、「私=肉体である」としている。

「私は肉体である・・」というのは、「観念」であることがわかるだろう。


肉体である私・・・は現象の観察にもとづいて、そう「想っている」ということに過ぎない。

そう思っている、わけだが、

そう思わない場合は、一体全体・・私という個人はどこにあるのか?


なるほど確かに、「私は肉体である」というのは現実そのものではなく、

「私は肉体である」という観念がある、のが事実である。

・・・

しかし、だって、わたしは・今在る・ことに気付いている、

そういう感覚は常に残っているだろう。

そう、観念や想いを除いていって、ただ残るのは何かというと、


・・・在ることに・・気付いている・・ことだ。

そうではないか?


(4につづく)



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。