人間必ず生れて死ぬわけだから、<個人>も移り変わる現象であるというのは、
全くの事実であることは誰でも理解できる。
だから人間の個々人とは、一時の仮の現象というのは、普段あまり考えもしないが、
まあ、腑に落ちる話だろう。
例えば、親戚の爺さんも今はこの世になく、知り合いの何人も他界した、そんな経験が誰にもあるからだ。
そうではないか?
そういう意味で、個々人は実在せず、現れては消える・・<現象>であり、
つまり、『個々人は実在しない』というのは事実であるという認識があるが、
・・私という「個人」が実在しないと言って、あーそうかと思う人はいない。
「わたしが実在していない・・?って、ちょっと、何それ、」
なぜなら、「わたし・・が今、生きている、存在している」という実感・感覚があるからだ。
私という自己感覚、言わば<内側の>わたし感、自己存在感・・がある。
この世界に生れてから始まった、「内側の・・わたし」という感覚、
・・それも現れては消える「現象」に過ぎないのだが、
なぜかこの内側の・・わたし感・・は消えてほしくない・・と思うのだ。
違うだろうか?
・・
そう、生命というか、生きてる感覚というか、自意識というか、それ・・を
自分にとって『最重要なこと』と感じているがゆえに、
人はこの・・内側の自己存在感覚・・を<失う>事を怖れて、
つまり死にたくない、何とか生き延びたいと、
外の世界で色々な生活事をしつつ、様々なところを探し回る。
そして、根本にある「怖れ」によって自分が動き回っている・・
それ自体に気付いていない・・有様により、世界の悲喜劇が生まれているのだ。
生れて赤子の時から仕込んでゆく、恐怖で色付けされた「自己存在感」こそが、分離感となり、
誰にもある自己存続欲求、あるいは自己保身となって、さらに、
他者を犠牲にしてもかまわないとする、過ぎたる自己保身:エゴとなっているのである。
人間達が集団で、もっともらしく、あれこれと行なっているものだから、
皆がそういう生き様であることのなかに、真実があるだろうという<錯覚>が生れ、、
それ自体を疑う事をせず、自分達も終生そのように走り続けて、
ついに終わりを迎えるというのが、ごく普通の人生ということだったろうか。
どうしてこの世界は悲惨な状況なんだ?
どうして悪い奴ほどのさばっている?
どうして嘘ばかり、陰謀だらけなの?
こころある人々は既に気づいているだろう。
これらすべての悲喜劇は、仮の現象である・・<個々人>の、
その過ぎたる「恐怖」と「欲望」が、全ての元に有ることを。
つまり簡単に言えば、「エゴ」の文明だったということだ。
エゴの文明・文化は、分離した個々人というものが、
現れては消える「現象」に過ぎないという・・理解に至らぬ段階の文化である。
だから強い個人が弱い個人を支配し、収奪することをいとわぬ、
個々人の間の争いに根差した文明なのである。
・・・
私という個人は存在しない・・ということが真に理解できるならば、
結局それは「悟り」ということになる。
あるいは、私・・・が、存在全てから分離した「個人」ではないとなれば、
この大勢の分離した個々人の構成・とされる・
この世界から、「解脱」していることになるのだ。
理解可能だろうか?
・・・
私がある・・という感覚が、いつのまにか「私個人」という<概念>になっている。
だから、私個人は実際に在る、・・実在すると思う。
私という「個人」が実在しないと言っても、ほとんどの人が「そりゃウソだろう」
ということになるが、個人が実在するというのは、
つまり「概念」だということに気付かなければならない。
私個人が存在している・・というのは言葉の列つまり「概念」だ。
その概念、観念が<個人という私>を補強しているのである。
これは実際に自己とは何か?で調べて見なければわからない。
そう、探究者とは、自分が何かを追究する段階に至った人たちだ。
自己の世界を映し出すところの、原因としての自己・・それに気づき始めた人たちのこと。
このような記事をみているあなたもそうではないか。
気付けばいつも当たり前だが、今まで素通りして来たことをチョット見てみると。
・・・
人々は<私は個人として存在している>・・と「思って」いるのだが、
実際にあるのは何か・・といえば、「在る」という感覚のみである。
在る・・こと、これに身体感覚、個体感が・・付帯するがゆえに、
「私個人が・・・在る」と「思う」ことになる。
・・・
身体存在感覚、触感、外を見ている視覚の「こちら側」に自己があるという感覚、
身体の内側?から、身体の外を観ているような・・内面存在感というか、
外を観ているという感覚・・外に対する・内側の自己存在感覚があるだろう。
それは「肉体の」外側と内側という感覚になっている。
生れてから育ったその個人感覚は、
「肉体の外側と内側」という、自己認識の「記憶」に他ならない。
であるからこそ、肉体の表皮の外側が<外の世界>、
肉体表皮の内側が「私個人」となっているわけだ。
肉体内側が「私個人」だと記憶し、そう認識し、そう見なしているのである。
当たり前のこと、そうではないか?
それを例えれば、自己とは「玉ねぎの皮」・・のようなものなのだ。
玉ねぎは何層もの皮で構成されている。
外と内の境であるところの、玉ねぎの皮を1枚1枚、剥(は)いでゆくと、
どうなるだろうか。
そりゃ、ちょっと怖いと思うかもしれない。
なぜならば、玉ねぎの皮が全部剥がれたら、何も無いというか、
そこには空(くう)しか残らない。
そう、空しか・・・残らない・・・!
OH MY GOD!
(3に続く)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
全くの事実であることは誰でも理解できる。
だから人間の個々人とは、一時の仮の現象というのは、普段あまり考えもしないが、
まあ、腑に落ちる話だろう。
例えば、親戚の爺さんも今はこの世になく、知り合いの何人も他界した、そんな経験が誰にもあるからだ。
そうではないか?
そういう意味で、個々人は実在せず、現れては消える・・<現象>であり、
つまり、『個々人は実在しない』というのは事実であるという認識があるが、
・・私という「個人」が実在しないと言って、あーそうかと思う人はいない。
「わたしが実在していない・・?って、ちょっと、何それ、」
なぜなら、「わたし・・が今、生きている、存在している」という実感・感覚があるからだ。
私という自己感覚、言わば<内側の>わたし感、自己存在感・・がある。
この世界に生れてから始まった、「内側の・・わたし」という感覚、
・・それも現れては消える「現象」に過ぎないのだが、
なぜかこの内側の・・わたし感・・は消えてほしくない・・と思うのだ。
違うだろうか?
・・
そう、生命というか、生きてる感覚というか、自意識というか、それ・・を
自分にとって『最重要なこと』と感じているがゆえに、
人はこの・・内側の自己存在感覚・・を<失う>事を怖れて、
つまり死にたくない、何とか生き延びたいと、
外の世界で色々な生活事をしつつ、様々なところを探し回る。
そして、根本にある「怖れ」によって自分が動き回っている・・
それ自体に気付いていない・・有様により、世界の悲喜劇が生まれているのだ。
生れて赤子の時から仕込んでゆく、恐怖で色付けされた「自己存在感」こそが、分離感となり、
誰にもある自己存続欲求、あるいは自己保身となって、さらに、
他者を犠牲にしてもかまわないとする、過ぎたる自己保身:エゴとなっているのである。
人間達が集団で、もっともらしく、あれこれと行なっているものだから、
皆がそういう生き様であることのなかに、真実があるだろうという<錯覚>が生れ、、
それ自体を疑う事をせず、自分達も終生そのように走り続けて、
ついに終わりを迎えるというのが、ごく普通の人生ということだったろうか。
どうしてこの世界は悲惨な状況なんだ?
どうして悪い奴ほどのさばっている?
どうして嘘ばかり、陰謀だらけなの?
こころある人々は既に気づいているだろう。
これらすべての悲喜劇は、仮の現象である・・<個々人>の、
その過ぎたる「恐怖」と「欲望」が、全ての元に有ることを。
つまり簡単に言えば、「エゴ」の文明だったということだ。
エゴの文明・文化は、分離した個々人というものが、
現れては消える「現象」に過ぎないという・・理解に至らぬ段階の文化である。
だから強い個人が弱い個人を支配し、収奪することをいとわぬ、
個々人の間の争いに根差した文明なのである。
・・・
私という個人は存在しない・・ということが真に理解できるならば、
結局それは「悟り」ということになる。
あるいは、私・・・が、存在全てから分離した「個人」ではないとなれば、
この大勢の分離した個々人の構成・とされる・
この世界から、「解脱」していることになるのだ。
理解可能だろうか?
・・・
私がある・・という感覚が、いつのまにか「私個人」という<概念>になっている。
だから、私個人は実際に在る、・・実在すると思う。
私という「個人」が実在しないと言っても、ほとんどの人が「そりゃウソだろう」
ということになるが、個人が実在するというのは、
つまり「概念」だということに気付かなければならない。
私個人が存在している・・というのは言葉の列つまり「概念」だ。
その概念、観念が<個人という私>を補強しているのである。
これは実際に自己とは何か?で調べて見なければわからない。
そう、探究者とは、自分が何かを追究する段階に至った人たちだ。
自己の世界を映し出すところの、原因としての自己・・それに気づき始めた人たちのこと。
このような記事をみているあなたもそうではないか。
気付けばいつも当たり前だが、今まで素通りして来たことをチョット見てみると。
・・・
人々は<私は個人として存在している>・・と「思って」いるのだが、
実際にあるのは何か・・といえば、「在る」という感覚のみである。
在る・・こと、これに身体感覚、個体感が・・付帯するがゆえに、
「私個人が・・・在る」と「思う」ことになる。
・・・
身体存在感覚、触感、外を見ている視覚の「こちら側」に自己があるという感覚、
身体の内側?から、身体の外を観ているような・・内面存在感というか、
外を観ているという感覚・・外に対する・内側の自己存在感覚があるだろう。
それは「肉体の」外側と内側という感覚になっている。
生れてから育ったその個人感覚は、
「肉体の外側と内側」という、自己認識の「記憶」に他ならない。
であるからこそ、肉体の表皮の外側が<外の世界>、
肉体表皮の内側が「私個人」となっているわけだ。
肉体内側が「私個人」だと記憶し、そう認識し、そう見なしているのである。
当たり前のこと、そうではないか?
それを例えれば、自己とは「玉ねぎの皮」・・のようなものなのだ。
玉ねぎは何層もの皮で構成されている。
外と内の境であるところの、玉ねぎの皮を1枚1枚、剥(は)いでゆくと、
どうなるだろうか。
そりゃ、ちょっと怖いと思うかもしれない。
なぜならば、玉ねぎの皮が全部剥がれたら、何も無いというか、
そこには空(くう)しか残らない。
そう、空しか・・・残らない・・・!
OH MY GOD!
(3に続く)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。