(「I AM THAT・・」より)
探究者とは自分自身を探している人だ。
「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい。
結局、あなたが確信できる唯一の事実とは、
あなたは在るということだけだ。
「私は在る」は確かだ。
「私はこれだ」は確かではない。
真実のあなたとは何なのか
それを見いだすために努めなさい
あなたが何なのかを知るために
あなたが何でないかを知りなさい
あなたではないものすべてを発見しなさい
身体、感情、思考、時間、空間、あれこれ
具象であれ、抽象であれ
あなたに知覚できるものはあなたではない
知覚するという行為そのものが
あなたの知覚するものが
あなたではないことを示している
マインドのレベルにおいては
あなたは否定的言語でによってしか描写できない
ということをより明確に理解するほど
あなたの探究はより早く終焉を迎える
そして、あなたが無限の存在であることを悟のだ
----
わたしは在る
そして私が在るゆえにすべては在る
「私は誰か?」という質問に答えることは出来ない
いかなる体験もそれに答えることは出来ない
なぜなら、真我はそれを超えているからだ。
(シュリー・ニサルガダッタ・マハラジ)
・・・・
外の世界の様々な出来事や事象に意識をやっているかぎり、
いつまでも外の世界に振り回されることになる。
外の世界の中に、雑多な事象現象のなかに、
か弱く小さな肉体としての私が存在していると想っているかぎり、
その閉鎖された観念世界、一見安定なマトリクスで苦労することになる。
いままでのように。
なぜ苦労するかといえば?
なぜならば、それは本来の姿ではないからだ。
苦労や苦痛は他者があなたに押し付けるようにみえて、
まったくそれは違っている。
社会が悪いせい? その中の人間達が悪いから?
実際、それも違う。
押し付けられるような、押しつぶされるような、
小さくか弱い「あなた」をそこに作り出しているから、
怯えて、怒って、嘆き続ける・・
小さくか弱い「わたし」をそこに創りだしているからこそ、
わざわざ、それに感情や思考のゴミを押し付けてくる他者がいてくれるのだ。
どうしてこんな風なんだろうか、こんなに不幸なんだろうか、
どうしていつもどこか不安なんだろうか、
どうして・・・。
苦痛や苦労は・・・「それは違うよ・・」という合図。
あー、嫌だ・嫌だ、こんな人たち、こんな世界・・と思っているならば、
その人は、嫌な目に合う小さき人を、好き好んで自ら演じているということだ。
えー、ばかな! 自分が悪いだと? 俺は悪くない! いい加減にしろ、と、
こころが感情に震えて怒り狂うか、しゃがみこんで嘆き悲しむか、
恨みに燃えて復讐するか、逃げて隠れておびえるか・・・
そういうこころのパターンの繰り返しだっただろう。
あなたの意識があるからこそ、世界を見て、聴いて知ることが出来る。
あなたの意識があるからこそ、人々を観て、聞いて関係することが出来る。
極めて、極めてシンプルだから、何千年も気づかぬこともあるものだ。
本来の自己を忘れるこの世界で、忘れたまま、生れては死んでの繰り返し、
それすらも覚えていない・・この世界における、そんな魂の学習は終わったのだ。
それとも、苦痛と快楽の狭間の・・経験を・・もっとやりたいのだろうか。
あなたの意識、われ在り・・という自己認識、
それがなくて世界も宇宙も・・観測できないことを思い出そうか
この世界に生まれる・・という物語が無くて、この世界を知ることは出来なかった。
そうだろう?
意識を有する人々がいたからこそ、世界の記録が残っているのだ。
過去の歴史や事実記録さえも、そういう他者たちの知覚の寄せ集めに過ぎす、
例えば、宇宙の中にどこにも人がいなくて、どうして世界を認識できるだろうか?
宇宙や自己を「認識する」働きが無くて、どうして宇宙やわたしがあるだろうか?
宇宙のどこでも、その叡智を全て自己投入しているのが創造の根源ならば、
無限の愛や叡智が、どうして出し惜しみをするだろうか。
嗚呼、そう! 自らが・・本質においては、
無限の叡智、生命の根源であることに気づかなければならない。
世界が有って、宇宙が有って、・・わたしがあるのではなく、
わたしが在るからこそ・・・世界や出来事、多くの人々を知覚できるのだ。
そういう無数のわたし達が在るからこそ・・多次元宇宙、存在諸世界が展開されている。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
探究者とは自分自身を探している人だ。
「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい。
結局、あなたが確信できる唯一の事実とは、
あなたは在るということだけだ。
「私は在る」は確かだ。
「私はこれだ」は確かではない。
真実のあなたとは何なのか
それを見いだすために努めなさい
あなたが何なのかを知るために
あなたが何でないかを知りなさい
あなたではないものすべてを発見しなさい
身体、感情、思考、時間、空間、あれこれ
具象であれ、抽象であれ
あなたに知覚できるものはあなたではない
知覚するという行為そのものが
あなたの知覚するものが
あなたではないことを示している
マインドのレベルにおいては
あなたは否定的言語でによってしか描写できない
ということをより明確に理解するほど
あなたの探究はより早く終焉を迎える
そして、あなたが無限の存在であることを悟のだ
----
わたしは在る
そして私が在るゆえにすべては在る
「私は誰か?」という質問に答えることは出来ない
いかなる体験もそれに答えることは出来ない
なぜなら、真我はそれを超えているからだ。
(シュリー・ニサルガダッタ・マハラジ)
・・・・
外の世界の様々な出来事や事象に意識をやっているかぎり、
いつまでも外の世界に振り回されることになる。
外の世界の中に、雑多な事象現象のなかに、
か弱く小さな肉体としての私が存在していると想っているかぎり、
その閉鎖された観念世界、一見安定なマトリクスで苦労することになる。
いままでのように。
なぜ苦労するかといえば?
なぜならば、それは本来の姿ではないからだ。
苦労や苦痛は他者があなたに押し付けるようにみえて、
まったくそれは違っている。
社会が悪いせい? その中の人間達が悪いから?
実際、それも違う。
押し付けられるような、押しつぶされるような、
小さくか弱い「あなた」をそこに作り出しているから、
怯えて、怒って、嘆き続ける・・
小さくか弱い「わたし」をそこに創りだしているからこそ、
わざわざ、それに感情や思考のゴミを押し付けてくる他者がいてくれるのだ。
どうしてこんな風なんだろうか、こんなに不幸なんだろうか、
どうしていつもどこか不安なんだろうか、
どうして・・・。
苦痛や苦労は・・・「それは違うよ・・」という合図。
あー、嫌だ・嫌だ、こんな人たち、こんな世界・・と思っているならば、
その人は、嫌な目に合う小さき人を、好き好んで自ら演じているということだ。
えー、ばかな! 自分が悪いだと? 俺は悪くない! いい加減にしろ、と、
こころが感情に震えて怒り狂うか、しゃがみこんで嘆き悲しむか、
恨みに燃えて復讐するか、逃げて隠れておびえるか・・・
そういうこころのパターンの繰り返しだっただろう。
あなたの意識があるからこそ、世界を見て、聴いて知ることが出来る。
あなたの意識があるからこそ、人々を観て、聞いて関係することが出来る。
極めて、極めてシンプルだから、何千年も気づかぬこともあるものだ。
本来の自己を忘れるこの世界で、忘れたまま、生れては死んでの繰り返し、
それすらも覚えていない・・この世界における、そんな魂の学習は終わったのだ。
それとも、苦痛と快楽の狭間の・・経験を・・もっとやりたいのだろうか。
あなたの意識、われ在り・・という自己認識、
それがなくて世界も宇宙も・・観測できないことを思い出そうか
この世界に生まれる・・という物語が無くて、この世界を知ることは出来なかった。
そうだろう?
意識を有する人々がいたからこそ、世界の記録が残っているのだ。
過去の歴史や事実記録さえも、そういう他者たちの知覚の寄せ集めに過ぎす、
例えば、宇宙の中にどこにも人がいなくて、どうして世界を認識できるだろうか?
宇宙や自己を「認識する」働きが無くて、どうして宇宙やわたしがあるだろうか?
宇宙のどこでも、その叡智を全て自己投入しているのが創造の根源ならば、
無限の愛や叡智が、どうして出し惜しみをするだろうか。
嗚呼、そう! 自らが・・本質においては、
無限の叡智、生命の根源であることに気づかなければならない。
世界が有って、宇宙が有って、・・わたしがあるのではなく、
わたしが在るからこそ・・・世界や出来事、多くの人々を知覚できるのだ。
そういう無数のわたし達が在るからこそ・・多次元宇宙、存在諸世界が展開されている。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。