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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

神性の臨在(1) 超越体験

2010-07-05 08:21:03 | 偉大なる先達の言葉

世の中で、ただ漠然と生きていることを体験している人々は多いのかも知れない、がしかし中には「意識の進化」ということに気づいている人々も多いだろう。

意識の進化とは、物質肉体を強靭にするという意味でもなく、精神を鍛えあげるという意味でもなく、こころを無にする努力でもなく、その時々の生存形態、意識のスケールによって演じながら、ただ本来の自己たる神性、すべてのすべての根源である「わたし」に気づいていくプロセスのことだ。

それぞれの「わたし」が、神性そのものである真我に拡大・浸透してゆくプロセスであるとも言えるだろうか。

今我々が歩いている道のことでもある。

あなたもわたしも偶然に生れて、うつむきかげんで生活し、そのうち死んでゆく肉体人間どころの話しではないのだ。

無限とは思い描くことの出来ないものであり、今の我々が有限を演じることで様々にその無限を引き出しているともいえるのだ。無限、それは、神、根源、内在神、宇宙意識とも言われている。我々はそれぞれが無限から生れたものであり、それぞれは無限を本性としている。

我々は無限者からやって来ているのであり、変化する世界での目先の体験への固執も執着もまったく見当違いであることがわかれば、どのようなことにも、こころ穏やかに微笑むことすら当たり前であることなのだ。

集団無意識のなかの卑屈な自己認識によっては、誰か他の人、そしてあなたが幸せであることはないだろう。逆に太陽のような暖かさと明るさこそが、あなたやわたしの本当の属性であることに気づくことだ。それが素の在り方というものである。

レンズである、こころのパターン、癖を取り除くのが人々のいつもながらの喫緊の課題なのだ。

Nature1011  

・・

精神科医であり、キネシオロジー等による意識レベルの測定を体系づけたデビッド・R・ホーキンスは、幼児期にいわゆる超越的意識体験をしたことを著作に示している。

超越意識体験とは、すなわち無限のわたしという、素の意識に完全に気づいた瞬間のことだ。立ち騒ぐマインド、思考、感情などが、何らかの状況で静止した瞬間に、それぞれのわたしが、本来の「わたし」に瞬時に拡大・シフトする事といえるかも知れない。

これは多くの人々に大なり小なりあることであるが、せわしいこころが眼に見えるものだけに馴れてしまったせいで、皆目気づかないのが本当のところだ。

単に意識の焦点とも言うべきものが、大いなる神性、無限者としての自己にでなく、五感に映りこむ刺激の方に固定されているというだけのことだろう。

 

彼は精神科の臨床医として活躍をする傍ら、悟りのプロセスをその人生自らで体現してきた。キネシオロジーという、簡素であるが確実で高度な手段を確立し、意識のレベルの測定というある意味で客観的な手法をもたらした。

彼もまさしく覚者であり、マハラジ、ラマナ・マハルシ、その他大勢の地球に降り立った教師達の一人であると思われる。

 

・・・・・・

「わたし」真実と主観性 デビッド・R・ホーキンス著 立花ありみ訳 (ナチュラルスピリット刊)より

P16-18

わたしの生涯を通しての強烈な意識の状態は幼年期に始まりました。それは最初にインスピレーションとなって現れ、その後、主観的悟りのプロセスを進むための指針の役割を果しました。

わずか3歳のときに、突如存在のあるがままの状態に完全に目覚めるという現象が起こりました。非言語的な部分で深遠な”存在”の意味を完璧に理解するとすぐに、そもそも”わたし”は存在していないのではないかという身も縮むような恐ろしい洞察が訪れました。

おぼろな意識が突然、自覚的な気づきに目覚めた瞬間に、個人的な自己が生まれ、”IS (そうである状態) ”、IS NOT (そうでない状態)”の2元性が主観的意識の中にたち現れたのです。

子供時代と思春期を通して、存在の抱える矛盾と自己の本性への問いが絶えず心を占めていました。

時折個人的自己がより大きな非個人的な「自己」の中にすべりこむと、当初の 非-存在 (non existence)の恐怖---無に対する根源的な怖れ---が再燃しました。

ウイスコンシン州の田舎町で、十七マイルのコースを自転車で回りながら新聞配達をしていた1939年の頃、家から数マイル離れた真っ黒な冬の夜道で氷点下20度の猛吹雪に襲われたことがありました。自転車は氷の上に倒れてしまい、荒れ狂う風が新聞を荷台からもぎ取り、雪に覆われ凍結した地面一体に吹き飛ばしてしまいました。

悔しさと披露の涙がにじみ、着ていた服は凍り付いてこわばっていました。わたしは暴風から逃れる為に、高く積もった雪堤の凍てついた外壁を砕いて隙間をつくり、中に滑り込みました。

程なくすると震えが止まり、えも言われぬ温かさに包み込まれ、あらゆる描写を超えた平安が訪れたのです。

そこには本質と不可分の始まりも終わりもない、光と無限の愛の臨在が充溢していました。

肉体と外界の感覚が薄れていき、気づきはあまねく存在する光に照らされた状態と融合していきました。

こころに静寂が広がり、あらゆる思考がやみました。

 

「無限なる臨在(プレゼンス)」が存在するものすべて、あるいはそこに唯一存在できるものとなり、時間もいかなる描写も超えていました。

 

どれくらい時間が経ったのでしょうか。何者かが膝をゆらし、不意に意識がも戻りました。--そこには不安げな表情をした父の姿がありました。肉体とそれに付随するすべてに戻ることはひどく億劫でしたが、父の愛と苦悶のおかげで、「霊(スピリット)」は肉体に滋養と活力を注いだのです。

父の死への恐怖に同情しましたが、同時に死という概念そのものが不条理に感じられました。

 

(つづく)

Nature2003

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太陽の恩返し?

2010-05-16 15:40:05 | 偉大なる先達の言葉

ロバート・モンローは知る人ぞ知るへミシンクの発明者である。左右の耳から約4ヘルツ程度の差のある音を聞くことで、左右の脳の働きを調和させ、意識の拡大をすることが出来ることを発見した人である。

日本でもそれを発展させるべく活動しているのが、坂本政道氏である。数多くの出版本もあるのでご存知の方もいるだろう。

その著作には相当なことが書かれているのだが、常識的な観念にある人々にはなかなか理解出来ないかも知れない。今はピラミッドに関する研究をしているとのことで、その模索は最近の著作「ピラミッド体験」にも書かれている。

 

彼の著作のすごいところは、実際に自分で意識的体験を行いながら、その未知なる意識を拡大しているところである。なんと銀河の中やその向こうにも軽くフォーカスしているようだ。

 

意識による存在世界のあらゆる所へのアクセスなど、一般的な常識では到底考えられず、なにか荒唐無稽の物語を言っていると考えるだろうが、あれは真実を言っていると思う。

彼は、地球の周囲及び地球を取り巻き、あるいはそれを含む無限の宇宙の仕組みを果敢に実体験して紹介している、魂レベルの猛者であると思う。

私自身も似たような意識体験が多々あるのだが、彼の比ではない。しかしながら、意識による宇宙旅行や地球のフォーカスレベル、時空の層での諸体験は間違いなく頷けるのだ。

例えば、UFOの目撃も、臨死体験も体脱体験も、それらは実際に体験してみなければわからないわけだが、我々が単に物質肉体であると言う信念体系に捉われている限り、意識的な拡大は難しい場合もあるようだ。

坂本政道さんの縦横無尽の体験報告、

 

 

例えばこうである・・・、

「ピラミッド体験」(ハート出版)より、

p61・・・

このセッションはベッドに腰かけ、パソコンに直接記録をとりながら体験することにする。枕もとのランプのみをつけておき、パソコンのキーボードが見えるようにしておく。

F34/35(フォーカス34,35の意識層)へ到着。V8内にいる。何も見えない。真っ暗だ。個人用の探査機PODに乗り込む。ガイドもいっしょだ。太陽へ向かうことにする。

透明で大きな球体が見えてきた。真っ暗な中に縁だけなんとなく見える。

太陽と交信する。

 

あなたのことはよく存じていおるぞ。小さき者の子供の子供よ。よく来られた。まあ、前にも来られてはいるが、今回は何じゃ。何がお望みじゃ。」

 

「2012年について話してください。」

 

「いいだろう。これは地球生命系だけではなく、太陽系全体、あるいはその近くの星たちにも影響がある。我々はわくわくしながら、前から待ち望んでいたのだ。大きな変化が起こる。それは惑星によって異なる変化だ。太陽自体も変わる。」

 

「どう変わるんですか?」

 

「一緒に考えよう。そういう共鳴状態に入るほうがいいだろう。」

 

太陽と自分の意識を同調させることで、共鳴意識状態に入り、一緒に考えることができるようになるのだ。これについては、以前バシャールとの交信の際に体験していた。

 

「実はこういう共鳴意識状態が、今後は一般的になる。あなた方も我々と意識を合わせようと思えば合わせられる状態になる。惑星の意識にも合わせられるようになる。今あなた方がヘミシンクでやっていることが、もっと一般化するのだ。人々の意識があらゆるものと共鳴し、より調和のある世界になっていく。

 

それは地球上だけに留まらず、地球意識や惑星意識、太陽系意識との共鳴、あらゆるものとの共鳴が起こるようになり、共感を持つようになるのだ。

 

これはすばらしいことだ。人類や地球では、それは第3密度から第4密度への移行というふうに言うことができるかもしれない。

Glowingsunsunprominencega

・・・・中略・・・

 

「あなたの段階では何を学ぶのですか」

 

「愛をこの物質次元で周りの空間へ放出すること、それが周りへの奉仕であり、また源への愛の恩を返すことになる。源にはものすごく恩をうけているのだ。それを愛情をまわりへ放射することで、まわりに奉仕することで、恩返しをしているのだ。

 

それは喜びだし、自分も満たされるのである。あなたもそれと同じことを徐々にし始めている。

 

そういう意味では全ての生命体は同じことをしているのだ。わたしの場合はそれを太陽系という大きなスケールで行なっている。ここに住まう多くの生命体たちを育み、慈しみ、成長を促がしている。

 

それが恩返しである。喜びでもある。純粋な愛と喜び、それを実行する。その中に自分自身の気付きと意識の拡大がある。それによって、更に上の知覚へと進むことができる。」

 

「あなたにとって上とはどういうレベルですか?」

 

「それはまだわからない部分があるが、1つの可能性としては、他の形の天体や銀河といったものだ。」

 

「誰が選択するのですか?」

 

「もちろん自分で選択するが、私を導く存在達との相談もある。」

 

「誰が導いているのですか?」

 

「銀河系の高次のスピリットたちだ。ヒエラルキー構造になっている。銀河系の下にはローカルなグループもあり、そこにもリーダーたちはいる。彼らの導きもある。が、基本的には銀河系の中心にいる存在達だ。」

 

「もう時間になりました。どうもありがとうございました」

・・・以上抜粋。

  

・・・という具合である。

 あらゆる全てが意識的な存在であるということに理解が至らない場合には、いったい全体何を言っているのかわからないだろう。ましてや「太陽とコミュニケート」するなんて、おとぎ話か昔話のようにしか感じられないかもしれない。

太陽も意識の発現せるものであり、いわば共通の搬送波のような根源意識波動に乗れば、意識体同士のコミュニケーションが可能ということである。相互の意識的な深さの違いにより、こちら側の受ける印象に多少とも変換されたものが混在する場合があるものの、それらは確かに生命同士のコミュニケーションであると考えることができる。

 

実のところ、自分も太陽まで行って還って来たような半覚醒夢があるが、その時にはなにか太陽の波動の中に、複数の高次の人存在的な意識を感じたのだ。その時は、いつの間にか太陽近辺にいる自分に気づき、いつものように状況の異変に「あっ」と驚いてしまい、早々に退散しようとして視点を移動させながら太陽の球体表面を見たところ、そこに、こころを込めて手を振るような人影、いや人型の光のようなものを見たのだ。「えっ、なんだ~!!」

 そのこころを込めた手を振るような挨拶は、どうしても言葉に表しようのない「温かさ」を感じたのだ。たしかにこの世のものではない暖かさである。言わばハートから搾りだされるような温かさである。

一説によれば、太陽は熱くないと言われており、それは多元的な存在層のことを知っているのであろう。

もちろん、その時に訪れた太陽とは、その存在形態の「物理現象面」ではなく、地球にもあるような多層のフォーカスレベルでの訪問だったかも知れないし、また物質表現の裏にある因としての意識の本体の層へのアクセスであったのかも知れない。

人間は肉体であるという観念は、今は昔の物語となりつつあるのかも知れない。それが故の様々な競合や争い、生と死のこちら側で眠っていた人類は、その広大な本来の意識存在になりつつある、いや、戻りつつあるのだ。

あなたはどう思うだろうか。

Nature1012

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すべては大いなる意識である

2010-04-17 10:38:25 | 偉大なる先達の言葉

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Who Cares?!「誰がかまうもんか」 ナチュラルスピリット  より

ラメッシ・バルセカールはあのニサルガダッタ・マハラジの弟子といわれている。1917年にインドに生れ、大学を卒業後、銀行に務めながら、妻と3人の子供を養い、最後には頭取として手腕を発揮する。退職後、ニサルガダッタ・マハラジに出会い、覚醒する。以後、欧米やムンバイの自宅で、世界中から訪れる探求者たちの質問に答える日々を送り、2009年9月に92歳で生涯を終える。

・・・・

 

 

・・・・以下 同上書p27~28より抜粋

「ラメッシ」

わたしには教えの基本があるのでしょうか? はい、あるんですよ。私の教えの基本は、

「意識が存在するすべてである・

つまり、「誰」もどんな行為もしていない。

神の意志がなければ、何ごとも起こらない」というものです。

そして、わたしが「神」と言うとき、

この現象界の内側や外側にいる、全能なる存在のことを言っているのではありません。

私が「神」と言うとき、それは、源泉、意識、つまり二番目のない一なるものを意味し、

その中で、現象化が起こっています。

仏陀は次のように言っています。

「出来事は起こり、行為は為されるが、そこに個々の行為者はいない」。

 これが基本です。

 これ以上短くシンプルな言葉でこのことを表現できた人はいないと思います。

出来事は起こり、行為は為されるが、そこに個々の行為者はいない。

ですから、個々の行為者がいないのであれば、「誰」がそれをするのか、という質問は不適切です。

けれども、知性が質問して、答えを得なければならないというなら、知性は、「誰の行為か?--神の行為です」と教えられるのです。

 

・・・・以上抜粋

 

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あらゆるすべては「意識」であり、「個々の行為者」はいない!?

これらが頭だけでなく、いわゆる感覚・ハートでわかる人は、すでに真の「あるがまま」 を理解している人であると思う。

 

●世に言う人格はエゴで流されている 

我々が自己と思っているバラバラの個我のこころ、逆に言え

ば社会で法的に平等と認められている?個々の「人格」ということも言えるのだが、その、極めて大切に扱っているその個我の人格達は、いわば「エゴ」で流されている。

「エゴ」とは、相対的な世界で自己だけは生き残るのだ・・という適者生存の催眠による想いや行動であり、それはまた「肉体」のみが自己であると言う目先だけの狭い見識に閉じこもっている意識の段階を示すものである。それらを人類が様々に強く主張し続けているその先にあるものが「不幸」「争い」「戦争」である。

肉体が自己であるならば、当然それに執着する傾向が否めず、その維持と物質環境の向上に「死ぬまで」走り続けることになるだろう。大なり小なり、また程度の差はあれ、あなたや私たちもそうではないか。

ぶつかって行くか、逆に逃げてしまうか、それらは同じ線上の行為にすぎないのだ。

 

●個我は別の個我を批判し裁く

例えば、今の我々の経済社会生活で眼や耳にすることは、何をどう取り繕ってみてもその個我の自己主張的水準にとどまっていることを示している。やれGDPだ、やれどこの国に勝った負けた、やれ政治家が馬鹿だからだとか、やれすべては巨悪の陰謀であるだとか・・、

結局は無意識的に、今の自己の不遇、不快さの原因を自己より強そうな不特定他者に擦り付けることに終始していないのか。

 

肝心な理解は、この世界のどこの誰でも自由に自己を表現しているということであり、それが良いとか悪いとか評して、他者を結局は裁いているようなことであるならば、裁かれる者と変わりがないということである。

この世界がどのようになるか、全て人間が決めてしまう・・という驕りがどこかにあるがゆえに、同類である人類の所作を気にして恐怖し、それをやめさせなければならない・・それを改心させなければならない・・社会全体を改革しなければならない等という想いになるだろう。

 

●社会変革という虚妄の観念

社会改革の観念・・ここには大きな虚妄があるのだ。人のためと称してその人々の血を流してきた歴史、カルマの車輪のように繰り返す人類の歴史を見れば、もう充分理解可能ではないのか。外の世界の改革や変革の掛け声についていった先は、いつも騙しであり、失望である。

なぜなら自己を見ずにあくまでも自己を救ってくれそうな他者を見ている過ちを犯しているからだ。

いつの時も外から聞こえるハーメルンの笛は聞こえが良いものだ。

「この時代」の最終幕においても、またその虚妄に巻き込まれるような意識は持たないが良いと思う。

例えれば、世界で1つの政府などは、人類の今の意識においては人為的な最終で最大限の虚妄であろうか。

今の個我の意識の段階での形ばかりにユニティは、まさにこれでドン図まりであり、それ自体エゴ的な人間文化の最終章となるだろう。外の刹那の世界に幸せと安寧を求め続けた人類の悲願は最後の仇花となるのだ。

 

●誰も何も裁けない

それは例えれば、卒業の問いの1つともいえるものである。

我々が裁かれたくないように、他者も裁いてはならない。

何も裁いてはならないのだ。なぜなら宇宙の根源意識が自己を裁くこと等ないからだ。我々が裁かれたくないように、他者も裁いてはならない。この意味はそういう意味である。我々自体が宇宙の根源意識そのものであるからだ。

分裂、それはまさに今我々の行っている個我の意識のありかたである。個我の我々が、自分が何が何だか解らない有様は、はめ絵の1ピースが全体像を忘れて右往左往しているありさまともいえるだろう。例えば権威や権力の言いなりになるのは、わけのわからない1ピースが別の、それに輪をかけてわけのわからない1ピースにものを尋ねているようなものではないか。話を聞くなら別に問題はないが、鵜呑みにしたり、それに支配をゆだねたり、あるいは喧嘩を始める始末はなんとも言いがたいではないか。

 

●必要なのは「個我意識」(エゴ)の浄化である

変えるべきなのは、常に「わたし」、自己自身なのであり、それは小乗・大乗という枠にはまるようなものではない。また古い・新しいというものでもなく、いつの時代も常にそうであるところの自己発見と刹那の個我からの卒業なのだ。

自己を変革せずに、どうして他者を変革できるのか?

また自己が己を変革できれば、そこには変革すべき他者はいないのだ。

それは確かに、一時は苦渋に満ちた方向転換であるかも知れないが、自分という存在の中心の方向を観なければならない時期にあるのだ。自己を観るとは、自己の想いと行動を観ることであり、それを観察し、自己の自己たる存在を顕現せしめている有様に気づく行為なのだ。

人間は確かに肉体という高度な有機生命機能を使っている。ラメッシはそれを「肉体精神機構」と言っている。すなわち、人が人間と思っているものは、肉体と精神の複合体・・ともいえるものだ。別表現をすれば、常にプログラミングされている身体ともいえるだろう。極端に言えば、プログラムの組み込まれた有機機械体と言っていいかも知れない。確かにこれは、我々が思っているところの自己に相違ない。

 

●まず「エゴ」に気づく必要がある

朽ち果てるべき肉体・・それが我々であるという唯物的な自己像ではないか。

その自己像のお陰で、世間での競争と騒ぎがあり、他者の動向を覗くためにニュースがあり、膨大な自己主張群を綱引きし平均化する非効率極まりない政治があり、さらにそれを利用する狡猾な支配が蔓延るものだ。

朽ち果てるべき肉体に執着することを、いかさま「生」への意欲と勘違いしてしまう。また肉体の維持と存続にかかわる本能的な所作を「愛」と勘違いしてしまう、それらがゆえに様々な不幸といわれる体験を繰り返すことにもなるだろう。

自己への執着は正当ではなく、それは単に執着なのだ。それが外れるのが悟りであり、朽ち果てるべき虚妄の肉体自我からの解脱なのだ。自我から外れた存在は、本来の「わたし」に戻ることになる。

自我(エゴ)はそれを怖れるのだが、その怖れ自体がまさに不幸の元であり、実は逆に快楽や見栄えを追及する「エゴ」にとっても不幸であることが解るまでのことなのだ。

虚妄の自己が虚妄であるがゆえに起こす不幸や難儀を、その虚妄の自己が悟るまでのことだ。エゴ自体がエゴにとって宜しくないと解ったときには、どうなるだろうか。エゴは自らに飽きる時が来るだろう。

「わたし」は(わたし)であるところのものである。

常に自らを創り続けている意識・・大いなるもの・・それが「わたし」であり、「エゴ」も、大いなる意識の読みふける一時の物語のようなものなのだ。

・・・

・・・

ラメッシ・バルセカール(1917~2009)の言葉は極めてシンプルであり、理性的でもあるが、その格調は遥かに高いところにある。

誰が、どんな地位の人が、どんな経歴の人が・・というような余計な、理解の障りとなるようなものは関係がない。どこの「誰が」何を言うのか?ではなく、そこに「何が」語られているのか?だけが重要なのだ。

 

彼が言うには、

 

「意識が存在するすべてである・

つまり、「誰」もどんな行為もしていない。」

 

それぞれが、行為者であるという自覚をしているところの個別の自己はいないいうことである。「行為者」とは分裂した個我のことを言う。

実は、バラバラの個人は本質上は存在しないということであり、逆に雄大な宇宙意識、一なる根源、それそのものの個別表現としての人間があるのみということであろう。

まさに「天と地」ほどの自己認識の違いともいえよう。

「えーっ・・自分はいないの?」

普段「わたし」と思っている「個我のわたし」が、実は存在しないと言われて「怖れ」を感じない者はいないかも知れない・・

多分、その時、わたしは「エゴ」のわたしを感じているのだ。

まさにそれで良いのかもしれない。

我々の真に克服すべきものがそこに現れた証拠なのだから。

 

実のところ、克服すべきものはどこにもなく、もしどうしても・・あるとしたいならば、それは・・ただ「わたし」自身なのだ。

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桜はいいですね。

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今はいつも奇跡の瞬間

2009-12-06 13:31:27 | 偉大なる先達の言葉

●わたしは誰か

我々は皆自分自身を自分であると「自覚」しているように見えているが、実のところ、「自分とは何か」ということが、良くわかっていないのではないだろうか。

それでも、「わたしは、何年何月の生まれで、名前は何々で、こんなことをやってきました。年は何歳・・です。」 と言うかも知れない。 身長は、体重はこうです。わたしはそういう者です・・と、またこういう思想をもち、趣味はこうこうです・・と言うかも知れない。

自分の体験したことの、気付く限りの全てを言えば、「わたし」という者を説明できると、漠然と感じているのかもしれない。

多分、そうではないだろうか。

多くの人の言う自分、わたし、それらは殆んどの場合、身体とこころの「履歴」を言っているのではないだろうか。それは「わたし」が経験したことの「記憶」断片のことではないか。

つまるところ、わたしと思っているわたしとは、「わたし」の「記憶」でしかないのではないか。

しかしながら、われわれの認識している「記憶」というものは、その時々に想起する1表面だけのものであり、「そういえばそんなことも有った、こんなこともあったぞ・・」というように、後で気付くことが多いものだろう。これだけとっても、今想起することの出来る記憶だけで、それが「わたし」自身であると言うことは出来ようはずもないのだ。

あなたは誰なのか?

  

●「わたし」とは、「記憶」なのか?

もしそうであれば、一時のショックで記憶を失うような場合や、何らかの身体・頭脳の変調で記憶喪失になった場合は、その分だけ「わたし」というものが失われるのだろうか。

普通に「あなた」だと思っている自分、それは「あなた」自身ではなく、あなたの「記憶」なのではないか。それも、表面意識に浮かぶ、思い出せることだけの「記憶」であると思っているのではないのか。

確かに「記憶」がなければ、いつもまっさらの画用紙のようなものだろう。

そう、多分あなたやわたしの記憶が「あなた」や「わたし」であると思っているのかも知れない。

普通に思っているように、人生の過去の記憶の断片の集合が「あなた」や「わたし」なのだろうか。

・・・

しかしながら、それは単に「わたし」の歩んだ過去の軌跡、航跡のようなものを言っているのではないだろうか。

それは、例えば、画用紙の「絵」のことを言っているようでもある。

画用紙に描かれた「絵」(人生の記憶)が、「わたし」自身なのだろうか。

いいや、ちがう。

 

●自分の記憶は、即、自分自身ではない

確かなのは、今この瞬間にそれをそうとして認識している、意識している「わたし」がいる・・ということだけなのではないか。

「あなたは誰」・・・と問われて、あなたが色々説明しようとする「あなた」は、本当の「あなた」自身ではないのではないか。

「わたし」とは、画用紙に描いた「絵」なのではなく、その「絵」を描きつづけるところの者ではないのかということなのだ。

また、「誰か」が映画を観ている、あるいは創作しているとして、その映画の中味自体は「誰か」ではないことは自明であり、それを観ている、創作している当の誰かが「本来の誰か」ということだなのだ。

あなたの人生履歴、思い出す記憶の集合は、「あなた」自身では有り得ないということが、もう解るかも知れない。

ややこしく、難しく感じるのだが、すごく当たり前のことであり、すごくシンプルなこと。もっとも身近なことでもある。

 

●わたしとは今の瞬間の意識のことである

「わたし」という、いわば観察主体そのものは、過去にはなく「」あり続けていることは「実感」できるはずだ。毎日、毎分、毎瞬、無限に「」そうなのだ。

外の観念やイメージに自らを投げ込まず、できるだけ今という瞬間に気付いていること、これを意識的・意識の在りかたと言えるかも知れない。意識している自分を観ている生き方である。

それは、いわば過去を生み出し続けている、あるいは体験を続けているところの「最先端」の「わたし」に居るということも出来るかも知れない。

まさに、「わたし」とは常に今の瞬間にあり、そうであるがゆえに常なる変化であり、常に未知なるものである。またそれに気付いている意識、これを’わたしを観察している「わたし」’といえるだろう。

また、

変化し続ける「わたし」を、見続けるところの「わたし」は不変である。

変化し続ける「あなた」を、見続けるところの「あなた」は不変である。

また、実のところ、主・客は一体である。

 

●今に在り続ける自分に気づくこと

普段、自分自身と漠然と思っている「わたし」という存在は、想いや体験を通じて、

「常に今の瞬間を創り続けている者であり、それの体験を記憶し続けている者である」

という言い方が妥当ではないだろうか。

458pxsanzio_01_plato_aristotle  

●汝ら、汝自らを知れ

デルフォイの神殿に書かれていたという言葉、

「汝自身を知れ」という言葉の「汝自身」の真意の一端は、

「汝自身が今在る・・ことに気付け」 ということなのだ。

これは、意識している自己に意識的であるということであり、

自分が意識的存在であることに気付くということでもある。

自己に意識でないところの意識状態を「無意識」と呼び、

自らの意識に気付いている、意識している有様を称して、目覚めているといえるのではないか。

覚醒とは、自己の意識的あり方自体に、判然と気付いた状態の意識のことではないか。

確かに、当たり前のことであるが、ことさらそれを実感している瞬間は少ないだろう。あなたはそれに、気付いていたのだろうか。

それよりも、なによりも外の世界の様々な物事を自分の意識に乗せているだけの場合が多いだろう。我々人類が、あるときは、集団で眠れる者たちといわれる所以は、意識はあるが自らに意識的でない状態のことであろう。

自らを知る・・ということは、例えば自己の魂の何億年にもわたる輪廻転生を思い出せ・・と言っているのではないことはもう理解できるかも知れない。また神なる自己の存在を無限の時空に渡ってそれを証明せよ・・と言っているのでもないことが解るだろうか。

汝、わたし・・それは、過去の記憶でも、目の前に展開する宇宙の果てに鎮座まします超越的存在である「神様」でもないのが解るかも知れない。

それは、言葉を変えて言えば、過去という時間でも、無限の容量を生じせしめる空間でもないということなのだ。

汝ら、汝自身を知れ」  その汝・・知るとは、今この瞬間にある「わたし」を観ることで始まる

いつかどこかでもなく、遠くの果てでもなく、今有る「わたし」のことなのだ。

究極の一なる創造の根源は、今在るからこそ、その雄大な宇宙を今観ずることもできるのだ。

同じく我々も、今在るからこそ、五感も、想念も感情も体験し続けることが出来る。

「今在ることを観じ続ける」ことは、まさに創造に参加していることを思い出すということに繋がるのだ。

存在そのものに気付くということは、「それで、何が得られるのか?」という利得の問題ではないことに気をつける必要があるだろう。

「今在る」ことは時間や空間を確かに越えている。また社会の通念での利益の次元でもない。

 

当たり前のことにこそ偉大な真実があるということだろう。なるほど、灯台元暗し・・とはよく言ったものだ。まさに愛すべき宇宙的な冗談である。

自分に気づかぬ自分というあり得ないような有り方に気付いて脱帽しよう。

冗談も気付かなければ笑えるものではないようだが、ちょっと笑ってしまおうではないか。

いつでも、どこでもなく、たった今の瞬間に隠れていた「わたし」たちに脱帽しよう。

 

●わたしは在る

I am that I am.

わたしは私であるところのものである。ということだろうか。

「マハラジ」の言うがごとく、「今わたしは在る」ということそのものが、

過去になり続けるところの記憶を生んでゆくものであり、

その体験という記憶を創り続けるものは、

否応も無く、あなたやわたしの「」なのだ。

  

●人は、今の自己の想いを観るべし

その「今」を彩るのが、意識的存在である人間の「想い」だろう。

「想い」とは宇宙、森羅万象の因であるところの、大いなる意識波動の湧出である。

 

禅でもいうところの内観は、その自己に生じる創造の念、想念波動の有様を観る行為であり、意識的創造に参加する者の作法であるといえるかも知れない。

それは、観察のない無軌道な爆発ではなく、意識的な調和をともなった創造に参加していることを意味するのだ。

 

●あるがままの意識進化

人が人として、動物や鉱物や植物と違うのは、その意識作用の緻密さと深さ、広さにある。

鉱物、植物、動物も全て意識が宿っているといわれるが、その意識レベルでの学びの違いがあるというだけのことだろう。

それは良い悪い、低い高いではなく、学びのステージの違いなのだ。

それは 「あるがままの意識進化」 といえるものだ。

遅れているも、進んでいるも無く、良い悪いでもなく、大きい小さいでもない、あるがままの学びのプロセス、自己覚醒のプロセスを「意識進化」といえるのではないのか。

人間という「意識存在」は、その発する意識作用の自由度が飛躍的に拡大した存在であるという事が出来るだろう。どんな想いも、「意図的に」生じせしめることが出来る。創作も製造も構想もその現われなのだ。

嫌悪も理解も、侮蔑も尊敬も、執着も潔さも、全て「想い」によって生じるこころのパターンのことだ。

人間はその気付くすべての意識生命をサポートする責任があるが故にこそ「意識存在」というのだ。その「想い」を、いわゆるところの調和と愛の波動に乗せて様々に表現・創造してゆく、いわば責任がある。

どこか奪い続けるような文明文化はどういうことになるであるのか、それは自明ではないだろうか。

」できることは、まず自然へのこころからの感謝しかないのかもしれない。気付けば、いつでも方向転換だけは「」できるはずなのだ。

 

●全ては選択

洗脳とか、暗示とかという他者の働きかけの効果に従うのも、そうでないのも、全て自己の「決断」によっている。何も決断しないのも「決断」である。何も決めないということを「決めている」のだ。あるいは「選択」しているのだ。

無意識であるということもまた、意識的存在である人間であるからこそ選べる「状態」なのであり、無意識的な在りかたから、意識的になる選択をしてゆくことが「気付き」とも言えるだろう。

気付きとは、意識的意識の有り方を言うのかも知れない。自らの意識に気付き、それに意識的になることが重要なのだろう。なぜなら、我々は「無限」から生ずるところの「想い」にも、いまだ充分に気付いていないからなのだ。

それは「知らない」ことから「知る」方向への意識的目覚めであり、目覚めるに従いその視野が拡大するように、意識的気付きの範囲が拡大してゆくことを「意識進化」と呼んでもいいかも知れない。

 

●「わたし」とは何か

既知になった経験や体験は「あなた」自身ではなく、「あなた」の創造履歴ということだ。それを「記憶」といっても良いだろうか。

いつも「今在る」永遠なる存在である「わたし」には、この刹那の人生以外にも、膨大な「記憶」もあることが次第に分かることだろう。それを思い出してゆくことが1つには次元上昇というものであり、更に大いなる「わたし」に帰還してゆくということなのかもしれない。

次元上昇、次元降下、浮いたり沈んだりのように見える意識の進化のありかた、それは繰り返し・・ということではなく、変化・進化する波動のうねりであり、螺旋であり、また永遠の「今」の無限なる発掘作業ともいうべきものだろうか。

 

全ての人間に共通である「わたし」とは、

もと「ひとつ」であり、

また「多」であるところのものではないだろうか。

いいや、まさにそうなのだ。

120pxbodhidarma

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


悟りのプロセス(5) たった今、この瞬間

2008-12-21 11:02:07 | 偉大なる先達の言葉

 何かここしばらく同じ記事を書いているようですが、まさにそのとおりかも知れません。しかしながら、その時その時に本当に大切なことは、それ程多いわけではないようです。多様性に満ち溢れ、情報や物資が有り余った時代はもう過ぎようとしているようです。今の段階に必要なことは、本質に気づくことでしょう。我々自身が転びながら、躓きながらも、少しづつ灯りのあるほうに歩いてきたのだと思われます。

 現在の経済社会の一見すると嘘のような崩落は、多様性と分析、物質と仮想の名誉が1つの真剣なお芝居であったという事の現われでしょうか。

 我々は人生というかけがえのないお芝居のなかの、それぞれが役者であり、主人公であったということを、いま思い出すべき時ではないかと思います。役者兼シナリオライターでもあることを、思い出してよい時期なのではないでしょうか。芝居の中に繋がれた哀れな子羊役はもう終わりでしょう。

 想念や感情を自分で見ると言うことは、行為・発信している内容に責任を持つと言うことであり、またその想念や感情を味わいこそすれ、決して振り回されない絶対安心を得ることでもあります。大勢の我々が求めていた「幸せ」というものは、この「絶対安心」であったろうと思います。それは外界や他人の意図や振舞の内にあるのではなく、自分自身にあるという、最も単純な真理に、やっとの事で気づく瞬間なのです。

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エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」

日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修  より

問い 逆立ちしたって、「いま」自由になんてなれませんよ。わたしは、あいにく人生の嵐にうちのめされているところなんです。これはうそ、いつわりのない事実です。なにもかもが、めちゃくちゃなのに、万事オーケーだと?、自分に言い聞かせるなんて、自己欺瞞もいいとこです!

わたしにとって、「いま」はどん底なんです。さとりなんてひらけるわけがありません!せめともの救いはこの先いくらかは見通しが明るくなるだろうという、未来への希望だけなんです。

答え あなたは、自分が意識を「いま」に集中させている、と思いこんでいるようですが、実際は、まだ時間にとらわれています。わたしたちは、完全に「いまに在り」同時に不幸でいられることなど出来ません。

 あなたが人生と呼んでいるものは、厳密に言うと「人生の状況」なのです。それは「過去」と「未来」という、心理的時間の中に存在しています。過去にあなたの思いどおりにいかなかった出来事が、ありました。あなたはその出来事に抵抗し、「すでにそうであるもの」に、いま目を、そむけています。

希望は、たしかにあなたを前に進ませるかもしれませんが、あなたの意識を「未来」に釘付けにしてしまいます。未来に焦点を当てつづけると、「いま」への拒絶もつづき、従って不幸も永久になくなりません。

問い  わたしが苦しんでいるのは、過去の出来事がつくった「人生の状況」によるものだということは認めますが、それでも、いまの状況であることに変わりはありません!しかもそれが自分をがんじがらめにしていることが、なによりも不幸の原因なんです!

答え 「人生の状況」のことは、ちょっと忘れて、「人生そのもの」に目を向けてみては、いかがですか?

問い  いったいどこが違うんですか?!・・・

答え 「人生の状況」は、時間の中に存在します。

あなたの人生は、「いま」です。

「人生の状況」 は 「思考の産物です」

あなたの人生は「現実」です。

「人生にいたる狭き門」を見つけましょう。それは「いま」という名前です。あなたの人生を、「いまこの瞬間に」狭めるのです。

あなたの「人生の状況」は問題だらけかもしれません。(ほとんどの人の「人生の状況」がそうなのですから)。 

でも、「いま、この瞬間」に、なにか問題がありますか?

明日ではなく、十分後でもなく、たった、「いま」です。

なにか「いま」問題がありますか?

・・・・・・・・・・・・・・ 

思考が問題にまみれている時には、アイデアやひらめきがはいりこんでくる余地もありません。ですから、できるかぎり、自分の内面に、ある程度はスペースをつくるようにしましょう。そうすると、さまざまなごたごたの根底にある人生が見えてくるものです。

-------------------以上抜粋 

 Nature1013  

本日もご覧頂きまして誠にありがとうございました。