Who Cares?!「誰がかまうもんか」 ナチュラルスピリット より
ラメッシ・バルセカールはあのニサルガダッタ・マハラジの弟子といわれている。1917年にインドに生れ、大学を卒業後、銀行に務めながら、妻と3人の子供を養い、最後には頭取として手腕を発揮する。退職後、ニサルガダッタ・マハラジに出会い、覚醒する。以後、欧米やムンバイの自宅で、世界中から訪れる探求者たちの質問に答える日々を送り、2009年9月に92歳で生涯を終える。
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・・・・以下 同上書p27~28より抜粋
「ラメッシ」
わたしには教えの基本があるのでしょうか? はい、あるんですよ。私の教えの基本は、
「意識が存在するすべてである・
つまり、「誰」もどんな行為もしていない。
神の意志がなければ、何ごとも起こらない」というものです。
そして、わたしが「神」と言うとき、
この現象界の内側や外側にいる、全能なる存在のことを言っているのではありません。
私が「神」と言うとき、それは、源泉、意識、つまり二番目のない一なるものを意味し、
その中で、現象化が起こっています。
仏陀は次のように言っています。
「出来事は起こり、行為は為されるが、そこに個々の行為者はいない」。
これが基本です。
これ以上短くシンプルな言葉でこのことを表現できた人はいないと思います。
出来事は起こり、行為は為されるが、そこに個々の行為者はいない。
ですから、個々の行為者がいないのであれば、「誰」がそれをするのか、という質問は不適切です。
けれども、知性が質問して、答えを得なければならないというなら、知性は、「誰の行為か?--神の行為です」と教えられるのです。
・・・・以上抜粋
あらゆるすべては「意識」であり、「個々の行為者」はいない!?
これらが頭だけでなく、いわゆる感覚・ハートでわかる人は、すでに真の「あるがまま」 を理解している人であると思う。
●世に言う人格はエゴで流されている
我々が自己と思っているバラバラの個我のこころ、逆に言え
ば社会で法的に平等と認められている?個々の「人格」ということも言えるのだが、その、極めて大切に扱っているその個我の人格達は、いわば「エゴ」で流されている。
「エゴ」とは、相対的な世界で自己だけは生き残るのだ・・という適者生存の催眠による想いや行動であり、それはまた「肉体」のみが自己であると言う目先だけの狭い見識に閉じこもっている意識の段階を示すものである。それらを人類が様々に強く主張し続けているその先にあるものが「不幸」「争い」「戦争」である。
肉体が自己であるならば、当然それに執着する傾向が否めず、その維持と物質環境の向上に「死ぬまで」走り続けることになるだろう。大なり小なり、また程度の差はあれ、あなたや私たちもそうではないか。
ぶつかって行くか、逆に逃げてしまうか、それらは同じ線上の行為にすぎないのだ。
●個我は別の個我を批判し裁く
例えば、今の我々の経済社会生活で眼や耳にすることは、何をどう取り繕ってみてもその個我の自己主張的水準にとどまっていることを示している。やれGDPだ、やれどこの国に勝った負けた、やれ政治家が馬鹿だからだとか、やれすべては巨悪の陰謀であるだとか・・、
結局は無意識的に、今の自己の不遇、不快さの原因を自己より強そうな不特定他者に擦り付けることに終始していないのか。
肝心な理解は、この世界のどこの誰でも自由に自己を表現しているということであり、それが良いとか悪いとか評して、他者を結局は裁いているようなことであるならば、裁かれる者と変わりがないということである。
この世界がどのようになるか、全て人間が決めてしまう・・という驕りがどこかにあるがゆえに、同類である人類の所作を気にして恐怖し、それをやめさせなければならない・・それを改心させなければならない・・社会全体を改革しなければならない等という想いになるだろう。
●社会変革という虚妄の観念
社会改革の観念・・ここには大きな虚妄があるのだ。人のためと称してその人々の血を流してきた歴史、カルマの車輪のように繰り返す人類の歴史を見れば、もう充分理解可能ではないのか。外の世界の改革や変革の掛け声についていった先は、いつも騙しであり、失望である。
なぜなら自己を見ずにあくまでも自己を救ってくれそうな他者を見ている過ちを犯しているからだ。
いつの時も外から聞こえるハーメルンの笛は聞こえが良いものだ。
「この時代」の最終幕においても、またその虚妄に巻き込まれるような意識は持たないが良いと思う。
例えれば、世界で1つの政府などは、人類の今の意識においては人為的な最終で最大限の虚妄であろうか。
今の個我の意識の段階での形ばかりにユニティは、まさにこれでドン図まりであり、それ自体エゴ的な人間文化の最終章となるだろう。外の刹那の世界に幸せと安寧を求め続けた人類の悲願は最後の仇花となるのだ。
●誰も何も裁けない
それは例えれば、卒業の問いの1つともいえるものである。
我々が裁かれたくないように、他者も裁いてはならない。
何も裁いてはならないのだ。なぜなら宇宙の根源意識が自己を裁くこと等ないからだ。我々が裁かれたくないように、他者も裁いてはならない。この意味はそういう意味である。我々自体が宇宙の根源意識そのものであるからだ。
分裂、それはまさに今我々の行っている個我の意識のありかたである。個我の我々が、自分が何が何だか解らない有様は、はめ絵の1ピースが全体像を忘れて右往左往しているありさまともいえるだろう。例えば権威や権力の言いなりになるのは、わけのわからない1ピースが別の、それに輪をかけてわけのわからない1ピースにものを尋ねているようなものではないか。話を聞くなら別に問題はないが、鵜呑みにしたり、それに支配をゆだねたり、あるいは喧嘩を始める始末はなんとも言いがたいではないか。
●必要なのは「個我意識」(エゴ)の浄化である
変えるべきなのは、常に「わたし」、自己自身なのであり、それは小乗・大乗という枠にはまるようなものではない。また古い・新しいというものでもなく、いつの時代も常にそうであるところの自己発見と刹那の個我からの卒業なのだ。
自己を変革せずに、どうして他者を変革できるのか?
また自己が己を変革できれば、そこには変革すべき他者はいないのだ。
それは確かに、一時は苦渋に満ちた方向転換であるかも知れないが、自分という存在の中心の方向を観なければならない時期にあるのだ。自己を観るとは、自己の想いと行動を観ることであり、それを観察し、自己の自己たる存在を顕現せしめている有様に気づく行為なのだ。
人間は確かに肉体という高度な有機生命機能を使っている。ラメッシはそれを「肉体精神機構」と言っている。すなわち、人が人間と思っているものは、肉体と精神の複合体・・ともいえるものだ。別表現をすれば、常にプログラミングされている身体ともいえるだろう。極端に言えば、プログラムの組み込まれた有機機械体と言っていいかも知れない。確かにこれは、我々が思っているところの自己に相違ない。
●まず「エゴ」に気づく必要がある
朽ち果てるべき肉体・・それが我々であるという唯物的な自己像ではないか。
その自己像のお陰で、世間での競争と騒ぎがあり、他者の動向を覗くためにニュースがあり、膨大な自己主張群を綱引きし平均化する非効率極まりない政治があり、さらにそれを利用する狡猾な支配が蔓延るものだ。
朽ち果てるべき肉体に執着することを、いかさま「生」への意欲と勘違いしてしまう。また肉体の維持と存続にかかわる本能的な所作を「愛」と勘違いしてしまう、それらがゆえに様々な不幸といわれる体験を繰り返すことにもなるだろう。
自己への執着は正当ではなく、それは単に執着なのだ。それが外れるのが悟りであり、朽ち果てるべき虚妄の肉体自我からの解脱なのだ。自我から外れた存在は、本来の「わたし」に戻ることになる。
自我(エゴ)はそれを怖れるのだが、その怖れ自体がまさに不幸の元であり、実は逆に快楽や見栄えを追及する「エゴ」にとっても不幸であることが解るまでのことなのだ。
虚妄の自己が虚妄であるがゆえに起こす不幸や難儀を、その虚妄の自己が悟るまでのことだ。エゴ自体がエゴにとって宜しくないと解ったときには、どうなるだろうか。エゴは自らに飽きる時が来るだろう。
「わたし」は(わたし)であるところのものである。
常に自らを創り続けている意識・・大いなるもの・・それが「わたし」であり、「エゴ」も、大いなる意識の読みふける一時の物語のようなものなのだ。
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ラメッシ・バルセカール(1917~2009)の言葉は極めてシンプルであり、理性的でもあるが、その格調は遥かに高いところにある。
誰が、どんな地位の人が、どんな経歴の人が・・というような余計な、理解の障りとなるようなものは関係がない。どこの「誰が」何を言うのか?ではなく、そこに「何が」語られているのか?だけが重要なのだ。
彼が言うには、
「意識が存在するすべてである・
つまり、「誰」もどんな行為もしていない。」
それぞれが、行為者であるという自覚をしているところの個別の自己はいないということである。「行為者」とは分裂した個我のことを言う。
実は、バラバラの個人は本質上は存在しないということであり、逆に雄大な宇宙意識、一なる根源、それそのものの個別表現としての人間があるのみということであろう。
まさに「天と地」ほどの自己認識の違いともいえよう。
「えーっ・・自分はいないの?」
普段「わたし」と思っている「個我のわたし」が、実は存在しないと言われて「怖れ」を感じない者はいないかも知れない・・。
多分、その時、わたしは「エゴ」のわたしを感じているのだ。
まさにそれで良いのかもしれない。
我々の真に克服すべきものがそこに現れた証拠なのだから。
実のところ、克服すべきものはどこにもなく、もしどうしても・・あるとしたいならば、それは・・ただ「わたし」自身なのだ。
桜はいいですね。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございます。
マチョさんはいろいろな教材を持ってますね。気づきのエネルギーがそうゆうものを引き寄せるんですね。そして将来、義務教育で「気付きの時間」なんてのができたら、このブログがまんま教科書になりそう!
さて、本文の感想です。
一見はっきりとしたもののほうが実はまやかし、ってゆーのはもう地球での確かな法則みたいです。
「誰もどんな行為もしていない」ってなると、「じゃあ、今まで積み上げてきたものがすべて無駄なの!?自分は居ても居なくてもいいってこと!?」って思う人がたくさんいるかもしれないけど、実は無駄になるどころか、あますことなく活かされてるんですよね。むしろ自分が積み上げてきたって思ってる人のほうが、間違った、失敗したっていって、自分の中から葬り去った(つもりの)ものがあるだろうし。「大いなるもの」にとったら、なければよかった物事なんてないですもんね。
自分とは、「大いなるもの」が起こす数々の現象を間近で感じさせてもらえてる存在かな、と思います。大いなるエネルギーが通る窓口のような、フィルターのような…。だから本来は、身を委ねればよいのだから気楽に楽しめばよいのだし(苦しみが気持ち良くなってマゾるのは違うけど)、そんな機会をもらえてるんだから感謝だし。でも、どしても、その現象は自分が起こしてるって思ってしまってあがいてしまうのだけど。そうなるような催眠なのですよねー。
「それ、催眠ですよー。何もそこまでどっぷりとは言ってませんけどー。」ってゆうメッセージが各自の窓口を通っているのが今の時期でしょうか。
ゆっくり読んで頂いてありがとうございます。
おーっ、
あなたも、あなたの課題をしっかりと乗り越えたんですね。
・・・
何と言うことか、このような誉め言葉は、実にあり得ないようなことです。
・・・
有難う!!
(大笑)!![E:sun]
お元気されていますでしょうか[E:heart02]私は元気です(聞いてないって!!笑)
意識=無意識でしょうか・・・・?
時々私はこの世界が本当の世界では無いように感じる時があります。
この今いる世界(現実と認識している世界)は実は夢の中(無意識な世界)なのかもしれないと・・・・。
(現実逃避ともいうかもしれませんが。笑)
どちらが今生きている本当の世界なのだろうかと、混乱しそうになります。
もしかすると、集合無意識が創りだした、世界なのかもしれないなぁ~。
それを現実と思い込んでいるのかも。
でも、そうなるとほうぼうで起きている災害や戦争、暴力、殺人・・・・色々な出来事は人間の意識によって創りだされた現実なのかもしれませんね。
少数の意識は平和を創りだし、残りの意識がネガティブを生み出すのか・・・?
・・・・・・また頭が混乱してきた[E:sweat01][E:sweat01]
頭、おかしいのかもしれないですね私(笑)
あっ、話が先になって出し遅れました。
固くて、柔らかい薄皮饅頭です。
どぞ、
ああっ、お気になさらず・・・・・でも、お茶もってきて頂けると嬉しいなぁ~[E:heart01]
(大笑)
また、勝手に上がらせて頂きにきます。
追伸:最近、純粋科学を勉強したいと思っています。良い本がございましたらお教え下さいませ。
おーっ!元気ですね~。やはり何はともあれ一番です。
あーおう、薄皮饅頭ですか・ありがと。(ニコ・)
なんでもない温めの玄米茶ですが、どうぞ・・・。
・・・
意識⇔無意識でしょうか。
単にありてあるものの在り方の濃淡というか、遊びというか。毎日の目覚めた状態と睡眠中の状態のようでもあり、いつも我々体験していることですかね。
人間という現象表現においては、無意識とは自分が「何をやっているかわからない」状態の意識でもありそうです。
何をやっているか自覚できない部分だけ、災害、戦争、暴力・・という「後」で後悔することをやってしまうのでしょう。
自作自演の恐怖映画にはまっているようなものです。嫌なのか楽しんでいるのかわからない状態に「気づけ」ばもっと非常に楽しい映画を創りあげるようになるものです。
・・・いまその上演がちょうど変わるところでしょう。
「時間」とはこのようなことの為にあるようなものです。創造の因と果の間に時間が生じるようなもの。
純粋科学とはどういう意味でしょうか。もう少し具体的に言って貰えばありがたいです。
・・・
所謂、オーソドックスな科学?
これなら素粒子論や相対論でしょうか。
前衛的なまた本質的な科学?
シンプルで深遠なのは、Jアダムスキの「生命の科学」、これは本来の統合的な観点からの生命への気づきを示しています。いわゆる超常能力も普通に説明しています。
または最近ではアーウ”イン・ラズロの「生ける宇宙」などが素晴らしいですかね。物理科学からの宇宙全体意識への統合プロセスを表わしている。
また、超前衛的で大古代からの歴史では、足立育郎の真説「地球の歴史」がいいかも。なんと相当に古くからの地球における宇宙文明の栄枯盛衰が書かれています。(驚)
どこか3枚目的な「イシス」が超面白い・・みたいな。[E:happy02]
自己を変革せずに、どうして他者を変革できるのか?
また自己が己を変革できれば、そこには変革すべき他者はいないのだ。
上記の文が意識に響きました。
精神疾患は、その辺に置いて。明日から意識と相談しながら活動開始します。
このブログに出会えて良かったです。
これからも宜しくお願いします。
”このブログに出会えて良かったです。”
何よりのお言葉ですね。
有難うございます。
自分の世界の中心は・・わたし意識(魂)です。
他者ではありません。
わたし意識はすべての根源ともとは一つで、
そこからすべてが映し出されています。
他者は向こうから現れた・・わたしでもありますが、中心はあくまでもわたし意識です。
この理解がなかなかですが・・・。
本来、映し出された物質的・精神的幻影のことを気に病むことはありません。
映し出された幻影の・・何を気にするのか?・・・、どうしてなのか?・・、
殆どの場合・・自分の中にそのこだわり(感情的歪)があります。
この世界にいるすべての人たちは、
そのこだわり・歪を解消してゆくことで、根源に帰還してゆく旅人のようなものです。